小説「アキラの呪い」(25)【完】

最終話 怪物と人間の論理
語り終えた彼女はむしろ退屈そうに見えた。ここまで衝撃を与えておきながら。やはり俺の姉はろくでもない女だ。当たり前のことを再度噛み締めながら、俺だけが感情的になっているようで急に馬鹿馬鹿しくなった。彼女は一度も激することはなかった。あまりにも淡々と用意された原稿を読むかのように俺に語って聞かせた。今この状況が彼女の予定にあったとは思えない。
それならなぜ?
今まで見えていた寡黙な水無瀬晶は幻だったのか。そんな風に思えてしまうほど彼女の唇は滑らかに動いた。誰かが止めようとしたって止まらないとでもいうかのように。俺は勇気を出してもう一度姉を正面から見つめる。穏やかな眼差しだった。どんな強い感情も通り過ぎた後の凪いだ水面のような瞳。それを見てようやく悟った。「最後だからだ」と。彼女は遺言しようとしているのだ。今、ここで。
気がつくと立ち上がりテーブルの向かい側に立っていた。俺の右手は彼女の左肩を掴んでいる。いつのまに俺は動いたんだ?手に入る力を抜くことができない。まるであの時のようだ。晶の1度目の自殺未遂に立ち会ったあの時。入院した彼女の肩には青あざがいくつか残っていた。姉は尋ねなかった。まるで自分の傷に関心がないように。
骨が軋む感触がした。確かに痛いはずなのに姉は嫌がるそぶりすら見せない。それどころかあいつは微笑んでいた。
「なんでわからないんだよ。生きてて欲しいってそう言ってるだろ」
加工なしの岩石のような言葉がボロボロと出ていった。雪崩れていく。何もかもが。
「俺に縛られたくないって?逃げ出すのかよ。あんた俺の言うことなんて聞きやしないくせに…!」
涙でも出るかと思ったのに瞳は痛いくらい乾いている。
「なんで…なんで俺から離れて行こうとするんだよ…!俺の人生に現れたくせに。勝手に消えるな」
半分泣き言のように吐いて姉を睨みつけると、そこには満面の笑みがあった。見る者をゾッとさせる弾けるような笑顔。晶とは思えないその顔。別人としか思えない変貌に昂っていた心が一気に冷えていくのを感じた。恐ろしかった。化け物のような女が本当に人ではないように思えた。一線を超えて別の生き物に変貌した。
晶はいつのまにかその両手で俺の頬を包み込む。そしてまた屈託なく笑顔になった。肌がまた粟立つのを感じる。
「もっと言ってよ」
「…は?」
「ねえ!はやく!!」
その声はもはや恫喝に近かった。喰われる、と本能的に思った。女はだんだんと身を乗り出してくる。今で触れそうなほど近くに姉の鼻先があった。
「あんたは甘いの。生きてて欲しいんでしょ?そんな生ぬるさで地獄を生きろって?」
だんだん顔に触れる手には力が入り、髪の毛が握り込まれていく。「ふざけんなよ」と晶は性別不明の低音で叩きつける。気がつくと俺は真上を向かされ、覆い被さるように姉がいた。小柄な女をいつになく大きく感じ、身震いがした。
「私はいつも求めてた。あんたが言うのを。なのにあんたはいつも待ってるだけじゃない。もうまどろっこしくて。なら生きるか死ぬかはっきりしたほうがいい」
限界まで見開かれた瞳は激情に踊っていた。俺を焼き殺してしまいそうな熱量だ。
「試したのか…?」問いながら、違う。と思った。こいつはそんな女じゃない。そんな簡単なことなら俺はここまで苦しまない。人間に怪物の論理はわからない。その理解不能さが俺をいつでも打ちのめしてきた。
「私がそこまで計画的じゃないことくらい知ってるじゃない。その口が開く瞬間をどれだけ楽しみにしてたと思ってるの?ねぇ、最高じゃない。この瞬間の楽しさに裏切られたたらどうしようって実はずっと思ってたんだけど」
その口は不気味に滑らかだ。潤滑油でも塗ったかのように。いつのまにか頬に置かれていた手から親指が伸びてきて唇の形を辿っている。
