KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説・夜を待つ少女

  二一時を過ぎた頃、わたしの街は眠りにつこうとする。昼間は街で一番のにぎわいを見せるこの交差点にさえ沈黙が訪れて夜が深くなる。そのなかで、こわれたように点滅し続ける黄色い信号のひかりをぼんやりと眺めているのがわたしは好きだった。

  通りにはほとんど人影がない。夜になると、その街の本当の姿が見えてくるような気がする。そうして、それをながめていることが小さな秘密のように思えてくるのだ。それはひどく静かで不思議な心地だった。この街とわたしとはもう長いつきあいだった。わたしはここで生まれ、ここで育った。

この街の「声」はいつもわたしの一番深いところでひびいた。「彼女」はすきとおった不思議な声をしている。

「あなたの秘密はわたしだけが知ってるのね」

『秘密よ、ヤヨイ。みんなはさわがしくってせかせかしているわたしが好きなの』

「わたしは今のあなたのほうがすき」

『ふふ。ありがとう』

 夜の彼女はとても美しい。静けさがわたしたちを満たしてとうめいにする。夜は彼女をいろどるドレスだった。

ベルベットみたいになめらかな空には星影がまたたいていて、それを時々絹みたいなうす雲がかくしていた。

 夏の彼女も美しかったけれど、わたしには冬のほうが好ましかった。りんとしたすがたに見ほれてしまう。けれど、彼女には秘密なのだ。わたしは彼女のことを何にも知らないのに、彼女はわたしのことなんか何でもお見通しだった。それがすこしだけくやしかった。わたしはわたしだけの秘密が欲しかった。本当は言えなかっただけなのだけれど。

 毎晩ジョギングに出かけるふりをして、わたしは走って彼女に会いにいく。彼女はいつも笑って待っている。わたしが息をきらして走ってくるのを見ているのがすきみたいだった。それがとてもしあわせだった。

 

       ***

 

 たまに今でも思い出すことがある。彼女と初めて話した日のことを。あれは、わたしが十歳になったばかりのある初夏の夜だった。わたしは習い事の後、暗くなってからひとりぼっちで帰るのが怖くって、毎度走って家路についた。きっと頼めば両親はむかえにきてくれただろう。でも二人とも仕事で忙しくしていて、なんとなく言い出せないままだった。

初夏とは言ってもまだ六月にもなっていなかった。だから夜になると風がすこしはだ寒い。それが余計にわたしを心細くさせた。白っぽい夏の夜空に大きな木の影がばけものように浮き上がってみえたのを、よく覚えている。

 その日、あの交差点にさしかかると、どこかからか声がした。

『ねえ』

 その声にわたしは、はやる足を止めた。聞いたことのないほど美しい声だった。けれど辺りにはだれもいない。車さえ見当たらなかった。

 気のせいだろう。

 そう思い歩き出そうとした時、ふたたび美しい女の声がした。

『ねえ、あなた』

「だれ?」

 相変わらず声の主は見えなかったけれど、不思議と怖くはなかった。

『まあ、うれしい。あなた、わたしの声がきこえるのね?』

「聞こえるわ。それがどうしたの」

『なかなかいないのよ。わたしとこうしてお話してくれるひと。昔はもっとたくさんいたのだけれど。ほんとうに、いつぶりかしら』

 彼女の声ははずんでいて、本当にうれしそうだった。

「あなたはだあれ?どこにいるの。すがたをみせて」

『あら、あなたはわたしのことをよく知っているはずよ。わたしもあなたのこと、生まれたときからよく知っているわ。ヤヨイ』

「どうしてわたしの名前を知っているの」

 わたしはおどろいて、思わず大きな声で言った。すると「声」はわたしのそんな反応を面白がるようにちいさく声を立てて笑った。そして、大切な秘密を告白するようにこうささやいた。

