KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説・或る夢

 

   夢の中で彩夏は父を殺した。

  いや。あれは自殺だった。そのはずだ。

 汗に湿ったシーツはまとわりつくように思考を束縛する。まだあの夢から醒めきっていないためかもしれない。頭の中では今しがた見た夢が断片的に浮かび上がっては消えを繰り返していた。気の遠くなるような執拗さは何かを戒める意図すら感じさせる。いつもは覚えていたくてもあっという間に消えてしまうくせに。今回は薄れる気配すらない。夢が鮮明であればあるほど苛立ちと恐怖は募るばかりだった。

   十五年生きてきてあんな夢を見たのは、はじめてだ。閉じた瞼の奥では深い闇が滲んでいる。口の中に広がる不味い味はどこから来るのか、絶えることがなかった。ただ、どこかに残った実感はたしかに「父を殺した」時のもののようだった。やはり、自分は父を殺したことになるのか。どうしようもない思いを抱えたまま、彩夏はあの一連の夢を思い出していた。

 


***

 


夢の中で少女は薄暗い下り階段の最上段に立っていた。あたりはじっとりと空気が淀み、息をすることさえままならない。どこかでは蟲の這い回る微かな音がした。階段には頂上に小さな裸電球がぶら下がっている他に、灯りは見当たらない。唯一の光源には大きな蛾が一匹縋り付き、間延びした影を橙色の暗がりに投げかけている。それを鬱陶しく思いながら、少女はひとつ身震いをした。地下階段には真夏だというのに這い上がってくるような冷たさがあった。

こんなにも寒いのはきっと「あれ」のせいに違いない。少女は足下に広がる深い黒に目を凝らした。視線の先では所々角の崩れたコンクリートの段が歪に下へと続いている。しかし少し下ると、そこには無明の闇が巣くっていた。人を喰う怪物のようだと少女は内心思った。どんな人間もあれに呑まれれば二度と戻ってはこられない。そう思わせる何かが漆黒の底には潜んでいる。少女は乾いた唇を舐める。荒れた唇はいつの間にか切れて血の味がした。

 父を殺す。

 考えるだけで身体が火照った。胸に昏い悦びが燻っている。あとはここに父を呼び出すだけだ。生唾をゆっくりと呑み込んだ。少女は手にした凶器に目を落とす。銀色の刃が鏡のように鈍い光を映していた。ぬるりと手が汗ばんだ。ついにこの時が来たのだ。

 少女は今の気分をじっくりと味わい、陶酔に浸った。この上なく満足だ。こんなに快いのはいつぶりだろう。これから起こることを考えている間中、ある種の狂気じみた万能感が身体中を満たした。

   なぜ父を殺そうと思ったのか。今となっては思い出せなかった。ただ、これが長い間少女の中で眠っていた望みなのだった。

「これでお父さんを殺せる」

 少女が興奮に震えながら、噛みしめるように小さく呟いたときだった。閉じていた階段へと続くドアがすぐ後ろで開きはじめて、白っぽい光が暗がりを割って差した。振り向いた少女は眩しさに目を細めた。

「誰かいるのか」

 ドアを開けた人物がこちらを覗き込んで尋ねるた。顔形は影になって判然としない。だが声は紛れもなく父のものだった。それと知るやいなや、焦りと残酷さとが少女を取り巻いた。

(今すぐ殺すべきだろうか)

 父はすぐに思惑に気がつくだろう。少女はナイフを握った手に力を込める。錆び付いたドアが音を立てて完全に開いた。入り口に立つ父の顔が見える。なんとも気の抜けた表情だった。さっきの呟きが聞こえていなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。

「お父さん」

  少女は不意打ちのように父を呼んだ。と同時に父の動きが止まる。父の視線は少女の手にしたものに一心に注がれていた。 

 殺す。

 待ちわびた瞬間を迎えてもなお、少女には迷いも震えもなかった。それどころか隅々まで冴えわたっているようだった。そんな少女と反比例するかのように父の動きは鈍く、緩慢だった。

