KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

掌編小説・『死の明日』

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 液晶が青白く発光し、目を灼いた。
 もう夜が深いーーー。
 眩さにそう悟った。部屋の片隅からはラジオの微かな音が聞こえていた。音量を絞っているので、内容は聞き取れない。それで構わなかった。耳鳴りがしないのであれば。いつもは気にもとめない沈黙が、今夜はやけに煩かった。
 タブレットを手放して、横たえた身体を仰向けにした。暗い1Kはやけに広く感じられる。端末の光が白い壁紙に反射して、闇に濃淡を生み出していた。光が鬱陶しい。やけに不安定な夜だった。
 ラジオの声が耳につき、新たな不快を呼んだ。もう何時間も眠れないままだ。それは、この蒸し暑さのせいなのか。それともまた別の理由か。せめて暑さを取り除こうとスイッチを入れた弱い扇風機の風さえも、眠りを邪魔する。摩耶は冷えた足を擦り合わせ、また何度目かの寝返りを打った。そうして、湿ったシーツにしがみつくように目を閉じたその時。どこかからか、音がした。

ブツッ

ついで、水が勢いよく迸るような音を間近で聴いた。
何だ?
耳に手を当てると、なぜか生ぬるくそしてべっとりと濡れている。汗にしてはやけに重い。濡れた手を目の前にかざすと、赤い。血だ。瞬間、息も忘れて見入った。液晶の薄灯にてらてらと光るそれ。その液体は、間違いなく首筋から吹き出したものだった。痛みはない。痛みはないが恐怖に支配される。
 どうすればいい。どうすればいい。どうすればいい。どうすればいい。どうすればいい。どうすればいい。
ーーーもうわかっているじゃないか。
ーーー何を?
ーーーこんな夜が一番近いんだ。
『死に』
 唇が我知らずそう動く。
 ああ。そうか。
 乾いた感慨とともに、意識は闇へと堕ちていった。

※※※

 手のひらが汗ばんだ首筋に触れていた。摩耶は自分の目が開いたことを改めて認識した。何度か瞬きを繰り返して、確認する。
 これは現実、と。
 真夜中の室内は文目もわかぬほど暗い。目を開いても閉じた眼裏を見つめているようだった。だが、今は必要な作業だった。
 理解は後からやってくる。
 あれは、夢だったのだ。
 恐る恐る首に当てていた掌を目の前に翳す。やはり何も見ることは叶わなかったが、手を握る動作でまとわりつくものが汗だけだということを悟った。詰めていた息がようやく吐き出される。
 緩慢な動作で身を起こすと、膝を抱いた。じっとりと湿気を纏った肌が張り付く感覚は心地よいものではない。それでも、そうせずにはいられなかった。そうして、腕の合間にゆっくりと頭を沈めながら、摩耶は物思いに落ちていった。
 あんな夢を見た理由は、もう目覚める前から分かっていた。
 どうやら、また、死にたくなっているらしい。
 どこか他人事のように思った。
 ーーーいつになったら終わるのだろう。
 いつしか、摩耶の頭の隅をそんな想いが占めるようになっていた。おそらくは二十歳を過ぎた頃。明確な契機はなかったように思われる。ただ、気がついてしまった。永遠に続く退屈な生は、ゆっくりと首を絞めるように、いつか確実な死を齎すだろうということ。
 ある日突然、「自死」という選択肢が自分の生活に入り込んできたのだった。するりとさりげなく。それは、あまりに自然で強烈で。初めは随分と心を乱したものだった。けれど何年か経った今となってはほとんど習慣に近かった。どうやって死ぬかを考えるのは。
 出来るだけ苦しくない方が良い。それにいつ死ぬかも大切だ。出来るだけ意味のない死が良い。ただ死んだというだけで、意味を見出されるなんて。馬鹿馬鹿しいにも程がある。だからこそ、夢中の死は理想的だった。痛みはなく、鮮烈で、空虚だった。
 なぜ自殺なのか。理由は明らかだった。何か他のものに殺されることを許容できないから。それが他人であれ、病であれ。事故であれ。摩耶の高すぎる自尊心は、己の死すら操りたがった。
 束の間、幾度もなぞった思考の向こう側で、蘇ってくるものがあった。
 『昨日、リストカットした』
 その声は、学生時代の友人のものだった。いつもそう言っては、リストカットの痕を見せてきたのだった。あの頃、摩耶は密かに嘲笑っていた。
『どうせ、死ねないくせに』
それは確かに本当だったのかもしれない。あの友人が死んだという話は聞かない。あの頃は嘲笑うことができるほど、死と縁遠く生きていたのだ。それを思うとただひたすら眩しく、切なかった。過去がとても遠い、隣人のように感じられて。
 こんな風に、死を身近に感じるようになって思うのは、痛々しい友人の在り方こそが少女に相応かったのだろう、ということだった。あれはきっと自己承認欲求の裏返しに過ぎない。自分もそうであればよかったと心の底から思った。
 摩耶の場合はまったく違った。ただ温度の低い絶望感に浸されて、ゆっくりと自身が腐っていくのを眺めている。目を逸らすことのできない地獄が足元にゆるゆると迫るのを感じながら生きている。死がこんなにもゆっくりと訪れるものだとは、知らなかった。これも、緩やかな自殺と言えるのだろうか。死を感じるようになってからは、ただひたすら時間を稼ごうとした。退屈の入り込む余地のない場所まで自分を追い立てるように。必死で何かに没頭する自分を演出し続けた。あの頃はまだ、死にたくないという思いが身体を突き動かしてくれた。けれど今では、その衝動すら失せつつある。
 もう、生きる意味がない。
 理由なく生きることは、二度と治らない病の痛みをずるずると長引かせるようなものだ。
 いつ死ねるのだろう。
 ずっと考えているのに、まだ死は訪れない。
 一体、なぜ。
 そこがいつも、思考の行き止まりだった。何度も行き当たって、足の止まる場所。不意に、顔を上げるとカーテンの合間から朝日が差していた。暗い部屋はそこだけ白く染め抜かれ、様変わりした。目に沁みるような光だった。
 「くそっ……」
 衝動的に悪態をつくと、再び膝に顔を埋める。まだ抗っていたかった。本当は、分かっていた。死ぬにはまだ、死を知らなさすぎる。恐ろしいのは、知らないから。
 ああ。また明日が始まってしまう。否応ない明日が。いつか来る、その瞬間を待ち侘びている。こんなにも死は近しく寄り添っているのに。あの甘やかな吐息を吸い込むのは、まだ先。
 そうして緩慢な死を味わいながら、摩耶はまた一歩、歩き出した。ゆっくりと満ちる、絶望に耳を傾けながら。