「いいよ。もう少しだけ生きても」
「え?」
「今日は楽しかった。明日もそうかも」
享楽的で危険な愉しみに酔い、彼女の目が三日月型に歪む。
「だから楽しませて。あんたが生きて欲しい分だけ」
お前にはそれができる。暗にそう言われた気分だった。なぜそんなにも確信に満ちているのか。それが一番わからなかった。
「晶はそれでいいの…?」
俺は封じたはずの呼び名で彼女に問いかけていた。我ながらあまりにも幼い声が出て、顔が熱くなるのを感じた。晶はさらに笑みを深くする。きっと彼女自身にもわからないのだろう。俺の義姉はあまりにも奔放で気まぐれで予測不可能だから。そんな自分の性質に水無瀬晶も振り回されて、挙句こんな生き物になってしまった。
もしかすると、誰よりも分かっていたつもりで、実は忘れていたのかもしれない。俺の姉は傍若無人で厭なやつなのだ。それを知ってもなお、こいつから離れることを考えられない俺も同じくらいの性悪なんだろう。そんな結論と共に俺はそっと姉の手を自分の手で包みこむ。その手は興奮の余韻を宿らせて、ほのかに温かった。
姉は生きている。明日は、まだ。
その事実だけでなんだか明日が来るのも怖くなかった。平凡な俺は人間のまま、怪物と共に生きる。怪物にはなれなかったけれど、それでも。一日、また一日を超えていこう。
「わかった」
そう告げると怪物はいっそう悦びに満ちて輝きを放った。乾いていたはずの俺の両目は生ぬるく濡れ始めていた。
***
たった1人の家族が涙を流す様を見ながら、今までになく私は満たされていた。ずっと渇いていたのだとようやく自覚した。あまりにも甘美な光景は麻薬よりもずっと中毒性が高い。多分、歩と出会ってから同じ事を繰り返している。この愉しみに勝る喜びはない。生きたいとは元々あまり思わない。けれどこの瞬間の旨みを手放すことには抵抗があった。だからこそ怖かった。歩がすり減り、私を諦め、逃げてしまうのではないかと。そうしたらもう二度と味わえない。この遊びは独りではできない。二人でないと、歩でないと、できない。別に自分の命など惜しくはなかった。むしろ歩の中に跡を残すようなやり方をいろいろ考えて時々実行してみるのはとても楽しい「遊び」だった。楽しい遊びの最中に死ぬのだ。これが理想の死でなくてなんだろう。他人にはわからない。歩にも理解できないはずだ。あいつはいまだに思っているのだろう。「俺の姉は理解不能の怪物」だと。それは誤解だ。私はあくまで空の器に過ぎない。私を怪物に仕立てたのは歩だった。私はあいつの注ぐ関心と視線にただ生かされて、場当たり的に生きてきただけ。フランケンシュタイン博士は人造人間を作り出した。なのに、世の中ではいつのまにか人造人間が「フランケンシュタイン」と呼ばれている。この話を聞いた時、私は歩を思い出した。怪物的な人間と人間のような怪物。そんな家族だから互いを満たせるはずだ。私たちは今日のことを忘れないだろう。最後の盃を歩は飲み干した。そう遠くない未来に今日を後悔する日が来るだろう。その絶望ができるだけ深いことを願った。それが私の糧になる。歩には深い傷跡が必要だ。この「遊び」を独りきりでも続けてしまう程度には。それにはまだ足りない。まだ、もっと深く穿たなければならない。ここは壮大な計画のスタート地点なのだから。私もまた怪物を造っている。哀れで呪われた唯一無二の怪物を。そうしてその果てに「水無瀬晶」は永遠の命を得るだろう。
「アキラの呪い」 【完】
小説「アキラの呪い」(24)

