最近気がついたのだが、どうやら私は覚悟を決めること、が得意らしい。
私は現在、正規図書館司書である。
特に突出した能力はないし、勉強だってできない。要領も悪ければ、視野も狭い。苦手なことも多すぎて数えきれない。(得意なことは片手で足りる。泣きたくなってきた)
それなのになぜ正規の司書になれたのだろう、と時々思うことがある。幼い頃から司書になりたかった。だから、今見ているのは、都合のいいちょー長い夢で、実は自分は就きたいわけでもない職についてぶうぶう文句を垂れている、という方がしっくり来る。
もしもそんな時が来たら、やっぱりか…。と思いつつ、やれやれ。思ったより自分は司書になりたかったらしいな。本でも読むか。と、深いため息でもつくだろう。
とまあ、こんなことを言い連ねても現在知る限りにおいて、私は正規の司書な訳である。
これは夢じゃない。多分。
じゃあ、なんの取り柄もない私がなぜなれたのだろう。
やっぱり心はいつのまにかこの問いへ戻ってくるのだ。
そこで気づいたことがある。
わたしにはしょうもない得意技が一つあった事に。
それが「覚悟を決める」ことであった。
人生上、何かをしなければならないと分かった時、悩んだりすることがなかったように思う。
するべき事、しなければならない事がたとえやりたくない事だったとしてもなぜか即座に腹が据わる。
そして実行に移そうと全力で努力し始めるのである。
思えば昔から、このような流れで物事に取り組んできたような気がする。
手を抜くことが苦手だ。常にゼロかイチかの単純さで生きているわたしは、曖昧にしたり、いい感じに手を抜いたりが本当に苦手だ。そんなことをするくらいなら、最初からしない方がマシ。(たとえ損をするとしてもだ)
これは間違いなく、生来の気質だと思う。
図書館司書になる際にも、このようなわたしの気質がおそらく役立ったのだろう、と今にして思う。
なぜか。
それは、シンプルに正規の図書館司書の雇用が極端に少ないからである。
当然雇用が存在しない県なんて、毎年珍しくもない。
全国で年間15件出れば御の字だ。
ただでさえ少ない雇用である。受けられる試験は全て受験するくらいの気概がなければ一生正規の司書になどなれはしない。
必要とあれば、本州から出ようが試験は受けに行くべきである。それくらい受験機会は重要である。司書の専門試験を受ける際に最も困るのは、事前に解けるテスト問題の少なさだからだ。司書の試験ではほとんど過去問というものが公開されない。(専門試験のみ)その意味で、受験は落ちたとしても受ける意味は大きい。面接なんて、こなせばこなすだけ上手くなるのだから受けない方が勿体無いのである。
だからこそ、今住んでいる県どころか市から出たくない。などとほざいていては絶対無理。司書の雇用の少なさでは10年経とうがその市に一件も雇用がない可能性は十二分にある。(実際わたしは十年間雇用がなかった市を複数知っている。そういう県すらあるだろう。)そうして、来るべき「その時」を待っている間に我々は年を重ねて受験資格を失ってしまう。
だからこそどれだけ試験に落ちようが、歯を食いしばって耐え、何度も食らいつく執念が必要だとしみじみ思う。臨むものは飽くまで追い求める貪欲さが必須なのだ。
多分、他の人よりわたしが優っている部分があったとすれば、それはおそらくこういう必死さだけなのだろう。
まあ、最近はそういうわたしの性質を見抜かれて、上司に言いように使われている気がしないでもないが。
「こいつ、頼んだらすぐ覚悟決めてやるわwwwじゃあこれもこれもこれもいけるやろwwww」みたいな。
みなさまの特技はなんだろうか。