掌編小説 「赤い唇の女」
ーーーこれは雨の呪いのようなものだ。
ガラス窓の中の女が微笑った。わたしは決して笑っていないのに。手を頬に触れるが、そこには僅か強張りすら感じなかった。
初めに気がついたのは水たまりだった。幼い日のある雨の午後。暇を持て余して水面を覗き込むと、自分の影が写っていた。退屈極まりなかった。ーーーその影がひとりでに動き出すまでは。あの時影は言った。「退屈なの?」と。
それからこの呪いは続いている。こんな奇妙なことさえも、回を重ねるごとに驚きは失せていく。最初は怪しみ恐怖を感じていた気もするが、今では日常の一部に過ぎなかった。私は寒気を感じ、目覚めた。どうやら窓辺に腰掛けて眠っていたらしい。短い夢を見ていたようだった。過去の記憶を再生するだけの、くだらない夢。人気のない図書館の奥で、居眠りをすることくらい贅沢なことはない。窓の外ではいつのまにか雨が降っている。6月のいつ終わるとも知れない降水は憂鬱を呼ぶ。するとその時、窓ガラスに映った影が笑った。女が言う。
『久しぶりね』
「ええ」
『宿題は?』
「まだよ」
同じ顔なのに、全く違う人物のように見えるのがいつも不思議でならなかった。あんな風に笑えない。私は。
『今日も冴えない顔してるわね』
影はいつものセリフを繰り返した。だからか、わたしはわざわざ何か言う必要も感じなかった。
『そんなにつまらない?』
黙り込んだままのわたしに、影がまたお決まりの文句を投げかける。なぜか、答えたくなった。「ええ」と頷きながら、頭の隅で考える。もしもこの女がただの幻影だったなら。わたしは友人が欲しかったということになるのだろうか。わたしの心を見抜いてくれる誰か。そんな存在が欲しかったということなのか。だとしても、実際にそんなものは手に入らないだろう。 それらしい人物が現れたところできっと私は信用しない。心の内を彼女に吐露するのは、影が私と同じ姿で、しかも幻に過ぎないからだ。そうでなければ、こんな関係は生まれさえしない。もしくは関係が長くなった頃、どちらかが関係を結び続けることに飽きて手放してしまうだろう。手放された縁が消えるのは早い。過去にそういう経験がないわけでもなかった。もはや顔さえも思い出せないかつての友人達。あれらの関係性は結局無意味なものになってしまった。いくらその顔を見つめても、くわくわと蠢くだけで空白を埋めることは叶わなかった。縁が途切れたことより誰かを忘れてしまい、私にとっての意味が完全に失せたことが悲しかった。ほんの束の間胸中が荒涼とする。でも仕方なかった。それが事実だ。
『新しい趣味でも始めてみれば?」』
影はなおも笑いながら語りかけてくる。
「何を?」
『図書館にいるんでしょ?…読書とか』
「もう飽きたのよ。それに今図書館にいる理由に本は関係ないの。適度に涼しくて快適な場所がここだっただけ」
『なら音楽は?』
幾分考え込む様子で彼女は提案する。
「うるさいのは嫌い」
『なら絵を描くとか』
「面倒だわ」
『…そんな風に生きてて楽しいの?』
女は困り顔すら美しく思えた。同じ顔をしているはずなのに。
「あんたは?生きるって楽しい?」
いつのまにか問いかけていた。今まで趣味の一つもなかったわけではない。絵を描くことに没頭したこともあった。読書を心から楽しいと思っていた時期もあった。けれどそれはもう過去の話だ。いつからか気がついてしまった。いくら好きなものをかき集めたところで、虚な中身が埋まることはない。永遠の暇を忘れられるほどのものを結局探し出すことができなかった。それを悟って以降、どれだけ今まで好きだったものを愛そうとしても無駄だった。退屈は不治の病のように端から心を蝕んでいた。私は悦びがあるから生きているのではない。ただ、産まれたから生きているだけ。死を恐れているに過ぎない。
『…少なくともあんたよりはそう感じてると思うけど?』
虚像は言った。そしてこう提案する。
「ねえ、それならこうするのはどう?私がそっちに行って、あんたはこっちに来るの。どう?」
『そんなこと、可能なの?』
訝しむ私に、女は頷いて見せた。
「そっちに行ったところで、この死にそうな気分がどうにかなるって?」
そう嘲笑した途端、外の雨音と自分の心臓の音が急に大きくなった気がした。膝の上で握りしめた手は熱を持ち、震えていた。
『さあ、そんなこと知らないわよ。どう感じるかなんて。あんたにしか分からないことじゃない。違う?』
言う通りだった。女は美しい微笑を湛えて、答えを待っていた。その姿には私にはない余裕が感じられ、やけに眩しい。所詮は虚像、幻想に過ぎないはずなのに。そう考えたせいだろうか。気がつくと、こう答えていた。
「…悪くないわね。どうすればいい?」
すると、赤い唇は弧を描いた。
『私の手にあんたの手を重ねて』
言われるままにすると、驚くことが起こった。ガラス窓に手が沈み込んでゆく。声にならない悲鳴をあげて影を見ると、女はもう笑っていなかった。
『あんたにとっての退屈が、私はずうっと欲しかったのよ』
「知らなかったでしょ」と言って、微笑みかける女はどんどん実体を帯び、麗しさを増していく。反対に私は透けて虚像に近づいていった。それが最後に見た光景だった。
***
雨音がした。目覚めるとそこは図書館の窓辺だった。椅子に腰掛けたまま、いつのまにか眠っていたらしい。嫌な汗をかいていた。奇妙な夢だった。あまりにも生々しく、非現実的で思い出すと笑えてくるほどだ。虚像が動くなんて。馬鹿馬鹿しい。
館内放送がかかる。もうすぐ閉館らしい。窓の外を見るとまだうっすらと明るかった。夏の夕暮れは遅いので、ついつい長居し過ぎてしまったようだ。帰り支度をすると書架の間をすり抜け、出口へと向かう。と、その時すれ違った司書の顔に違和感があった。ーーーその顔は「私」と同じだったのだ。
「え?」思わず声を漏らすと、それに合わせたかのように館内にいる人々が全てこちらを向き始めた。ーーー全て女だった。長髪の女がいた。短髪の女がいた。三つ編みの女がいた。ポニーテイルの女がいた。だが一人残らず全て私だった。いや、全てが私と同じ容姿をしていた。幾つもの双眸が爛々と光っていた。張り詰めた沈黙と共に私は彼女らに品定めされているようだった。天地がかき混ぜられる。そうして思い知った。先ほどまでの夢が現実であり、そしてここに閉じ込められたということを。
そしては私は全てを喪失した。
【了】