KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

詩・「今」

灰色の塵が 積もり積もって

 


これからどこにゆくのだろう。

 


扉を開けるたびに思う。

 


明日は知らない明日がいい、と。

 


どうしようもない思いを

 

口にするのをやめにして

 


一体どれほど経つだろう。

 

 

 

いつになれば止むのかと

 

問いかけることもとうにやめた。

 


答えはここにない。

 


わたしは変われなかったから。

 


誰か 犯してくれ、

どうしようもないほどに。

 


いつまでもそう言って

いつまでもそうやって

 


足踏みばかり。

 


色がないのはわたしのせい。

変わらないのは 変わりたくないから。

 


今 もう一歩が欲しい。

 


その先に なにもなくても。

 

「驚異」を味わうことこそ読書の真髄。

先日、わたしは以下の記事で小説における文章について、「平易な言葉を使って優れた文章を描くことが理想」ということを言った。

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

今回はこの記事に補足してもう少し深い話をしたいと思う。

この記事において、わたしは難しい言葉に固執しすぎると「硬く流れの悪い文章になる」と言った。

 これは万人に対してわかりやすく書くべきだ、ということと同義だろうか?

否である。

特に文学などの領域においては否、であるとわたしは考える。

なぜなら、小説や評論を読むことの大きな楽しみの一つに

「未知の領域を味わう」

というものが少なからずあると考えるからだ。

 時々、読書をする際にすぐ挫折してしまう人がいる。もしくは数ページか読んですぐに「無理だ」と見切ってしまう人が。

 こういう人によく見られる傾向として、「読むからには内容の全てを理解しなければならない」という強い思い込みがあるように感じられる。

 わたしの大学時代の先輩にもそういう人がいた。その人の読書の仕方を否定する気はさらさらない。しかし、そういった読み方はわたしにはいささか窮屈に思える。

 

 わたしも時折、自分の能力を超えた本を手にすることがある。そういった本を読むとき、わたしは決して全ての内容を理解しているとは言い難い。これは単に読むフリをしているのではない。

要は能力以上の読書をしながら「自分の限界を知る」行為なのだ。

ここまではわかった。ここはわからない。

そういう部分を乗り越えながらとりあえず一冊を読見通す。時には読み通せないことだってある。

こういう身の丈以上の一冊に手を伸ばす行為はわたしに「理解の外」を味わせてくれる。

お前にはまだ、できないことがある。

知らないことがある。

わからないことがある、と。

わたしにとっての一番の恐怖はこの世に未知がないことだ。

何もかもを知り尽くしてしまったら、わたしの欲求は行き場を失いやがて腐ってしまうだろう。

 

読書とはわたしにとって、最も手軽に未知を味わうことのできる行為なのだ。

 

そして、「理解の外の世界」を味わせてくれる文章は「わかりやすくはない」が「優れたもの」であると言えるのではないだろうか。

 

本当に優れたものを読んだ時、人はそれをなかなか忘れられないものだ。一種のトラウマのように、たった一つの創作物が人生の一部のようになってしまう。わたしもそんな経験をいくつかしてきた。そして、このような文章は読者が内容をきちんと理解できているかどうかを飛び越えて衝撃を与えるものだ。

 

いつか、そんな驚異のある文章をわたしも描きたい。

 

 

皆さんはどんな読書をしているだろうか?

小説を描くのに必要なのは、言い回しの巧みさ。

 どうも。クロミミです。

 先日、ある方からコメを頂いたときに考えたことについて今回は語っていきたいと思います。

 皆さんは、小説を描くときにたくさんの語彙は必要だと思いますか?