「おまえ、まさか」

 掠れた声で父は言った。その表情は怒りと当惑に満ちているはずだった。少なくとも少女の予想ではそうだった。ーーー裏切られた。父の顔は泣き笑いのときのように歪んでいた。まるで、眼前の事実が嘘であることを心から願い、自分の望みが実現されるのを待ち侘びるように。少女の手からナイフが滑り落ちる。信じられないものを見た気分だった。慌てて拾い上げようとする手を掠めて父が先にナイフを手にした。

 ころされる。

 戦慄とともに見上げた顔に降ってきたのは、生ぬるく赤い雫だった。鮮やかな色が一瞬で目に焼きつく。父は自ら首を切り裂いたのだ。

「な、んで」

 声にならない呟きが少女の口から漏れた。不意に父のギョロリとした瞳と視線が交わる。いやらしい生々しさを含んで父の目は殊更にぬめぬめと光る。少女は父の目が嫌いだった。いつもその瞳に浮かぶ底なしの優しさを恐れた。——そうか。自分はこの人を殺したかったのではない。ただ、今を壊したかった。少女は瞬きも出来ずに凍りついて、床にへたりこむ。嗚咽が喉の最奥ではじけた。

「おとうさん」

「——愛しているよ」

血を吐きながら父は微笑む。それを見てはじめて少女は失敗を悟った。自分の手で殺さなくてはならなかったのに。堪えきれない思いに唇を噛みしめる。

 そして父はとうとう力尽きてふらつくと、膝から崩れ落ち、奈落へと転がり落ちていった。すぐにその姿は重たい闇に包まれて見えなくなる。かすかな物音以外は何も聞こえない。この階段はあまりにも長いから、まだ底にたどりつかないのだろう。

 ふと気がつくと少女は自宅の玄関の土間に立っていた。奥では母が昼食を作っている気配がした。蝉がどこかで喚いて少女の犯した罪を告げている。一切の罪悪感は無い。それなのに、頭の中には暗がりへと落ちていく父の表情ばかりが浮かんで、片時も側を離れようとしなかった。

 あの時、父は悲しんでいたのだろうか。少女は頬に残った返り血を手でぞんざいに拭いながら考える。何もわからなかった。父親の行動の意味も、今の自分の気持ちも。ただ奇妙に空っぽな心が取り残されたように蹲って見つめ返していた。何かを損なってしまった時の感覚が胸の内を占めていた。あの計画を実行することで得られるはずだった「何か」。それを永久に失った。

 少女は靴を脱ぎ捨てて、母のいるキッチンへと続く引き戸にたどりつくと、立てつけの悪いそれに手を掛けた。

「お母さんただいまぁ」

「どこに行っていたの?」

「ちょっとね」

言いながら後ろ手で戸を閉める。木戸が呻きをあげながら閉じた。ふと少女は考えた。父はあの時、苦しみの声をあげなかった。

『愛しているよ』

 低い男の声がどこまでも不快だった。

「お父さんは?」何も知らない母は尋ねる。

「知らない」

少女は母の方へと一歩足を踏み出す。そうか、あの人がいなくなっても、お母さんは気がつかないんだ。

なあんだ。

 少し残念に思う自分が少女は疎ましかった。

 


*** 

 


  目覚めると、掻き毟るような息苦しさが胸を埋めている。自分のベッドの上でゆっくりと身を起こすと全身が汗でべたついていた。枕元にある時計を見ると、午後五時頃を指していた。あの夢を思い返して吐き気がした。とても十数分間の出来事だったとは思えない。夏の暑さにうなされたからか、それともあの生々しい夢のせいなのか、拭い難い気怠さが指の先まで支配していた。

