実は先日までのイタリア旅行中に飛行機内で友人B氏にオススメされたTONO 作「チキタグーグー」なる漫画を電子で全巻購入して読んでたんだが。
一言言わせてくれ。
…最っっ高……!
まじで空気感が好きすぎるし、所々不穏で切なくて。そしてやるせないほど暖かい。
自分でも名伏し難い感情って人間なら誰しもあると思うんだけど、それが見事なまでに描かれている。
あらすじはこんな感じ。
ある日突然、少年チキタ・グーグーの家族は皆殺しにされてしまう。そこに現れた見知らぬ女、ラー・ラム・デラム。彼女はチキタの遠縁の親戚だという。チキタはラーと言われるがまま同居することに。
しかし、女の正体はチキタの家族を食い殺した化け物だった…。
いつか俺も食い殺される。
ラーの正体に勘付いたチキタはそう予期しながらも、奇妙な同居生活を営む。
どうやらチキタは化け物たちにとってとんでもなくまずい食い物らしい。だからこそラーもチキタを食えなかった。しかし、チキタのようなまずい人間は、百年経つとものすごく甘くおいしくなるのだとか。ラーはそれを待っているのだ。チキタを養い、生かしながら。
いま、被食者と捕食者の奇妙な物語が幕を開ける。
被食者と捕食者の奇妙な関係性。
この関係こそ、チキタ⭐️グーグーの最大の骨子だと言っていい。
読んでいると、不気味な存在であるはずのラーをなぜか受け入れてしまうチキタの感情の流れがありありとわかる。そして、ラーもまたこの関係に依存している。
この共依存という関係性は大変魅力的ゆえに使い古されたようにも思えるが、ここまでなめらかに美しく、かつ自然に描いた作品を私は他に知らない。
この作品のうまさは、登場人物が気がついていないものについては一切描かない、という姿勢を徹底している点だと思う。
例えば、チキタはラーをなぜ俺は受け入れているんだろう、と初期段階ではほとんど考えない。ただただどうしようもなく共同しラーに生かされて生活している。
そして、物語が進むにつれ、彼はようやくその理由に気がつく。
このチキタの心のあり方が本当に実際の私たちの心の動きを写しているようでとても他人事だとは思えない。
また、ラーがチキタに依存していく様子にもラーがどんな存在なのか明確に示されている。
ラーは言うなればまっさらな存在。
あるがままにあるだけ。
そんな感じなのではないだろうか。
だから、自分の今の状態についてほとんど葛藤したりしない。
ただ自分のその時々の感情に身を任せるだけ。私はこうあるべき、というものすらない。
ここにも「あえて描かない」美がある。
ラーはまるで無垢な子供のような柔軟さを持っている。
けれど、だからこそ危うい感じが拭えないのがこの作品のいいところなのではないか。
この作品の不穏さはこの独特の関係を丁寧に描き続けることから発生していると言っていい。
そして、不穏さをそのまま残しておいて物語を先に進める。これをさらりとやってのける作者には本当に痺れる。カッコいい。
当作はもちろん一級品だが、やはりこの作品のキーは「抑制」。完璧にコントロールされた描写だと思う。
私も小説を描くのでなんとなくわかるのだが、描いていると説明したくなってしまうものだと思う。
ここはこういう心理状態だからこうです、この人物はこういう人だ、とはっきり言いたくなってしまう。
しかし、この作品はほとんどそれをしない。
いや、全くしないわけではないが、それ以上に行動や言動でそれを具体的に見せていく。
その塩梅が絶妙で、文学とエンタメの狭間を縫うような素晴らしいバランス感覚。
素晴らしいバランス感覚があるからこそ、「チキタ⭐️グーグー」は決して説明しすぎない。抑制が効いた感情描写による奥行きがあり、腹にずっしりと溜まるご馳走のような読み応え。
なかなか一気読みなんてそんなことさせてくれない。
(現に私は何度か休み休み読んだ。)
私を蔑ろにすることなんて許さない、
と終始言われているような気分。決してプロットがめちゃくちゃ凝っているわけでもなければ、高度な心理戦が行われるわけでもない。
ただあちらこちらに感情の変化の伏線、引っかかる不穏さ、不自然な陽気さがばらまかれている。
とにかく情報量がすごい。
ここまで密度が高い作品を読んだのは本当に久しぶりだった。
これを読むと読まないとでは今後の人生は変わる。
一人の創作をする者として、本当にこの作品を読むことができて、心から良かったと思う。
これからこの作家の他の作品も少しずつ読んでいく予定。
今から楽しみでワクワクしてしまう。
この作品と出会わせてくださった😌友人B師匠には心からの感謝を捧げたい。
本当にありがとうございました。
この経験を忘れないように、何度も読み返して参ります。皆様も是非お読みくだされ。決して後悔しない買い物です。