前話はこちら。
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見つかってしまった、と思った。
今だけは誰にも会いたくなかったのに。けれど、よく考えてみれば会わないはずがないのだ。陵の家はこの神社を抜けてすぐだった。そんなことすら頭から抜けてしまうほど考えに没頭してしまっていたらしい。気まずさに顔を上げることができず、足元に視線を彷徨わせていると、彼の手に握られているそれが自然と目に入ってきた。その両手には焦茶の通学鞄とビニール袋がある。きっと彼は帰宅するところなのだろう。
薄暗いせいで一瞬見た相手の表情は読めなかった。いっそのこと、真っ暗闇なら誰かすらわからなかったろうに。
「夕凪、…だよな?」
「ひ、ひさしぶり」
返答は平常より幾分高く、その上裏返ったものになった。声を出すこと自体、違和感の伴う行為だった。そこで気がついた。そもそも、海中以外で自分の声を聞いたのが久しぶりだということに。
「よかった、人違いだったらどうしようかと思った。会うの夏以来かな。あれから体調とかどうなん」
そう言うと、陵も私より一段下の石段に腰掛けた。ビニールが擦れる音がして
「夕凪、甘いものいけたよな?」
と、アイスが差し出される。
「…いいの?」
「あ、これスプーンな。帰ってから晩飯作るのめんどくてここでちょっと時間潰してから帰るつもりだったんだ。実は」
手渡された木製スプーンを見るに、それは本当らしかった。
「ご飯、作ってるんだ」
すごいね、と続けようとしてなんとなく声が出なかった。ひどく空々しい感じがして。口に含んだストロベリーアイスがあっという間に溶けていった。
「ああ、姉ちゃんがうるさいからせっつかれてって感じだけど。俺も作るの嫌いじゃないんだ」
彼のはにかんだ表情が自然で、思わず見入ってしまった。私の拙い返答があまりにも情けなくて、今すぐにでも立ち去りたいような気になる。
「夕凪は最近ここに毎日いるわけ?」
「ああ……。まあ、そう」
曖昧な返事で濁したけれど、それはある意味嘘だった。この神社にわたしがいるのは今に始まったことではなかった。記憶にある限り幼い頃からこの神社はわたしの場所だった。ずっと前から、家にいたくない時は自然とここに足が向く。けれどそれは小学校卒業までの話だった。通えなくなったのは神社が改装されたのが原因だった。改装前の神社は古びていて、神主も碌にいないような場所だった。だからなのか当時は人家に囲まれているにも関わらず、そこだけ取り残されたように人がいなかったのを覚えている。そんな姿が自分自身と重なって、幼いわたしは神社に居着くようになっていった。神社が寂れて哀れな様であればあるほど、心地よかった。みすぼらしくてどうしようもないのは自分だけではないと錯覚できた。わたしにとっての居場所は、今はもうないその神社だけだったと言ってもいい。
けれど、結局わたしはそんな場所すら手放すことになった。改装され真新しくなったそこは、もうわたしと似てなどいなかった。参拝者が訪れ、活気に満ち、輝いていた。社殿のまだ年月を吸い込んでいない白い肌を見ると、何故だか気持ちが悪いほど心が揺さぶられた。今だってそうだ。結局わたしはごく最近までついに一度もこの場所足を運ぶことができないでいた。
それでも今この場所にいるのは、他に行き場がなかったからに過ぎない。神社は変わってしまった。わたしを癒す翳はもう、ここにはない。わたしはやはり喪ったのだ。喪失を改めて味わい、孤独は増すばかりだった。
「なあ、夕凪」
「っえ?……ごめん、ぼうっとしてた」
深く物思いに沈んでいたことを漸く自覚してから、わたしは陵に聞き返した。
「何の話だったっけ」
「いや。家には帰んないのかと思って。それだけ」
陵は少し気まずげに微笑んだ。
「家に帰る」と思うと途端に億劫だった。父とは過去を思い出したあの日以来、碌に会ってもいない。会ったところでどんな顔をすればいいのだろう。父の心情を推し量るには、わたしは人心について知らなすぎる。母に関しては、ここ数年会いたいなどと思ったことはなかった。もはや、彼女と同じ空間で息を吸うことすら苦しいのだ。だからこそ、最近は彼らが絶対に寝静まった深夜に帰るようにしている。
両親はきっとわたしの不在に気がついていないだろう。父も母も決してわたしの部屋に立ち入ることはなかった。彼らもわたしに関心がないのかもしれない。わたしがそうであるように。他人は冷たい、と言うのかもしれない。けれどそれで構わなかった。今のわたしにとって独りである事以上に安らぐことなどない、と思えた。
「あのさ、しばらくここにいるんだよな?晩飯まだまだろ。だったらちょっと待っててくれないか」
そう言う陵の言葉はやけに早口だった。まるで緊張しているみたいに。
「え、それは…ここにいるとは思うけど。でもどうして」
すると、彼はすっくと立ち上がって思い切り伸びをした。
「今日、うちの夕飯おでんなんだ。夕凪が嫌いでないならここに持ってくるよ。作り置きあっためるだけだから、すぐだし」
突然の提案に目を白黒させながら反射的に固辞した。
「えっ?!そんな、悪いよ…」
「いいから、待ってて!」
やけに明るくそう言い放って、既に陵は駆け出している。見送るわたしの手の中では、既にアイスがカップの中で溶けかけていた。
***
海のなか(36)へと続く。
次話はこちら。