   大きく息を吐き出すと彩夏は立ち上がって窓を開け放つと大きく息を吸い込んだ。窒息しそうだ。外では夢と同じように蝉たちが鳴いている。耳鳴りのような蝉の声が夢の余韻をつれてきた。グラグラと天地が揺れる。ふらついて何かに足を取られた。あっと声もあげないまま勢いよくベッドに倒れこんでいた。

 不意にぞくりとした感覚が背筋を駆け抜けていった。目覚めたその時から幾度も思うことがあった。

ーーいつか、あの夢が現実になるかもしれない。

 彩夏の指先は目覚めた時から冷えきったままだった。躍起になってあたためようと手を握りこんだが無駄だった。ぬくもりだけが自分と夢の中の少女を隔てている気がしてどうしようもなく不安だった。祈るように握りしめても手はいつまでも氷のようだった。逃れられない。あの夢がどこまでも追い縋ってくる。

   夢を見てここまで心揺さぶられたことはかつてなかった。夢での感覚はまだ生々しく疼いていた。

   だが一方で、他人事のように未知の事態を面白がり、ことのなりゆきを見守りたいとも思っていた。理解しきれぬ奇妙な高揚感が心の片隅で主張していた。快と不快が身の内でないまぜになっている。それがより一層気分を害した。

  身綺麗にすれば少しはこの気持ちも晴れるだろうか。汗ばんだ肌はじっとりと重く、息苦しかった。たまにはシャワーを浴びるのも悪くない。

 立ち上がってリビングに行くと誰もいなかった。そういえば、母は買い物に行くと言っていた。父はいつものように庭の畑で農作業でもしているのだろう。このところ父は家庭菜園に凝っていた。我知らず、誰もいない部屋に彩夏は安堵した。

 脱衣所へ行くと洗面台の鏡に自分の顔が写り込んでいるのが目に入った。濃い隈で目は落ち窪み、髪は振り乱している。黄ばんだ肌は黒ずみ灰色がかって見える。とてもだが先ほどまで眠っていたとは思えない。彩香はそっと鏡に映った自分の姿に触れる。

  この顔は父を前にしてどう変わるのか。彩夏にはうまく想像できなかった。やはり取り繕うように笑うのだろうか。父の姿を想像して笑おうとする。結局、唇が引きつっただけだった。笑い方を忘れてしまったのかと考えて、すぐに否定した。元々笑うのは苦手だった。

 そもそも最後に父の顔を正面から見たのが、一体いつなのかさえ怪しかった。ここ数年父と対するとき、彩夏は顔を伏せたままだった。最後に見た父の表情を思い出そうとしても無駄だった。ただ、それが笑顔でないことだけは確かだった。

 服を脱ぎ捨てると、少しだけ気分が晴れた。案外この憂鬱は深刻なものではないのかもしれない。夢から醒めた時でさえ、自分の置かれている状況を俯瞰して楽しむだけの余裕があった。蛇口を捻ると勢いよく水がシャワーヘッドから降り注いだ。心地よい刺激を受けながらさらに彩夏は考える。

   そもそもあの夢について本当に心から思い悩んでいるのだろうか。悩まなくてはおかしいと思っているのではないか。投げ出されたままの問いかけは危うい感触がした。結論を喉の奥に溜め込んだままシャワーを浴びると心地よかった。夢の中の血とは違う、清らかなもの。もう何もかも洗い流してしまいたかった。たとえ、引き替えに後ろめたさを引き受けることになるとしても。大きく口をあけて冷たい水を流し込み、邪魔な髪を掻き上げた。水音に耳を澄ますと一人きりの世界にいるようだった。すると唐突に浴室の磨り硝子の向こうで声がした。

「彩夏? 風呂に入ってるの」

   声の主は母だった。彩夏の手からシャワーが音を立てて落ちる。がしゃん。大きな音が夢の中のナイフとなぜか重なった。次の瞬間には激しい羞恥が彩夏を苛んだ。あの夢から目を逸らそうとしていたことを誰にも知られたくなかった。