わたしは必要だと思います。

 ただし、この語彙という言葉に惑わされてはいけないとも思っています。なぜならわたしが小説を作るのに必要だと思うのは、厳密に言えば語彙の豊富さではなく、語彙の一部である「言い回し」の巧みさであるからです。

 わたしの愛する素晴らしい作家たちの文章を思い返してみると、彼らの文章には決して調べないと分からないような言葉はほとんど使われていません。

 彼らの文章が優れているのは単に言葉が豊富であるからではなく、言い回しが豊富だからだ、と考えます。

それは「視点の多様さ」と言い換えることができるのではないでしょうか。

 わたしが読書をしていてこの描写がすごい!と思うとき、その作家の場面の切り取り方、視点の置き方、またそれを表現する言葉選びに独自性があることが前提条件であるように思います。この独自性を味わうことも読書の楽しみの一つではないでしょうか。

 

 では、なぜ小説を描く際、「語彙という言葉に惑わされてはいけない」のでしょう?

 この言葉はわたしの実体験に基づいたものです。単純にいうと難しい言葉、目新しい言葉に固執しすぎると、硬く、流れが悪い文章になりがちだからです。

「良い文章をつくる」ことが目的のはずなのに、「難しい言葉を使う」「かっこいい言い回しを使う」ことに目的がいつの間にかすり替わってしまう。こんな経験をわたしは過去に何度もしてきました。

語彙が豊富=良い文章

ではない。

言い回しが巧み=優れた文章

なのです。ですので、理想を言うのであれば、平易な言葉で優れた文章を構成するのが最高、ということになります。

 

ただし誤解しないで欲しいのは、決して小説を描く上で語彙は必要ないと言っているのではないということ。語彙が多ければそれだけ選択肢が増えますから、必ず描きやすくなります。優れた視点を持っていたとしてもそれを文章として表現する術を持たなければ意味がありません。

 

わたしは読書をするとき、作者がどのように視点を操っているか、どのように言葉を使っているかに注目しながら読んでいます。このような視点を持って小説を読むことは、間違いなくわたしの文体を醸成するのに大きな役割を果たしています。

 

 創作において、たくさんの優れたサンプルを手に入れることのできる読書という行為は小説を描く上で大きな手助けになることは間違いないはずです。

 

他の創作語りはこちら。

 

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

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「言えないから」小説を描く。

 

以前私はこんな記事を書いた。

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

 

 この二つのテーマは自作の小説でもよく扱うものだ。

 でも、こんな記事を書けるならわざわざ小説書く必要なくない?と思う人もいると思う。

 では、なぜ私は小説を描くのだろう?

 単に小説を描きたいから?何度でも表現したいテーマだから?もちろんそれもある。しかし、それでは不十分だ。

 わたしは「うまく言えないから」小説を描くのだ。

 前述した記事で、わたしは一応他人に分かるようにテーマについてひとしきり語った。でも、全然満足できなかった。

なぜなら語る過程で致命的に抜け落ちてしまった部分がある、と記事を書いている最中から感じていたから。大切なニュアンスのようなもの。本当に伝えたかった核の部分が損なわれてしまったのだ。

 

 こんな経験は一度や二度のことではない。人生上で幾度となくあった。言葉を尽してもどれだけ力を込めても伝わらない。そんな虚しさを何度も繰り返し味わってきた。

 そして、そんな虚しさからわたしを解放する唯一の手段が「小説を描くこと」だったのだ。

 小説では伝えたいことを、例えば人物の性格に託す。例えば人物の考え方としてこめる。例えば場面や状況を使って表現する。

 

 そうして小説を一つ書き上げた時、わたしはやっと満足することができる。

  「ああ、やっと全部言えた」と。

 小説を描くということは、テーマを常に何かに託して表現するということだ。ストレートに伝えようとすると変質してしまう何か。それは他のものに託されることによって、ようやくそのままの形で伝えることができるようになる。

 

 口に出して伝えられないことは山ほどある。

 わたしにとって、小説を描くことはうまく伝わらないそれらを、口に出す以外であますことなく伝える、ということなのだ。

 

 わたしはこれからも小説を描き続けるだろう。わたしの中に「言えないこと」がある限り。

 

