KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説・アキラの呪い(19)

 

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前話はこちら。

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 


***

 


 赤黒く固まった血に塗れた敷物をゴム手袋越しに触ると、ずっしりとして重かった。そうしてその下から出てきたのは大量のペットシーツだった。犬猫が排泄をするときに下に敷くあれだ。夥しい数のペットシーツは血に染まりきっていた。

「…呆れた」

 これから死のうというときに、部屋の心配なんかしていたのか、あの女は。その上、これを俺に処理させるとは。俺の心情にまで思いが至らないのが、いかにも姉らしい。姉は人でなしだが、わざわざ他人を傷つける行為には興味がない。ただ彼女の無神経な振る舞いに傷つく人間がいるというだけで。本当に最悪な女だ。吐き気がする。たまにこうして、あいつと家族だということに目の前が真っ暗になるほどの絶望を感じることがあった。だが、同時にその繋がりにしがみつき絶ちがたく思っているのも俺自身なのだ。そう。いつでもその点が厄介だった。二律背反に押し潰され、俺のやりたいとことがなんだったのかさえ、わからないと感じてしまう。このまま根腐れるまて血塗れで立ち竦むのか。俺には答えが出せないままだった。だからこそ晶が決めてくれたらいいのに、と心のどこかでずっと思っていた。そうすればゆらゆらと落ち着かない心情もやっと足場を見つけられるんじゃないかと。あいつはなにも言わない。俺がずっと待っていることすら知らない。それが時折無性に辛かった。

 顔を顰めながら血に塗れたそれらをいくつものビニール袋に詰めていく。不透明なゴミ袋が必要な気がしたが、自分でしたことの後始末くらいは姉自身にやらせるべきだ、と思い直した。彼女の執拗と言えるほど厳重な対策のおかげか、ペットシーツはほとんどの血液を吸収しきっていた。おかげでそれらを捨てた後は軽く水拭きをするだけで現状復帰することができた。だが、問題は匂いだった。鉄臭い匂いは未だ部屋の中に充満していた。窓を開けて換気をすると、幾分涼しい風が通り抜けていくのを感じる。自分の服にも血の匂いがついていることに気がついたのは、その時だった。予想はしていた。

 着替えを持ってきてはいたものの、血の匂いを漂わせたまま電車に乗るのは気が引けた。

 「風呂、借りるか…」

 呟いて風呂場を目指すと、一歩踏み出した瞬間から嫌な予感が這い上がってきた。正体がわからない泥沼に足を踏み入れてしまったような。違和感を踏み潰して足だけはどんどん近づいていく。そして浴室の引き戸を開けた瞬間、分かった。目の前には薄暗い箱に似たユニットバスがあるだけだった。けれど俺には「見えた」し「聞こえた」んだ。水音と共に俺の中に棲みついた光景。碌な明かりも灯さない場所で死にかけていた女の姿が。ーーーここは、姉の最初の自殺未遂現場だった。当たり前の事実になぜかこの瞬間相対した気分だった。この部屋は義姉が起きて眠り、飯を食べ、そして死に臨んだ場所だ。今までちっとも思い出さなかった。あれほど色濃く刻印されたはずの凄惨な有様を。

 きっと避けていた。せめて正気であろうと努めるあまり。中身が崩れれば俺という外形を保つことすらも不可能になる。そうなれば姉は自分の元を去るに違いない。本能でわかっていた。崩壊を耐えることの方が彼女を一人きりにするよりは随分楽だということを。そして多分その選択を無意識にした。だからこそ、気がつけなかった。自分に何が見えていないのか。

服を脱ぐのも忘れて蛇口を捻ると、真横からシャワーが注がれた。どんどん服が濡れて肌に張りついていく。あいつは恐ろしくなかったのだろうか。死が。自ら死を呼び寄せようとしたことが。つい先日まで当たり前のようにここで生活していた姉がとても奇妙に思えてきた。「どうしてあんなに普通だったんだ?」そんな疑惑が俺の中では急激に膨らみ始めていた。俺と同じく崩落しそうなものを姉もまた胸に秘めているのなら。それを隠しているだけならいいのに。それとも、

 「お前はなんでもないってのか?…俺はこんなに…」

 口の中で低く呟いたが、水音に埋められた自分の耳にも届かないくらいだった。俺が傷ついたのと同じくらい、あいつにも傷ついて欲しかった。見返りがいらないなんて嘘だった。せめて伴走者として認めて欲しい。姉の感情を理解し、分かち合える存在でありたい。ずっとそう願い、欲してきたことを漸く自覚した。ずっとガキだった頃から何ら変わらない本心だったはずなのに。俺には見えちゃいなかった。

 『俺も連れて行ってくれ』

 ただずっと、その一言を伝えたかっただけなのに。己の幸不幸くらい理解できているつもりだった。弟という座を偶然与えられた。誰にも奪われることのない場所を。それだけで満足すべきだ。「家族」でなければ、俺は晶の人生に存在さえしていなかっただろう。

 


 『共に生きれないなら、共に死んでくれ』

 


 いつからかそんな言葉が頭の片隅を占めるようになっていた。狂った考えだ。死んだら何もかもお終いなのに。誰かを見つめることすら叶わなくなるのに。

 俺の望みは本当にこれでいいんだろうか。このまま苦しみ続けることと、このまま死んで全てに無感覚になること。どちらの方が本当の望みに近いのかわからない。

 この行き止まりの先には水無瀬晶がいる。俺の苦しみと悦び、両方をその手に担って。

ーーー彼女はそれを知らない。だからこそ死のうと思えるんだろうが。いや。あのクズはそんな事実すら知りながらも己の望みを叶えることを優先するかもしれない。そんな冗談のような考えに場違いにも笑みが漏れた。きっと歪んで醜い独り笑いだっただろうが。

 姉に教えてやりたかった。今の最低最悪な気分を。構わずぶちまけて何もかもめちゃめちゃに打ち壊してやりたかった。これまでの努力も虚像も平穏も全て。

 『もう決壊する』

 耳元で告げるような水音だった。

 

 

 

***

 

アキラの呪い(20)へと続く。