「大丈夫? 大きな音がしたけど」

「うん、なんでもないよ」

彩夏はなるべく明るい声で答える。頬をつたって顎から水が滴る。小さな水音までもが母に聞こえるような気がした。嘘をつくのがはじめてではないのにぞくり、と鳥肌が立つ。

「そう? じゃ、風呂から出たら料理手伝って」

「わかった。今日の夕飯はなに」

「ハンバーグ」

 背後で足音が遠ざかっていく。それを待って彩夏は思い切りシャワーの蛇口を開けた。激しい飛沫が耳を塞ぐ。自分は夢の中で父を殺そうとした。では、母はどうだろう。あのまま夢から目覚めなければあるいは——。強い水圧で叩きつけるシャワーは痛みをもたらした。それは、彩夏が自分に与えたささやかな罰だった。

 


✳︎✳︎✳︎

 


   彩夏が濡れた髪を乾かしてからキッチンへ向かうと、既に母は料理を始めていた。小刻みに続く包丁の音が心地よい。彩夏は束の間、自分の心を確かめるように母の姿をぼんやりと眺めていた。

「彩夏、手伝って!」

 母の声には剣がある。慌てて彩夏はエプロンを身につけると、挽肉と玉葱とパン粉を混ぜ合わせる。料理を手伝うのはいつものことだった。

 作業をしながら、彩夏は母の顔を盗み見る。不意にあの夢のことを話してしまおうかと思った。なぜそんなことを思い立ったのかはわからない。理性を置き去りにしたまま、欲望は膨れあがっていった。化け物のようだ。意のままにならない己は何よりも厄介な存在だった。

     決して口にすることなどあってはならないはずだった。あの夢のことを知れば母は自分を恐れ、軽蔑するだろう。彩夏は落ち着きなく視線を動かす。どうしても言いたくてたまらなかった。

「…今日珍しく夢を見たんだ」

気がつくと彩夏は話し始めていた。

「どんな夢?」

「人を殺す、夢」

   自分の硬い声が耳に突き刺さった。もはや身体は言うことを聞かなかった。強い焦りを感じているのに頭の芯は冷えていて、この状況を俯瞰し楽しんでいる。苛立ちと関心の高まりがないまぜになりどうにかなりそうだ。今から始める話を母がどんな顔で聞くのか。待っている間の数瞬、恐ろしいような心地だった。自分が自分でないものに侵され、塗り潰されていくようだ。今の自分はあの夢の少女のように得体が知れない。母が耳を貸さなければよいと思う。しかしそんな心中を母が知るはずもなかった。

「誰を殺すの」

「あのね、変に思わないで欲しいんだけど」

 彩夏は最後の最後で踏みとどまろうとする。まだ「まとも」でいたい。善良な娘として振る舞えという警告が頭を揺らす。すると夢の中の少女が耳元で囁いた。もう遅すぎる、と。あの夢を見た時点で自分はもうおかしい。その言葉と共に心の中に芽生えたのは、諦めにも似た感情だった。

そして彩夏は思い出した。欲望には逆らえない。己に従属して生きていくしかないのだ、と。彩夏の唇はそれを待っていたようにまた動き始めた。

「お父さんを殺したの」

母の反応を目にするのを恐れて、矢継ぎ早に続ける。

「その夢の中で私はなんでかお父さんを殺そうとしてて。そしたら、そこに丁度お父さんが来て、私のしようとしてることに気がついて、自殺しちゃったの」

   そこまで話した時再び父の表情が蘇り、冷たいものが背を滑り落ちていった。そうだ。あんな顔をさせたのは自分だ。泣き笑いの歪んだ顔。どうしてもあの顔を忘れることが出来ない。自分の父に対する感情があんな夢を見せたのだ。でも一体どんな感情があれを生み出した?答えの出ない問いが積み重ねられていく。彩夏は言った。

