小説を一度でも書いたことのある人ならわかるかと思うのですが、小説を書いてるとなんだか脚本みたいになってしまう、ということがありませんか?
今回は小説の描写が脚本っぽくなってしまう理由とわたしがどのようにして描写を作っているのかを書いてみたいと思います。
よろしければ、お付き合いください。
小説が脚本みたいになってしまう理由はずばり、
①物語の進行を焦っている。
②考えた話の筋だけを描写しようとしている。
③登場人物の練り方が甘く、そのために描写がしづらい。
の主に三つ。
偉そうに話し始めましたが、わたしは②と③に陥りがち。
当然ですが、脚本と小説は別物です。
脚本は役者に指示を与えるものである以上、わかりやすく、かつ簡潔に演技内容が描かれています。基礎となる骨組み。それが脚本です。そしてそこに演技という肉付けを施すのが役者の役割なのではないでしょうか。
「骨組み」と「肉付け」この二つを小説では描写が一手に引き受けることになります。
個人的にはエンタメをはなればなるほど骨格よりも肉付けの作業が重要になっていくと考えます。なぜなら、描くものがより深い深層心理にせまるものになっていくからです。それこそが文学の真髄であり、楽しみです。
逆にエンターテインメントは話の展開を予測したり、キャラクターの魅力に惹かれて読むものです。話の筋とキャラが骨子。
わたしは読み手としてどちらも大好きですが、今までも、そしてこれからもきっと文学傾向の強いものを書くことになるのでしょう。その理由はなぜわたしが文学を描いているのかとわたしの生き方に深く関係してくるのでまた別の機会に語りたいと思います。
では、わたしが小説描写の脚本化を避けるためにしていることとは何か。
それは何よりも第一に場面を絵にかけるほどリアルに想像するとことです。そうすることで、そこにいる人物が何を感じているのかわかるようになります。
たまに本当に調子の良い時ですが、悲しいシーンを書いていて涙を流してしまったり、寒くないのに外で風に吹かれるシーンを書いていて体が震えてしまったりすることもあります。そういう時は完璧に物語の中に入り込んでいるので、スルスル良い文章が書けたりするものです。
とにかくそれくらいリアルに想像する。登場人物との距離を出来る限り零距離にする。筆者=登場人物の心理状態に自分を持っていく。
だからこそ、③のようにキャラクターの練り方が甘いと物語世界にうまく入り込むことができず、結果描写も甘くなるのです。
例えば物語進行上、主人公の肉親が死んだとします。キャラクターが練れていないと、どう心情描写をすれば良いのか分からなくなってしまいます。その人物がその場面で悲しむのか悔やむのかもしかしたら喜ぶのか、どれもできないのか、あるいは何も感じないのか。親との関係性はどうだったのか。またその感情に原因はあるのかないのか。あるなしを本人は把握できるのか、今の自分の状態を俯瞰する性格なのか、それとも感情に溺れる素直さがあるのか。
せめてこの程度のことは考えておかなければ、わたしは描写できません。
しかし、人物以外を固めすぎるのも考えものです。なぜなら文が死んでしまうから。わたしはこれで失敗したことが何度かあります。
文章とは生き物です。どうなるか書き手にもわからない部分があります。書き手が予測不可能な部分を楽しみながら書かなければ良い文章は生まれません。
なのでわたしは
・この場面で張り巡らせておく伏線
・この場面で最低限描写しなくてはならないこと。
・全体の大まかなあらすじ
この三点だけを決めて書くことにしています。
この中で一番決めることが難しいと最近特に感じるのは、二番目の最低限描写しなくてはならないことを決めるときです。
どの段階でどの程度情報開示するかは全て筆者に委ねられています。わたしはミステリーを描いているわけではありません。
しかし、すべての物語は多かれ少なかれ謎解きの要素を持っていると思っています。
だからこそ、此処でどの程度情報開示するべきか相当に頭を悩ませるのです。先日アップした「海のなか」でも、かなり悩ましかったです。
皆さんは小説を書いたことがありますか?どうやって書いてますか?よかったら教えてくださいね。
なぜ、わたしがこんな記事を書こうと思ったのか、そのきっかけになった本を今度ご紹介したいとおもいます。
マニアックな話にお付き合いくださり、ありがとうございました。
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