KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説・海のなか(6)

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前話はこちら。

 

 

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※※※

 駅前の寂れた商店街をまっすぐに抜け、小さなトンネルを潜ると坂の上に市立図書館が現れる。濃い樹木の緑に石壁の白が夏の光に照らされて映えている。坂の下から図書館を見上げるのが好きだった。ふとした瞬間にずっと見つめてしまう。特別美しいわけでもないのに。この白く鈍い輝きをいつまでも焼き付けていたいと思う。坂の多いこの町の中でも一際高い場所に建てられたこの建物は遠くからでもよく見えた。いつも意識のどこかでこの場所を思う。たとえば、そう。子が親を探すように。

 おれが本を読むようになったのは一体いつだったのか、もう思い出せない。父さんも本を読む人だから気がついたら読むようになっていた。小学生の頃から週に一回ここで本を借りていくのが昔からの習慣だ。おれのこの習慣を知っている人間はあまりいない。多分家族以外だと沙也と夕凪くらいなものだろう。小学生の頃は友達と連れ立ってやってきたこともあったのだが。クラスメイトに言われた言葉が今でも忘れられない。あれは小学5年のことだ。

「おまえ本なんか読んでんの?暗いやつだな」

 もう誰に言われたのかすら忘れてしまった言葉が今でも鋭いトゲのように抜けない。あの頃からおれは決して人前で本を読まなくなった。だから学校図書館も勉強以外ではほとんど使わない。一時期は本を読むことから距離を置こうかとも考えた。あの言葉を聞いた時思ってしまったから。

「本を読んでいる奴は普通じゃない」と。

 普通が何かはわからない。けれど、普通じゃない奴には色々と都合の悪いことが起こるのだとなんとなくわかってしまった。本当は読書なんてやめてしまえればよかったのだが。今更やめ方が分からないほどには読書という行為はおれの一部になっていた。ごくたまに俺が本を読むことを知ると「読書が好きなの?」と尋ねる人がいる。あの問いの答えにいつも窮してしまう。おれにとって本を読むことは密接しすぎている。単に趣味ということもできない大切なもの。それが本であり読書という行為だった。本に触れ、本を読むことは生きることと同じだと思う。そんなものをただ「好き」とは言えない。

 他の奴にはこんなふうに思うものがないのだろうか。あればいいのに、と心から思う。時折この執着が怖くなる。この感情ももしかしたら「ふつう」ではないのかもしれない。だから誰にも言えない。けれど図書館にいるときだけはおれはおれのままでいられる気がする。だからこそ通い続けてしまう。行き場のない執着を吐き出すために。

 自動ドアを入るとラウンジではいつもの椅子で岡田さんが新聞を読んでいた。初老の男はおれに気がつくとニヤッとして被っている野球帽をひょいと上げる。おれも目礼を返しながらそばを通り抜けた。お互い口数は多い方じゃないし、たいして岡田さんのことをしってるわけじゃないが、何故だかおれにはこの老人が好ましかった。もうひとつの自動ドアがひらくとひんやりとした空気が流れ出してくる。このドアをくぐる時にはいつも安心と興奮を一度に味わうような気持ちがした。

 カウンターに向かうと向井さんがいた。向井さんはおれが小学生の頃からずっといる司書の女の人だ。多分母さんと同じくらいの歳じゃないかと思う。いつもバレッタで留めている黒い艶やかな髪が印象的な女性だった。

「おはよう。陵くん」

「おはようございます」

あいさつしながら借りていた本をトートバックから出して並べた。今回は泉鏡花の「外科室」と阿部公房の「砂の女」、それから村上春樹の「ダンスダンスダンス」を借りていた。

「返却です」

「はい、どうも。今回はどうだった?」

 向井さんは本バーコードリーダーで処理しながら上目遣いにおれを見た。今回の本は向井さんにお勧めされた3冊だった。

「うーん、『砂の女』はすごく面白かった。阿部公房ハマるかもです。でも『地下室』は…ちょっとむずかしかったかな。やっぱり擬古文体だから。でも、雰囲気と文体はかなり好きでした。あと、村上春樹はいつも通り面白かったな」

