今回ご紹介するのはこちら。
「夜の蝉」北村薫
こちらは、以前クロミミ的ブックにて紹介した「空飛ぶ馬」に続く、円紫師匠と私シリーズの第2巻。
「空飛ぶ馬」も好きですが、「夜の蝉」はもっと素晴らしい。
「円紫師匠と私シリーズ」は女子大生で本の虫な「わたし」と探偵役の落語家、円紫師匠のコンビが中心となって展開される、日常系ミステリ。
一見穏やかな日々の中に潜む謎を解き明かします。
この先生と私シリーズ、安らぐような穏やかさの中で、時折人生の真理のようなものを描いてくれる。穏やかなだけでなく、ちゃんと陰りもある。けれどもみんなある種「弁えた」人ばかりなので、なんだかシビアな場面でも安心して読める。
そんな読み味がものすごーく魅力的。
不思議な作品です。
きっと北村薫の描いた理想郷がこの作品。
静かに、しかし確実に読者を限りない充足に導くような作品を生み出してしまう北村薫の手腕はまさに見事。
この第2巻は、日常の中にある陰りが前巻より色濃く、主人公を取り巻く謎となって立ち現れます。
第2巻のキーマンは何と言っても家族。姉です。
クロミミには残念ながら兄弟がいないので、想像するしかなかったのですが、家族ってなんなのか、それを考えながら読むと、より一層味わい深い作品でした。
夜の蝉、とは一体何を指すのか。
その謎はきっとほろ苦く、でも甘い。
この作品を最後まで読んで閉じた表紙を眺めたときに、物語の終わりが切なくて、早く続刊が読みたいと気持ちがはやる。そんな素敵な気持ちを味わえる一冊。
母にこの感想を伝えた時、「あんたも大人になったね」と言われました。実はこのシリーズ、母がまだ若い頃、わたしがまだ小学生の頃に読んでいた作品なのです。
時を超えて、世代を超えて、素晴らしい作品の魅力は共有可能なのだなあ、と思いました。
皆さんも是非ご一読ください。
最後に気に入った本文の一部を引用して、お別れしたいと思います。
姉は秘密の計画を打ち明けるような小さな、しかしはずんだ声で私の耳元に囁いた。
「ねえ、口紅塗らない?」
「いい」
人形ではない。
「なにいってんのよ」
ほんのり染まった頬に笑みが浮かぶ。
「まだいいの」
「まだいいって年じゃないでしょ。随分変わるわよ」
姉は手を伸ばして私の後ろの水道の栓をひねった。細く水が出たらしい。白い手が横を通り、顔の前に出た。
薬指の先が水で濡れていた。はっとした。次の瞬間、指は私の唇に触れていた。私は金縛りにあったようになり、背を流しに預け顔をしかめ目を閉じた。頭の後ろでチロチロと水の音がした。
姉は水を付け替え丹念にゆっくりと、透明な紅を私の唇に引いた。
「ーーざっと、こんな具合」
姉の言葉に私は目を見開いた。姉は指を洗いタオルで拭きながら、軽く続けた。
「変な子、手術でもされるような顔をして」
私は《まるで……》と心の中でいった。
犯されたみたい、などと口に出来る筈もなかった。
(「夜の蝉」より一部を抜粋)