私は哀れな義弟を見つめた。孤独な義姉に付き合い、いつか自分自身をも手放しそうな青年を。この手をいつか手放す時が来るだろうと予感していた。ずっと怖かった。自分の辛辣さが無神経さが傲慢さが臆病さが彼を壊してはしまわないかと。昔から歩は不思議なほど私に懐いた。ニコニコと絶えず笑いながら纏わりついた。それがだんだん不快でなくなっていくことに気がつくのが遅れてしまった。いつのまにか弟は水無瀬晶に溶け込んでいたから。彼にあまりにも依存しすぎている。その自覚の次に訪れたのは強烈な恐怖の感情だった。これを失ったならどうなるのだろう。きっと私の日常を構成するありとあらゆるすべてが崩れ、壊れてしまうはずだ。この義弟は他人にも関わらず、腹立たしいほどにあちこちにその余韻を残していた。まるであの眼差しのように。これを失った後の世界に耐える勇気が私にはなかった。だから決めた。死んでしまおうと。そうすればすべて解決だ。そう思えば気が楽になった。これはある種のお守りのようなものだった。そう。少なくとも社会人になるまではそうだった。
とはいえ、その気付きは実のところたいしたものではなかった。ただ、それまで曖昧に見えていたものが鮮明に捉えられるようになったにすぎなかった。社会人になることは同時に一人暮らしの開始を意味していた。私はここで初めて弟の欠けた日常を味わうことになる。弟と完全に離れて暮らしてわかったことがあった。私には彼以外何もなかった。初めて独りになると驚くほど空虚な自分が浮き彫りになった。そこで気がついた。私を今まで生かし、意味を与えていたのはあの視線だったのだと。今までも十分に自覚的だったつもりだ。そんな自分を冷たく見つめ、嘲笑するくらいの余裕はあるはずだと勘違いしていた。誰よりも自分のことがわかっていないのは私自身だった。弟がそばに居ない自分はあまりにも希薄な存在だった。その気付きとともに訪れたのは愛慕でも喪失感でもなかった。いや。もしかするとそういった感情も混ざってはいたのかもしれない。ただ、核となる感情があまりにも強烈すぎて他は掻き消されてしまった。それは紛れもない恐怖だった。弟を失うことを恐れているのではない。明らかにそれは敵意を孕んだ恐怖だった。他者が自分を侵食することへの恐れと警戒。もしかすると歩自身でさえも気が付かないうちに彼は姉を根の部分まで蚕食していた。
内から湧き上がる拒否感と嫌悪感は耐え難いものだった。このままではいけない。猛烈な焦りとともにそう思った。今までの自分の愚かさを私は許容できなかった。そうして追い詰められるように実家との連絡を一切断ち、家族の訪問すらも拒んだ。弟に会ってしまったらその時には衝動的に殺してしまうのではないかと思った。今や弟は生きる意味であると同時に支配するものでもあったからだ。その程度には弱い自分とそうさせた弟が許せなかった。弟の影が失せるまで独りでいなければならない。もしかすると今まで生きてきた年月と同じくらいに。それでも構わなかった。弟をこの手にかけてしまうよりはマシだと自分に言い聞かせて日々をやり過ごした。
それでも半年が経った頃わかったのは、遠ざかったところで弟の存在を忘れることなどできないということだった。
その頃からだった。自傷行為を始めたのは。自分の中に弟以外の強烈なものが欲しかった。自分だけの何か。独り占めして誰とも共有できないもの。最も手軽に手に入れられる一つが痛みだった。痛みを感じることでようやく私は弟なしで自分の世界を構成できた。だが、それすらも危うくなるのは時間の問題だった。エスカレートするようにもっと強烈なものが欲しくなった。そうしてその果てに見つけたのが「死」だった。「死」という選択肢は昔から救いとして漠然とあったものだった。それはまだ未熟な私を罪悪感から救ってくれた。けれどその時だけは違った。死ぬことは唯一の救いだと思えた。