「陵くんってほんと村上春樹がお気に入りね。だいたいもう読んじゃったんじゃない?」

「…ですね。なんか他にお勧めの作家あります?」

「じゃあ、内田樹とかどうかな。なかなか面白い評論を書く人なんだけど。ハルキ関係の書籍もたくさん書いてるはず。面白いんじゃないかな」

向井さんはピンと一本指を立てて言った。この人はいつもながらびっくりするほど本を読んでいる。本当に雑食のようで漫画から小説、評論、戯曲、哲学書ルポルタージュに至るまで新旧なんでも。一体いつ読んでいるのだろう、と思うほどだ。いつだったか「読欲は人間の四大欲求の一つだから」とか言っていた。

 向井さんは時折本を勧めることがある。勧められた本はほとんど例外なく面白かった。彼女がおれ好みな本を毎度ピタリと当てる様は、まさに魔法のようだ。おれよりおれの好みに詳しそうだった。ここまでおれが本好きになったのも向井さんがいたから、というのが大きい。

 「それにしても重めのものが多かったのに、よく一週間で読めたね。私だったら無理」

 言われた途端かあっと顔が熱くなり、のどがぐっと詰まった。確かにこの一週間は読書ばかりしていた。あることを忘れたかったからだ。

   「…今、特設コーナーで地元に関連のある書籍を集めて展示してるからよかったらそこも見てみてね。志賀直哉とかいいんじゃない?」

 突然黙り込んだおれをチラッと見ながら、向井さんは話題を変えた。

「ありがとう」

 内心、彼女の察しの良さにほっとしながら教えられたコーナーに足を向けた。まだ顔が熱い。あの時を思い出したからだ。

 コーナーには多種多様な本が展示されていた。ゆかりのある文学者の著作から地元の伝承に関する文献まで様々だ。なかにはこの辺りの名物グルメ特集を載せた雑誌なんてのもある。自然、馴染みのある小説本に目がいった。志賀直哉の「暗夜行路」があるのを見て、をほとんど無意識に手に取りながらふっと思い出した。確か志賀直哉は昔この辺りに泊まって小説を書いていたことがあると聞いたことがある。他にも「城の崎にて」や「赤西蠣太」を見つけて知っている題名に思わず手が伸びそうになるが、ぐっと堪えた。今回は2冊までに抑えると決めていた。同じ轍を踏むわけにはいかない。あとは内田樹を一冊で終わりにすべきだ。切り替えようと勢いをつけて立ち上がると、平置きされている本の一冊が目をひいた。本、とは言っても絵本に近い形態のものだった。青い本だ。深い青の表紙に一人の女の子が描かれている。さながら暗い海の中を独りで泳いでいるような絵だった。美しい色彩に目を奪われながらおれは気がつくと口にしていた。

「…あお」

 それは嵐のあの日に夕凪が口にした言葉だった。やっと冷えた頭にまた血が上るのを感じた。あの日からずっとこの調子だ。何かにつけ、夕凪のことを考えてしまう。正確にはあの日のあの子を。何度も何度もプレイバックした、いくつもの場面がまた鮮やかに蘇ろうとしていた。この執着が怖かった。あの日からずっと。未知の何かが侵してくるような感じだ。毎度必死で振り払おうとしているにもかかわらず、どこまでもまとわりついて離れない。

 気がつくと無意識のうちにおれのは青い本を手にとっている。表紙にはは『少女と海神』とかいてあった。本は吸い付くように手に馴染んでいた。不意に自分の体がだんだん曖昧になっていくのを感じた。周りの音が急速に遠ざかる。

直感的に、自分が求めている本だとわかってしまう。こうなったらもう読むしかないのは経験則で知っていた。小さくため息を付きながら、おれは観念して硬い表紙をめくり最初の一行を辿りはじめた。

 


※※※

 

海のなか(7)につづく。

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