『あのね。わたしはこの街そのものなの』

 それから、おそれるように彼女は『べつに信じなくてもいいわ』と付け足した。

「信じるよ」

 すぐにわたしは彼女に向かってこたえていた。なぜか、その声からはひどくなつかしいかおりがした。だからかもしれない。

「お母さんが、自分の知っているものだけがすべてじゃないって、まえに言っていたから」

『すてきなお母さんね』

 この町そのものだというその声は、心地いい。自分の住んでいるこの場所の景色がそのときはいつもとちがってみえた。

「うん」

 こんなこと、いつもなら照れてしまって、なんにもいえないかもしれない。今夜のわたしはとっても素直だ、とわたしはちょっとおどろく。

『ヤヨイ』

 彼女はわたしの名前をいとおしそうに呼ぶ。それを聞いていると、わたしのほうも彼女のことを昔からよく知っているような気がしてきてしまうから不思議だ。

「なに? 」

 少し答えかたがつっけんどんになってしまう。包みこむような優しさが、むずがゆかった。

『また、こうしてお話ししてくれるかしら』

「いいよ」

 気が付くとわたしはそう答えている。知らず知らずのうちに、わたしも彼女にひかれているみたいだった。

 それからは、夜道を帰るのが怖くなくなった。太陽の下では見ることのできないこの町の姿を、月の光はかいまみせてくれるから。わたしの大切な友人のことを知っているのは、この町の夜だけだった。

 

***

 

 わたしが彼女と話せるのは夜だけだった。

 昼間はいくら呼びかけたって、答えてくれない。彼女は日中、きむずかしい町としてせわしなく働いている。そのすがたを見ていると、夜の彼女のことが夢のように思えてならなかった。

 それでも彼女がわたしの声に気がついていないときはなかった。たとえば、わたしが一三歳の頃にこんなことがあった。

「今日、わたしが呼んだのに気が付いた? 」

 夜に会ったときにわたしが尋ねると、彼女は

『ええ、もちろん』

とほほえんだ。

 彼女のその言葉が嘘でないことは、なんとなく分かっていた。わたしのほうも昼間に彼女の気配をそれとなく感じることがあったからだ。

 彼女の言葉に感心して「すごい」と声をもらすと、彼女はこう言った。

『あら、なんにもすごいことなんかないわよ。子供の声を母親が聞き分けられないはずがないわ。あなたのお母さんだってそうでしょう』

「わたしの、お母さん? 」

『そう』

 いつも口うるさくわたしをしかる母の顔が思い浮かぶ。その顔はわたしの中の彼女のイメージとは似ても似つかなかった。思わず、苦虫をかみつぶしたような気分になる。そのころは母と言い合いになることが多かった。

 自分でもなぜだか分からない。けれど何かわき上がってくるものがあって、どうしても黙っていられない。そんな感情にあのころのわたしはふりまわされていた。

「似てないよ、全然似てない」

 わたしがそう言うのを聞いて、彼女はふふっと笑ったようだった。

「どうして笑うの?」

 わたしが少しとがった声で問うと、

『そのうちわかるわ。もう少し待っていなさい』

「何が分かるの」

『わたしには教えられないものよ』

 けむにまくような彼女の台詞にわたしはだまりこんでしまう。彼女のこういう物言いは、確かに母に似ていた。

「あなたも、お母さんみたいなこと言うのね・・・」

『あなたはわたしのむすめだもの。わたしはもう一人のお母さんみたいなものかもしれないわね』

「そうなの?」

『そうよ。あなただけじゃなくて、この町に住む人みんながわたしの子供みたいなものなの』

「わたしもみんなもあなたの家族ってこと?」

 そう問いかけると彼女は温かな声でささやく。

『ええ。知っていた?ヤヨイ。家ってね、さみしいときに帰ってきたいと思える場所のことを言うのよ。そこにいると満たされて、その人があったかくなれる場所のことなのよ。わたしはそういうものになりたいといつも思っているわ』