弟か私が死ぬまでこの地獄のような葛藤は続くだろう。水無瀬歩はもうどうしようもないほど人生に食い込んでいる。この楔を抜くことはできない。ならばせめて逃げるしかなかった。死という誰も追随することのできない逃げを打つしかない。そう思いついた途端、踊り出しそうなくらいに心が軽くなった。ボロボロになった私にはもはや逃げることに抵抗するほどのプライドも気概も残されていなかった。一刻も早く楽になりたい。そうして本当の孤独を手にしたかった。他者とは地獄とはよく言ったものだ。その通りだった。歩は私を死の淵に追いやるほど苦しめ、思うままにならない他人のような私の心は、さらに自身を振り回して苦痛を上塗りした。私にとって水無瀬晶はこの世で一番最初に出会った他人に等しかった。その程度には自分自身の厄介さに疲弊していた。
そうしてとある夏の夕方、私は私を解放した。私の部屋の鍵を持っているのは、実は歩だけだ。あの子は知らないだろうけど。歩に見つけてもらえるようにしたのは私の人生を狂わせたあいつへの復讐でもあり、祝福でもあった。彼一人ならきっともっと違う人生も歩めるはずだ。昔からそう思っていたのも確かだった。浴槽に溜まっていく水の音を聞きながら意識を失う中、最後に過ぎったのは幼い歩から伸びる影だった。夕暮れに照らされ、私を追いかける小さな影法師。その光景はなぜか束の間胸を切なくさせて、瞬く間に消えていった。
***
弟視点で。
小説「アキラの呪い」(23)

いつのまにか私は高校生になった。この頃にはもう母と私は衝突することはなかった。いや、衝突すらできなくなった。
もちろんそれまでだって表立って喧嘩していたわけではない。それでもわずかな摩擦やすれ違いは繰り返しあった。家族としてやっていくなら当然あるべきストレス。ある時からそれすらも私と母の間には存在しなくなった。なぜそんなことが起こり得たのかといえば、母が私を「見なくなった」からだった。視界に入っても見なかったふり、気づかなかったふりをする、という意味ではない。私が「おかしな子」ではないというふりをするようになった、ということだ。
彼女と話していると、時折一瞬の沈黙が訪れることがあった。あの息の詰まるような無音の瞬間。それはいつでも母と私の言い分が食い違うたびに降り立った。そして奇妙な時間が流れた後には母は笑顔で全く別の話を始めてしまう。まるで先ほどまでの出来事はなかったかのように。そう。母と私は会話していたのではなく、演技していた。少なくとも母はそうだった。
この事実は私を徐々に疲弊させていった。些細なことにすぎないと思ったそれは、私の人格を削り取るような行為だった。母がもし私に復讐心を抱いてそんなことをしているのだとしたら、成功に違いなかった。彼女の幸せを壊したのは実父であり、私だった。だが何よりも受け入れ難いのは、それを母が自覚していないことだった。彼女にとって私を見ないことはただの逃避行為に過ぎなかった。弱い生物がその身を守るための自己防衛本能。母は私に強い感情を抱いてなどいなかった。それに耐えられる人ではなかったから。結局あいつは逃げ出したのだ。私と血が繋がっているということ。私を産んだということ。私を変えられないということ。彼女は絶望したのかもしれないし、葛藤したのかもしれない。けれどそんなもの、私には関係がなかった。ただ明らかなのは私が彼女にとっての普通になれないということ。私という娘は母の邪魔ものなのだ。私自身いつしかこう思う様になった。私さえいなければ完璧な家族になれるだろう、と。それだけの事実を認識するのに何年もかかった。そして現実を受け入れるだけで私はなぜか消耗しているようだった。とは言っても一番影響を受けていた高校時代には、何が問題なのかすら気づいていなかった。遅ればせながら問題に気がつき始めた頃には、既に私たちの間柄は家族というにはあまりにも漂白され過ぎていた。その状態は辛くもあり、しかし同時にこの上なく楽でもあった。だからこそ気がつかなかったのかもしれない。こうして言語化できるのも20をとうにすぎてからだった。
