「〇〇に比べたらわたしなんか幸せだよね。」
という感じのフレーズを、生きてきた中で幾度となく聞いた覚えがある。つい先日、職場でもこのフレーズを聞いた。
〇〇には隣人でも、紛争地帯の子供達でも、あるいは肉親でも、とにかく他人であれば何でも当てはまる。
わたしはこのフレーズに幼い頃から違和感を覚えてきた。実は最近までなぜこんなに違和感を持つのかわからなかったのだが、最近はっきりしたので書いておきたい。
それは、「幸福も不幸も相対的なものではないから」である。自分が幸福かどうかは他人と決して比べられるものではないからだ。
幸福だと感じるのも、不幸だと感じるのも、結局は自分ひとりである。他人は決して感じることができない。せいぜい他人にできることは、相手の気持ちを想像して黙って寄り添うことだけである。
「いや、わたしは〇〇の痛みを感じることができる。感じている。」
とおっしゃるかたもいるかもしれないが、誤解を恐れずいうのであれば、その考え方は傲慢だと思う。確かに、他人に寄り添うことはできるし、ある程度まで仲が深まれば理解も進むだろう。
だが、忘れてはいけない。たとえ親と子であろうとも人間の全てを理解することなど到底できない。
これはわたしが二十数年生きてきて、実感したことだ。どれだけ明るく朗らかな人でも、決して他人が理解できない部分、踏み入ることのできない部分は存在する。
だからこそ、我々は常に他人に対してある種の「おそれ」をもって接しなくてはならない。
わたしはかつて、母や父はわたしを全て理解してくれるもの、と思いこんでいた。
だが二十数年経っても全てを理解される瞬間は訪れない。
当たり前だ。
わたし自身でさえ、わたしという生き物の全てを理解できないのだから。
言語化できる領域というのはごく表層に過ぎない。人間の核心はむしろその奥の奥にあると考える。
だからこそ、わたしは小説を描き続けているのだと思う。小説は言語化できないものを理解するためのツールとして最適なのだ。
話が逸れてしまった。元に戻そう。
つまり結局何が言いたいかというと、
幸不幸は自分が決められることだということだ。
どれだけ金と名声を手にしても不幸な人はいるだろうし、どれだけ貧しくても幸せな人はいるだろう。
一番大切なのは、「他人から見てどうか」ではなく、「自分がどう感じているか」ということひとつである。ここから目を逸らしてはいけない。
もっと幸福に貪欲になるのなら、まずは自分と対話し、どういう時に自分が不幸か、または幸福か考え続けるべきなのだ。
その思考の積み重ねこそが、人生を幸福に導くのではないか。