KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説を描くのに必要なのは、言い回しの巧みさ。

 どうも。クロミミです。

 先日、ある方からコメを頂いたときに考えたことについて今回は語っていきたいと思います。

 皆さんは、小説を描くときにたくさんの語彙は必要だと思いますか?

わたしは必要だと思います。

 ただし、この語彙という言葉に惑わされてはいけないとも思っています。なぜならわたしが小説を作るのに必要だと思うのは、厳密に言えば語彙の豊富さではなく、語彙の一部である「言い回し」の巧みさであるからです。

 わたしの愛する素晴らしい作家たちの文章を思い返してみると、彼らの文章には決して調べないと分からないような言葉はほとんど使われていません。

 彼らの文章が優れているのは単に言葉が豊富であるからではなく、言い回しが豊富だからだ、と考えます。

それは「視点の多様さ」と言い換えることができるのではないでしょうか。

 わたしが読書をしていてこの描写がすごい!と思うとき、その作家の場面の切り取り方、視点の置き方、またそれを表現する言葉選びに独自性があることが前提条件であるように思います。この独自性を味わうことも読書の楽しみの一つではないでしょうか。

 

 では、なぜ小説を描く際、「語彙という言葉に惑わされてはいけない」のでしょう?

 この言葉はわたしの実体験に基づいたものです。単純にいうと難しい言葉、目新しい言葉に固執しすぎると、硬く、流れが悪い文章になりがちだからです。

「良い文章をつくる」ことが目的のはずなのに、「難しい言葉を使う」「かっこいい言い回しを使う」ことに目的がいつの間にかすり替わってしまう。こんな経験をわたしは過去に何度もしてきました。

語彙が豊富=良い文章

ではない。

言い回しが巧み=優れた文章

なのです。ですので、理想を言うのであれば、平易な言葉で優れた文章を構成するのが最高、ということになります。

 

ただし誤解しないで欲しいのは、決して小説を描く上で語彙は必要ないと言っているのではないということ。語彙が多ければそれだけ選択肢が増えますから、必ず描きやすくなります。優れた視点を持っていたとしてもそれを文章として表現する術を持たなければ意味がありません。

 

わたしは読書をするとき、作者がどのように視点を操っているか、どのように言葉を使っているかに注目しながら読んでいます。このような視点を持って小説を読むことは、間違いなくわたしの文体を醸成するのに大きな役割を果たしています。

 

 創作において、たくさんの優れたサンプルを手に入れることのできる読書という行為は小説を描く上で大きな手助けになることは間違いないはずです。

 

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