先日、私は遅読派だという話をしたと思う。
しかし、実際の私はゆっくり読むこともあれば早く読むこともある。
なぜこのような食い違いが起こるのか。
それは私の読書が一段上の段階に上がったからではないか、と内心ほくそ笑んでいます。←驕り高ぶりすぎてね?
読書とは能動的な行為だと一般では言われているように思います。
なぜなら、映画やテレビ、演劇、音楽などと違い自らの力で読み進めるから。
しかし、私はさまざまな本を読む中であることに気がつきました。
それは、
真に優れた文章は読者を受動的にしてしまう。
ということ。
本当に巧みな文章はその魔力でもって私たちに自らを「読ませる」
そうなると我々はもはや作者の掌の上。言葉のリズムの気持ちよさに乗せられて、あれよあれよという間に結末へと押し流されていってしまいます。
この事実に気がついてから、意図的に読むスピードを抑えるようにしていました。だってもっと読み味わいたいじゃないか。
これが結構大変なことだった。
作家の生み出す文章の魔力に対抗して速度を操ることは私にとって並大抵のことではありませんでした。でも続けるしかありませんでした。
たとえ憧れの作家であろうと、他人の掌の上で弄ばれるなどもってのほかだからです。
だから、その結果として遅読になっていたという言い方もできるのです。
しかし、最近ふとした瞬間に私は「意図して」速読していた自分に気がつきました。
そう。いつのまにか自分で読む速度を自在に操ることができるようになっていたのです。
私は読書における新たなギアを獲得したと言えます。
そんなこんなで読書の能動化によってまた一歩理想の読書に近づいたクロミミなのでした。