 そのとき彼女が言っていたことの意味をわたしは正直よく分かっていなかった。ただぼんやりと、当たり前のことを口にする彼女を不思議に思っていた。

 そんなわたしを見て、彼女はまたいとおしそうに小さな笑い声を立てた。そうすると小さな照明が町のあちこちで、かすかにチカチカきらめいてきれいだった。

 こんな時がいつまでも続けばいい、とこの頃のわたしは思っていた。もっとも、彼女はそうは思っていなかったかもしれないけれど。彼女は何でも知っていたから。

『またきてね、ヤヨイ』

 別れ際、決まって彼女はそう告げた。もちろんその日もそうだった。彼女はもしかしたらずっと怖かったのかもしれない。わたしから・・・いや、人から忘れられることが。

 彼女と話せなくなった今になっても、「彼女」の考えていたことは分からない。それでも、「彼女」との約束と記憶だけがわたしの中にずっと生きている。

 たまに怖くなることがある。いつかわたしの中からも彼女はいなくなってしまうのか、と。時をへるにつれて、「彼女」とのことはおさない日のとうめいな幻になっていく。

『あいして』

 どこかで彼女の最後の願いがこだましている。あの美しい声すらも思い出せなくなる日がわたしにもくるのだろうか。

 

***

 

 その日はとてもおおきな満月だった。そのせいか、色々なもののかたちがいつもより少しだけはっきりと見えて、そこから夜の呼吸が伝わってくる。

 それを感じながら、冬の張りつめた空気をきってわたしは彼女の待つあの交差点へとかけていく。ヴェールをかけたみたいに白くて美しい夜。なんだかわたしはうれしくて、いつもよりももっとはやく走った。月の光はわたしを自由にしてくれる。

けれど、その夜に限って彼女はなかなかすがたを見せなかった。そのかわりに交差点には赤や黄色やオレンジの毒々しい照明がくるくるとまわり、「工事中につき、通行止め」という文句が大きくはりだされている。なんだかショッキングな色合いの光はとてもいやらしかった。

「おおーい」

自分の声だけがひびくことがさみしかった。その声の気配が消えないうちにまた呼ぶ。なぜだかひどく不安だった。

「おおーい」

だれもいない交差点にわたしのと息がたなびいて、あとかたもなく消えていく。

 ここよ。

どこかからか、かすかな声がきこえた。まちがいなく彼女の声だった。けれども、すがたを見せてはくれない。わたしはなんでもないような声で話しかけた。

「こんばんは。月の明るい夜ね」

そうね。こんな夜にあなたに会えるなんて、わたしはしあわせね。

そう言った彼女の声は消え入りそうにはかない。

「どうしたの、急に」

むなさわぎが苦しいほどして、そう問わずにはいられなかった。

ねぇ、もうわたしたちこんな風に会えなくなってしまうんじゃないかと思うの。

彼女に顔はなかったけれど、もしもあったなら彼女は今そっと目をふせているだろう。

「さみしいこと、言うのね」

だって、本当のことですもの。あのね、今のわたしはみにくいから、みんなできれいにしてくれるんですって。

わたしは眠れない街になるんだわ、きっと。

彼女の声には深いかなしみがにじんでいた。

「わたしは、わたしは今のあなたが美しいと思うわ、大好きよ!」

どうにかして伝えたくて、声がふるえる。もどかしかった。わたしには言葉しかないのだ。

ありがとう。わたしもあなたのことが大好きだわ。これからもずっと。

ほんのすこしの間だまりこんで、彼女は言葉をつづける。心なしか彼女の声もふるえていた。

お願いがあるのだけれど、聞いてくれる?

「何でも言って!」

わたしは思い切っていった。彼女の望むことならなんでもかなえてあげたかったから。

ヤヨイ、わすれないでね。わたしたちの秘密を。

わたしは変わってしまうから。

それからね、『わたし』のこと愛して欲しいの。今までとはちがってしまうけれど。それでもわたし自身なの。

だから、せめてみていて。

おねがいよ・・・。

それきり彼女の声はとだえて、彼女がいなくなったことが分かった。ひどくうつろできらびやかな夜だった。

「わかってるわよ・・・」

お願いとも呼べないお願いを残して消えていった大切な人に向かって悪態をつく。

夜にしずむ交差点の向こう側では、原色のつきささるようなネオンライトが涙ににじんでゆがんでいた。