KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

好き嫌いと尊敬できるかは別。

今だから言えることを言いたいと思う。

実はある上司がこの上なく嫌いだった。

なぜなら彼は善いひとだったからだ。

 

 私は善人が嫌いだ。善良であることを尊び、すべての人が和を重んじると心から信じている人間が大嫌いだ。

なぜなら、私はなぜか常に善人から排除される対象であり、そして善良であることに私自身は少しの価値も見出せないからだ。

ある上司はまさにそんな人間だった。

出会った瞬間、分かった。

ああ、こいつのことが嫌いだ、と。

事実その通りだった。私の直感が外れることは少ない。昔からそうだ。あの人のすることなすこと全てが癇に障り、目障りに感じる。

 きっと上司にとっての私もそうだったことだろう。彼は善人として異物である私を少なからず排除したい欲求にかられることがあったはずだ。まあ、でも真相は定かではない。何せ私は彼の行動原理は理解できても、彼の思想や感じ方はきっと一生理解できない。

 

ここまで延々とある上司が嫌いだということについてひたすら書いてきたわけだが、ここでひとつ不思議なことがある。

 

私はある上司のことを嫌悪しているが、同時に上司として人として尊敬している。

 

この二つは矛盾しているように思われるだろうか。実はこういう状態は私にとって初めてではない。

私の中では「嫌悪」と「尊敬」が矛盾なく成立しているのだ。

 

彼は善良であるだけではなく、人格者であったので私を理解しようと努力しているようだった。

そして無理に理解することを諦め、その上でわたしと向き合う術を模索しているように思えた。

 

一度理解しようとしたものを諦め、その上で対象を切り捨てないというのはなかなかできるものではないと思う。

 

この事実に気がついたとき、心から

ああ尊敬できる人だな、と思った。

人として素晴らしい部分のある人なのだと。

 

ひねくれたわたしですらこう思うのだから、彼はやはり上司として優れていたということなのだろう。

 

ただ、一つ言っておきたいのは、私にとって最後まで彼は変わらず最大の嫌悪の対象であり続けたということだ。こういう心情を体験するたび不思議な気がしてならない。

 

こんな風におおっぴらに上司を部下が評価するなど、本来傲慢にも程があると思う。

不快になった人がいたらすみません。

皆さんは、嫌悪と尊敬が同時に成り立つ状態を経験したことがあるだろうか。