なぜ皆さんは小説を描くのだろう?是非尋ねてみたいと思う。

小説描くなら徹底的に推敲しろ。

今回は、小説を描く上で必ずしたほうがいい推敲という工程について語りたいと思います。

 

  わたしは今「海のなか」という小説をこのブログで連載しています。実はこの作品、元々は短編小説なのです。

もとになった短編小説はわたしが高校一年の頃に描いたものです。

描いたその頃はこの短編が感触的に一番よく描けた小説でした。(いつもはこきおろす母が珍しく褒めてくれたもの、ということもありました。)

 その当時、わたしは並行して「β」という囚人脱獄ものの長編も描いていました。そして、思ったのです。あのうまくかけた短編(海のなか)をもっと長く描いてみたい、と。

 

しかし、なかなか長編として仕立て直すことができませんでした。いろいろ理由はありますが、一番はやはり自分の文章がちっともうまくならないから。

このままやってもうまくいかない、と直感的にわかった。

 そう。高校一年くらいの頃、すでにどうすればもっといい文章が描けるようになるのかが全然わからない時期が来ていたのです。

いや、正直めっちゃ辛かった。

これ以上うまくなれないかも、とか思うとすげーやりきれない感じで。

しかし、高校2年になってから一年以上晴れなかったモヤモヤが少しずつ晴れるようになってきた。

それは何故か。

それは、読み手を意識し徹底的に文章を推敲するようになったから。

もちろんそれまでも推敲していた。ここで大切なのは「徹底的に」という点。

とことんまで一つの作品の推敲を行うという行為は正直下手な短編小説を5本書き上げるより、文章力がつくのです。

書きっぱなし、出しっぱなしではいつまでも文章はうまくならない。なぜなら、小説を描いているとき筆者は絶対に冷静でないからです。

 

いろいろな小説家も言っていますが、小説、とくに長編小説を書くときは推敲までにそれなりの冷却期間を設ける必要があります。わたしも経験則上、長編ならば半年以上の冷却期間を設けるようにしています。

 

「海のなか」の場合、その冷却期間が長かった。およそ4年。これの長編化に着手したのは大学2年になってから。受験のせいもあり、かなり遅くなってしまいました。そして、一応書き終えたのは大学3年の夏休み。

 

そして、この後冷却期間をもう一度設けた。今度はこのブログを開設する昨年11月まで。

 

という感じで、大袈裟に言えば、わたしは一つの作品を約7年にわたって作り替えながらかいているわけです。

しかもまだ終わってない。全然終わってない。でも、この行為をして本当に良かったと思ったのは、2回目の推敲作業に入ってから。

如実に文体が良くなったと感じられるようになった。ちなみに二回目の推敲ではさらっと以前書いた文章を読んでから、それ以降は見ずに筋だけ思い出しながら書き直すようにしてます。

 元の文章がちょっとゴミすぎるので、引きずられないよう、このようなやり方をとっています。

 

自分のぎりぎり納得いく文章がなんとか描けるようになるまでに長い時間がかかりましたが、続けて良かったと思います。だって、わたしは頑張ればまだまだ良いものが描けるってわかったから。

 

これからも妥協せず推敲していきたいと思います。

とにかく文章がうまくなりたければ徹底的に推敲。それが遠回りのように見えて、実は近道なのです。

 

※なお、文中の「海のなか」は書き直す前でもノート6冊分とかなり長いので、気長にお付き合いくださると嬉しいです。(現状は元より長くなってます。)

 

「海のなか」はこちら。

 

 

 

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小説の書き方に正解などない。

どうも。クロミミです。

先日、ブログのpv数の合計が1000を超えて、うおおおおおお!!ってテンション上がりつつスクショしましたw

何ヶ月かやっていて1000超えるなんて、超ショボいのは重々承知ですが、それでもやっぱりテンションあがっちゃいますねぇ。むふふ。

最近はコメも何故かいただけて戸惑いつつも喜んでニヤニヤしてます。これからもあったかく見守っていただければ嬉しいです。

 

 