「べつにお父さんのこと、嫌いってわけでもないのにね」

   父への想いは単なる好き嫌いでは計りきれない。言葉にするにはもう長い時間が経ちすぎていた。この十何年を要約しうるものなど、あるはずがないと思えた。すると彩夏に代わって母が口を開いた。

「夢だからね。どんなことが起こっても不思議じゃない」

  母の声は優しかった。

「ほんとうに?」

「もちろん。でもなんでそんな夢を見たんだろうね?」

 そう言って母は料理の手を止め、彩夏を振り向いた。母の微笑みには不自然さがあった。きっと母は努力しているのだ、と彩夏は思った。脆く傷つきやすい子供の心を守ろうとしている。秘密を告白した自分を受け入れることで。

 すると彩夏はどこか肩の力が抜けるような感覚を覚えた。それからすぐに後ろめたくなる。彩夏は母を知らず知らずのうちに試していた。母が自分を肯定するのか、自分への愛情を示そうとするのかどうかを。ただ自分のためだけに母を弄んだ。

「わかんない。でも私、久しぶりに見た夢がそんなだったから吃驚しちゃって」

「いつぶりなの?」

「一年、くらいかな」

少女はそっと母親の顔を窺う。しかしそこに非難の色は無かった。彩夏は再び話し始めた。

「夢の中の私、別人みたいだった。…怖かった」

「私もそういうこと、よくあるよ」

そう口にする母の方を彩夏は思わず振り向いた。

「じゃあ、夢の中での私は今の私とおんなじじゃないってこと?」

「うーん。でも、そのままってことは無いでしょ。…なにか関係はありそうだけど」

「……そっか」

「どうかしたの」

母の問いかけが曖昧に響く。彩夏の思考はその時だけ麻痺した。彩夏は口から言葉が滑り落ちていく感覚に総毛立った。

「あの夢の中で、私はお父さんを殺せることが嬉しかった、気がする。これで解放されるって」

呟く彩夏の瞳はどこか遠くを見つめていた。彩夏は夢の少女と現実の自分を重ね合わせていた。夢の正体を探ろうとするように。

「解放? なにから」

無表情な彩夏を母は複雑な面持ちで眺めている。母の問いに彩夏は何も言えなかった。夢での感覚も感情も言葉にしようとした途端、消えてしまう。しばらく経って漸く母の沈黙に気がつくと、彩夏は急拵えの苦い笑みを浮かべた。

「ごめんね。こんな変な話いきなりして」

だが、彩夏の声が聞こえないかのように母は押し黙ったままだった。しばらくの間、二人の間には洗い物の水音だけが響いていた。やがて、母が震える声でこう告げた。

「少しは気にした方がいい。そんな夢を見るってことはあんたは何か屈折してるんだから」

    母の言葉を聞きながら彩夏は失望を感じていた。自分にも母にも。いつもこうだ。他人の求める「正解」がわからない。何かが足りない。大切な何かが。きっと足りないものの正体を母は知っている。けれど、答えを母に求めることはこの先もないだろう。確信を持ってそう言えた。母から答えを手に入れるだけでは何かが欠けてしまうから。

    そして彩夏は自分が一体何をしようとしていたのかにようやく気がついた。また他人を試すことで愛の証を得ようとしている。案外、あの夢の根源も同じなのかもしれない。夢の中で「少女」は父を殺すことで愛情を試そうとしたのだ。殺されてなお自分を愛するのか。だとすれば「あの表情」を望んだのは自分だ。自分で欲したものに今苦しめられている。

「テーブルの上の用意をして。焼くのは私がやっておくから」

母が言った。逃げるように、キッチンマットを持ってリビングへと向かう。気遣うような母親の息づかいが煩わしかった。

 するとその時、玄関から擦れるような音がして引き戸が開いた。父が畑から帰ってきたのだ。気がつくともう日も落ちかけ、窓から差す陽光は紅に染まっている。「ただいま」という声が聞こえたときにはもう遅かった。人影はもう目の前に立っていた。その後ろではまぶしい夕日がこぼれ、より一層部屋におりた闇を濃くした。父は尋ねる。

