(大幅に改稿しました。)
今回はわたしにとっての詩を描くことについて語らせていただきます。お付き合いください。
わたしが詩を描き始めたのは、中学生の頃。そのころは日々の鬱憤が溜まりに溜まって描いたものでした。小説も部活の合間にかいてたなぁ。(クロミミは合唱部。)
その頃は、ただ感情の捌け口としてかいていました。
けれど高校になった頃、私にとっての詩が変わった。
その頃から「自分の文体」を模索し始めたからだった。ある時は米澤穂信の文体に影響を受け、ある時はレイ・ブラッドベリ文体を踏襲して習作を書く。
しかしなぜだろう。いつまで経ってもわたしのスタイルが決まらない。大好きな作家たちの文章のように自分の文章を読んでも一向にときめかない。
そう悪い文章ではないはずだ。
けれど普通だ、と。
(これは当時は、という意味。今読むと多分目も当てられない。吐く。)
また、表現する上で「普通」というのはただ普通という評価ではない。普通のものは決して人の中に残ることはできない。創作物がが人の心を揺さぶりその印象に残るということを目的としている以上、何らかの違和感がなければ話にならない。
普通というのははっきり言って、創作物としては下の下。何の特徴もないゴミ以下。ということになる。
多分この頃から薄々気がついていたのだが、わたしが理想とする小説の文章とは、今の一文が次の一文を生み出すような文章である。
ちょうど一本の糸を紡ぐような一体感のある文章を書きたかった。
そんな時に思いついたのが詩を描くように小説の文章を描くこと。頻繁に詩を描くようにすること。
私にとって詩は日常言語からの飛躍をわかりやすく行える表現形態だった。韻律を重視して、リズムに敏感になるからかもしれない。
わたしの考えでは小説の言語とは、詩と普段使う言葉とのちょうど中間に位置していると思う。
詩は小説よりもさらに言葉の響きが重要視される表現方法だ。
詩を意識することによって、ストーリーを進行することに囚われるのではなく、より言葉の響きを重視しながら描けるように少しずつなっていった。
何年もたった今でも自分の文体はなかなか定まらないが、少しはマシになったかな、と思う。
詩を描いて分かったのは、わたしは詩人にはなれないだろう、ということだった。多分言いすぎてしまうのだ。いつまで経ってもいいものが書けない。
詩という表現形態は本当に「削る」ことを必要とするものだと思う。文章を書く上で、「削る」ことは実は描くよりも圧倒的に能力と気力が必要になる。削る作業のクオリティが文章のクオリティを左右する。そういう意味でも、かなり詩を描くという作業は良い訓練になったと言える。
本当に心から詩を書ける人を尊敬している。
なので、ブログで詩を描いている時は大体自分の小説に嫌気がさしている時だ。「あ、こいつ煮詰まってんな」と、温かい目で見てやっていただきたい。