さて。今回は小説の書き方についての投稿をまたしたいと思います。

 

先日わたしは村上春樹の「職業としての小説家」を読んだのですが。(ハルキがすっっげーナチュラルにかっこつけた感じの表情と格好しててめっちゃ笑ける表紙です。ドヤ感がすげぇwwこの本についてもまた語りたい。)ハルキの小説の書き方や今までやってきた仕事、小説家になったきっかけなどが書いてある本書がわたしが最近自分の小説の書き方を文章化し始めたきっかけだったりします。

 そして、この本を読んで思ったことがまず一つ。小説の書き方って本当に人それぞれ。千差万別だってこと。

わたしは素人もいいとこですが、それでもハルキの小説の書き方を読んでいて、この描き方じゃわたしは書けない。とか、この部分はわたしとは違うという部分が意外にも多くありました。

 

しかし、それはどちらかが正しいというわけではないと思うのです。

そもそも、小説を書く方法は無限にあり、正解などないということなのだと。小説を書くという行為には絶対的な方法論も理論もありません。実際、わたしはそういう類のものを一度も読んだことがない。

 

小説を描くという行為には、ただ、その人その人に最適な方法が存在するだけなのです。

 

わたしは9歳の頃からずっと小説を描いてきました。何故かというと楽しいから。楽しくないことはできません。わたしは生まれながらの快楽主義ですから。

9歳で書き始めてから今までずっとどうすればもっと気持ちよく描けるか、もっと言葉の快楽を味わうことができるのかだけを追い求めて自分のスタイルを模索してきました。もちろん今も模索しています。

 

時々小説を書くことは大変だと言う人がいます。確かに大変かもしれません。けれど、何本も何本も描いていると、過程が大変であればあるほど素晴らしい変化が必ず待っているということがわかってきます。変化を味わうときの快感は何にも変えがたいものです。

小説を書くという行為はその時をずっと待ち続けるという行為でもあるのです。

 

なので、今小説を描いている方、描こうとしている方にはとにかく「楽しい」と思ってほしいな、と常々思います。

 

最近、わたしは偉そうに小説の書き方についていろいろ描いていますが、それはあくまで「クロミミの書き方」。絶対に正解ではない。

 

自分の感覚を大切に「わたしだけの書き方」をぜひ探してください。その過程もまた、楽しいはずです。

 

クロミミはこんな小説を描いています。

 

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小説のようだという褒め言葉が嫌いだ。

 よく漫画のレビューで、「まるで小説のようだ」という賞賛のレビューを目にする。

 言っている人に罪はない。だが、何故か毎度無性に腹が立ってしまう。

 何故だろう。

 それはきっと言葉選びの安易さを感じてしまうからだ。

わたしは

 小説のようだ=緻密で深い心理描写が素晴らしく心に響く作品だ

 という意味だと受け取っている。

 しかし、全ての小説はそうだろうか?

 ありふれた大衆小説よりも一部の漫画の方がよほど心の深部を描いているのではないか。

 漫画が子供のものである時代は終わりを告げて久しい。漫画は十分に大人の読書に耐えうる内容的な深みを持っていると思う。

 内容的な深さの比喩として「小説のようだ」という比喩を使うのではあまりにも足りないと言わざるをえない。

内容的な深みの素晴らしさに言及したいのであれば、せめて「文学的だ」というべきだろう。

 比喩というのは短い言葉で的確にかつ具体的に意図する物事や感情、状態を効果的に読む者に伝えうるものでなくてはならないはずだ。

 決して比喩は書き手が表現をおざなりにするために用いられてはならない。

 

「まるで小説のようだ」

という表現を目にするたびにわたしは思う。

 

 わたしは伝える努力を怠ってはいなかっただろうか。安易な比喩で場を濁し、流してはいなかっただろうか、と。

これは日本語を愛し、表現することを愛する一個人として常に考え続なくてはならない命題だ。

表現に限界はない。

安易な妥協は日本語の敗北だと思う。