「今日の晩ご飯はなんだ?」

彩夏は咄嗟に顔を伏せた。頭の中に闇に呑まれる寸前の父の表情が翻って消えた。身体がさっきからずっと小刻みに震えていることがはっきりわかった。何もかもめちゃくちゃにしてしまいたい衝動に身体が脈打つようだった。

「彩夏?」

 父の声が降ってくる。いつもはろくに口もきかないのに、父はこうして時折話しかけてきた。なぜそうするのか、彩夏には不思議だった。そして鬱陶しかった。父と関わる時、彩夏はいつも鉛を呑んだように苦しい。なにもかも思うようにいかない。感情の糸が絡み合ってそれ以上は何も考えられなくなる。

「彩夏、何か言いなさい」

困惑と苛立ちのこもった父の声に身体を揺らすと、彩夏は自分の部屋に向かった。待ちなさい、という父の声が背を摑む。一瞬振り向いた彩夏が見たものは、父の目だった。日に焼けた褐色の肌に縁取られて瞳が戸惑いに揺れている。たまらなくなった彩夏は部屋へ駆け込みドアを閉める。これ以上あの場にいれば、何かを口走ってしまいそうだった。閉じたドアに背を預けて大きく息を吐き出す。その時、ドアの外で母の声がした。

「彩夏、ご飯は?」

「いらない!」

    叫ぶように言うとベッドに身を投げ出した。頭の中ではまだ父の瞳がこちらを見つめ返していた。もうわからなかった。夢の中の男と現実の父が別物かどうかなど。父の目。あれが彩夏をうちのめす。何度も、何度も。

部屋の中にはあの夢と同じ暗闇が満ちていた。だが、不思議と胸騒ぎはしなかった。さっきまでの気持ちが溶けるようになくなって、今は穏やかだった。柔らかな闇に身を任せて彩夏は寝返りを打った。視線の先ではカーテンの隙間から差し込む細い日の光が棚の一角を赤く照らしていた。そこにはひとつのふるいぬいぐるみがあった。不意にぬいぐるみと目が合う。その猫のぬいぐるみはかつて彩夏のお気に入りだった。だが今では黒い毛が剥げ、惨めな姿を晒していた。あんなにもぼろぼろになるまで抱きしめたものをいつ手放したのか。彩夏はもう覚えてはいなかった。猫の黄色い目が彩夏を責めていた。不意にその目が父の目と重なった。

   唐突に父の目を嫌う理由がわかった気がした。あの目が変わらないからだ。彩夏は奥歯を噛みしめた。自分ばかりが変わってしまったのだと突きつけられるからだ。あそこには遠い過去がある。父の手を握って歩いた頃の他人事のようなあたたかさが。あの頃の父は笑っていたはずだ。それなのに、かつて見上げたはずの表情が今ではこんなにも遠い。時折、その事実がひどく虚しく響いた。だから父に見つめられると苦しい。あの瞳の奥で幼い自分が責めるから。

 そして彩夏は悟った。あの夢からは逃れられない。決して。頭の片隅で父の表情がまた甦る。夢で会うのだろうか。あの父と。彩夏はしばらくの間生温い室の虚を眺めていた。いくら考えてもこの先のことは分からなかった。どこかで耳障りな蛾の羽ばたきが聞こえる。眠りがあの夢へと彩夏を誘っている。仄暗く湿ったあの場所に満ちた空気を彩夏はまだはっきりと覚えていた。眼裏の黒は夢の中の闇より深かった。彩夏は手を伸ばし、沈み込んでゆく。あの夢の先に待つものは夢の中の男だけが知っている。それだけは確かだった。