KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

「本当に欲しいもの」を探して。

f:id:KUROMIMI:20210907072820j:image

最近ふと、向田邦子を読んでいる。

はっきりとした契機はなかったように思われる。

そもそもわたしは今までの人生上でまともに向田邦子作品に触れたことがない。高校だか中学だかの授業で「字のないはがき」を読んだきりである。

だから、これが人生初向田邦子ということになる。

ひとまず読んだのはこの二つ。
「伯爵のお気に入り」
「海苔と卵と朝めし」

読んでみると今とは違う女性像や男性像が浮かび上がってきて面白い。そんなことを思いながら軽い気持ちで読み進めていた。祖母や祖父はこのような世界観を持って生きていたのだろうか、と。ふた世代も離れるとその有り様はまるで別世界である。

彼女の文章は不思議なほど肌に馴染んだ。なぜだろう。向田邦子は今で言うジェーンスーのような立ち位置だろうか、と思う。

わたしはジェーンスーも好きだが、何故かスーさんの文章を読んでいるとどことなく後ろめたい気分になる。基本的に彼女は自分の闇を描かない。描いたとしても見苦しさはない。それが心地よいのだが…わたしは自分が責められているような気分になるのだ。

向田邦子は違う。
彼女の文章はどことなく仄暗い。だからわたしは安心して呼吸できる。わたしはわたしのままでいいのかもしれない、と。彼女の闇に勝手に救われる。

この両者は女性エッセイストとしての描き方がとても似ているように思える。けれどわたしに与える影響は真逆なのだ。

ジェーンスーは眩しい光を発してわたしを照らしてくれる。向田邦子は夕べの窓際のように安らぎを与えてくれる。光と闇どちらもなくてはわたしは生きていけない。これはあらゆることに言えることだが。

こんな印象を抱きながらわたしは初めての向田邦子を楽しんだ。だが、これだけならこれから先も長く読み続けようと思うことはなかっただろう。

わたしの心を鷲掴んだのは「伯爵のお気に入り」に収録された「手袋をさがす」というエッセイだった。

向田邦子はエッセイなのに虚構性を感じさせる読み味がクセになるのだが、これは際立って作り物感があった。

これはわたしにとって最上の褒め言葉だ。エッセイも一種の虚構である。虚構性を感じさせるということはそれだけ異化がしっかりとされた素材だからだ。ここまで虚構を感じさせるエッセイにわたしは触れたことがないかもしれない。

「手袋をさがす」というエッセイはこんな感じ。

向田邦子は若い時分、冬場なのに外で手袋を付けず素手だった時期があったらしい。寒くないわけではない。これだという気に入った手袋がないからだ。気に入らないものをつけるくらいなら、寒さを我慢するというわけだ。彼女はいまでも本当のお気に入りになれる「なにか」を探し求め続けている…。


このような向田邦子の在り方はわたしとそっくりだ。わたしも「わたしを真に満たしうる何か」を探し続けて今まで生きてきた。

次々に色々なものが欲しくなる。
本、仕事、洋服、アクセサリー、コスメ……キリがない。己が欠落を埋めるため、わたしは日々、様々なものを欲し続けている。

わたしは月のように満ち欠けを繰り返しながら形のない満たされた瞬間を追って生きてきた。月がそうであるように、心にも満ち欠けがあることは、当然なのに。欲深いわたしは幻想を諦めきれない。内面の不完全さをこの歳になってもなお、受け入れられないのだ。

終わりのないループに飲み込まれながら、本当に欲しいものがわからなくてもがき続けている。そんな無様さを憎みながら愛している。

全てのものは何かの代替品だ。本当に欲するものがわからない限り。

向田邦子もそうだったのだろうか。


そう考えたら、とっくにあの世へと逝ってしまったはずの女性が、肉感を帯びてわたしの前に立ち現れたのだった。

悩み深い部分で誰かと共鳴する。

それはある種、神に向けた祈りや告解に近いのではないか。

向田邦子が今なお愛され続けるのは、こうした面があるからかもしれない。


#本が好き #本が好きな人と繋がりたい #エッセイ本 #向田邦子 #読書記録 #読書感想文#哲学#生き方を選ぶ #コスメ好き#コスメ好きさんと繋がりたい #読書好きな人と繋がりたい #おしゃれさんと繋がりたい #イラスト好きな人と繋がりたい