KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

伊坂幸太郎に見る日本人的性質とは。

たのむから、お願いだから、

ニワカだけど伊坂幸太郎を語らせてほしい。

ひさびさに伊坂幸太郎を読んだら最高すぎた。

 



今回語るのはこちら。

伊坂幸太郎

グラスホッパー

角川文庫刊行

 

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グラスホッパー』のあらすじはこんな。

 

「復讐を横取りされた、嘘?」元教師の鈴木は、妻を殺した男が車に轢かれる瞬間を目撃する。どうやら「押し屋」と呼ばれる殺し屋の仕業らしい。鈴木は正体を探るため、彼の後を追う。

  一方、自殺専門の殺し屋・鯨、ナイフ使いの若者、蝉も「押し屋」を追い始める。それぞれの思惑のもとにーー「鈴木」「鯨」「蝉」、三人の思いが交錯するとき、物語は唸りをあげて動き出す。疾走感で溢れる筆致で綴られた、分類不能の「殺し屋」小説!


(『グラスホッパー』角川文庫 カバー裏あらすじより全文を引用)

 

この作品を改めて読んで、やっぱり伊坂幸太郎ってすごい。って思った。


もちろん文章とかも素敵なんですけど、それよりも何よりも人物造形がすごい。


グラスホッパーに出てくる人物はみんなかっこいいんだけど、どこか人間臭い。人間の性を描くのが上手いとでも言おうか。人間の持つ、どうしようもなさ、みたいなもの。

だから、キャラが上滑りせず自分に引き寄せて入り込んで読んでしまう。気がつくとそこはすでに術中。深く惹かれてしまうのです。

 

最も印象に残った部分をとりあえず引用。

殺し屋・蝉とその雇い主の岩西との会話。

こいつら、魔王とかにも出てきた気がするんだけど…気のせいかな??

 

 


「おまえさ」岩西がふいに、口を開いた。「前から思ってたんだけどよ、いつも何考えながら、やるんだ?人を殺すときに」

「どういう質問だよ」

「殺す時は、言い訳を考えたり、理屈を考えたり、念仏を唱えたりするのかよ」

「するわけねえだろうが」

「何も考えずに、殺せるのかよ」

  今更なんだそりゃ。長年バッテリーを組んでいたキャッチャーから「ところでおまえの球種っていくつあるんだ」と訊ねられたような不意打ちを蝉は感じたが、それでも答えを探した。「俺は頭が悪いからよ、難しいことから逃げるのは得意なんだよ。数学の定理とか、英語の文法とかあるじゃねえか。ああいうのを黒板に書かれても、さっぱりわからねえんだよ。だからそういう時は、考えるのをやめるわけだ。それと同じだよ。人を殺すのがいいことなのか、そういうのはかんがえねえんだよ。仕事だから、やる。それだけだ。ああ、例えば、あれだな」

「何だよ」

「例えば、車を運転している時に、交差点の信号が黄色から赤になりかけたりするだろ。でもまあ、どうにかなるんじゃねえかとアクセルを踏んで、渡ることってあるだろ」

「それで、自分よりさらに後ろの車もついてきた時ってのは、驚くよな」

「まあな。で、そうした時に前がつかえて、交差点の真ん中めでとまることってあるじゃねえか。他の車の邪魔になるわけだ。そういう時、ちょっと悪いな、って思うだろ?」

「そうだな、ちょっとは思うな」

「それと似てる」

「はあ?」

「道、塞いじゃって申し訳ない。でも、そんなに迷惑じゃないだろ、勘弁してくれよ。そんな気持ちで殺すわけだ。それに、俺が殺す相手ってのは、会ってみるとむかつく人間ばっかりなんだよな。うるせぇし、鈍いし、身勝手だ。罪悪感なんて感じる必要もねえ」

「おまえは才能があるよ」岩西が酔っ払いがそうするように、高い声で笑った。

(『グラスホッパー伊坂幸太郎  角川文庫より一部を引用)

 

初めて読んだ時に蝉の結論が私の中でストン、と腑に落ちてびっくりしました。何故でしょう?

 

それは、この蝉の明確とは言えない気持ち、状態がひどく身に覚えがあるものだったからではないか、と思っています。


日本人は基本的にロジックより感情を優先する民族です。そして、個人よりも集団が強い。だからなのか、一度仕事という大義名分を与えられると、それ以上の理由づけを必要としない。仕事という、外に理由を求める。そういう性質を我々はもともと持っているのではないか、と思う。理由がなくても、理屈が合わなくても、私たちは生きていける。


これが西洋なら話は違ってくるかもしれません。彼らは、基本的にロジックと個人主義にいきている。きっと、彼らは自分の理由を求める。だからこそ西洋では哲学が発達したのです。これはドストエフスキーなどを読んでいても感じることですが。皆、自分の哲学に従って生きるのです。行動の理由は常に自らの内にある。

(このような日本人と西洋人の違いについては、河合隼雄さんがいつだったか対談で触れられていましたが。)


日本人的な性質をまざまざと浮き彫りにしてしまうこの会話文にはゾクゾクきました。

 


でも、凄いのはここだけじゃあ、ない。

 

会話文のリアリティもすごい。


このやり取りを読むだけで、岩西が蝉にとってどういう存在かがわかる。

 

ここでの蝉の言葉は「加工」されていないように感じる。思ったことが素のまま外に出ている。私も家族やごく親しい友人の前でのみ、こういう会話をしてしまうことがあるのです。そういう時の語りは会話というより「独白」に近くなります。だから、噛み合わなくなったり相手を戸惑わせたりしてしまう。それは、外に出すものとして「加工」されていないから。


自分を真に語ろうとする時、どうしても自分自身との深い対話が必要不可欠となります。


自分と対話し、その感覚に最も近い言葉を探すことに集中するので、意識は内に向く。そういうときの独特な感触をこの会話文は持っている。

 

自分の心の中身をそのまま話す。そういう状態って、ひどく無防備だとおもいませんか?

 

つまり、こんな自分をさらけ出すような話題の答えを真面目に語ってしまうほど、蝉は岩西を信頼している、心を許しているということなのです。

 

会話文を通して、それと気がつかせることなく人物間の関係性や人物像を描き出す。この手法はとんでもなく難しい。なのに、さらっと伊坂幸太郎はやってのけてしまう。いや。しびれますね。カッケー。


よもや、半ば独白のあの空気感を再現しうる作家がいようとは。

 

続きの『マリアビートル』を読むのが、ますます楽しみです。

 

今まで伊坂幸太郎は『ゴールデンスランバー』『死神の精度』『フィッシュストーリー』『陽気なギャングが世界を回す』


あたりを読んできましたが、これは『ゴールデンスランバー』以来のあたりを引いた予感。

 

皆さんもおすすめあったら好きなだけコメで語ってください。

それでは、長々とありがとうございました。