そんなわけで高校時代はただひたすら苛々していた記憶しかない。理由のわからない鬱屈は絶えず私を追い詰めた。あの頃はいつでも感情の出所を探り、途方に暮れていた。今にして思うが、原因は思春期だからだなんてものじゃない。あれは歩から逃れようと必死だったのだ。あの執拗な視線に縋ってしまうこと。それを恐れていた。とは言えこれも後から気がついたことなのだけれど。私は自分のことが一番わからない。愚鈍で醜い女。いつでもそれが私に似合いの姿だった。
***
「ねえ、歩。私がまだ中学生だった頃のこと、おぼえてる?」
気がつくとそんな問いかけをしていた。
「覚えてる。もちろん」
「じゃあ、高校に上がってから私があんたのこと避けてたのも気がついてた?」
すると、歩は思わずといった様子で目を見開いた。気がつかないはずがないだろう、と眼差しは訴えていた。そう。このまっすぐな目。これが私を虜にした。彼の執着のこもった眼差しを受けることにいつからか喜びを覚えるようになった。この光に照らされている間だけは自分というものが確かにここに存在していると思えた。もうこの悦びを感じることもないのかと思うと少し名残惜しい気もする。だが仕方ないことだ。私にはそれ以上に耐え難いことが存在するのだから。
怒りすら孕んだ声で義弟は言う。
「…あの頃の姉さんはなんであんなに苛々してたんだよ。俺、何かした?…ずっと尋ねてみたかったんだ」
その問いかけはいったい何年越しのものだったのだろう。きっと喉元まで幾度となく迫り上がって歩を苦しめたに違いない。答えを聞く恐怖に耐えようとするかのように歩は机の上で組んだ手をぎゅっと締めた。それでもその目は私を見据えたままだった。
「あんたがその目で見るからよ。怖かったの。独りで生きていけなくなりそうで…あんただけが私の家族だったから」
「それ…どういう…?」
「義父さんと母さんは私の家族にはなれないってこと。私から逃げ出さなかったのは、歩あんただけなのよ」
しばらくの間、沈黙が降りいつのまにか視線が交わった。義弟は今度こそ理解したようだった。自分が何をしたのか。私がどれだけ今まで水無瀬歩を頼りに生きていたのか。
全てを悟った歩の顔には喜びとも嘆きとも取れない感情が浮かび上がった。それをみながら思う。本当に滑稽だ。彼は私を救う気なんてなかったのに。…時折想像してみる。もしも母が再婚していなかったならと。そうすればここまでの孤独を味わうこともなかっただろうか、と。確かにその通りだろう。歩と出会わない私はきっと自分の孤独を嘆いたりなんてしない。もっと強い生き物だったはず。高校生のあの頃は余計にそう振る舞おうと努力までした。同時に自分を弱くした歩を半ば憎んでもいた。けれど全ては無駄だった。義弟が私の人生に現れた瞬間から、私は根本的に変わってしまったから。今よりもっと幼い頃は、それを認めたくなかったけれど。弱い生き物になってしまった自分も今はそう嫌じゃない。ようやくこの言葉が言える。
「ありがとう。歩」
***
小説・「アキラの呪い」(22)

前話はこちら。
***
それまで私の中に残るものはなかった。ただ通り過ぎていくだけ。周りのもの全部がそう。血の繋がった母親でさえそうだったんだから、当たり前よね。ーーー今気づいたんだけど…。だから顔や名前を覚えられないのかも。新幹線の外を流れていく景色みたいっていうか…。うまく言い表せないわね。私ってこんなに馬鹿だっけ。
まあとにかく、いつだったかこんな会話をしたことがあったわけ。
あの人がある日唐突に尋ねたの。「お友達できた?」って。あれはまだ学校に通う前。五歳くらいのころだったかしら。いつもいつも同じようなことばかり尋ねてくるからそういう儀式みたいになってた。当然私は否定した。そんなもの、作ろうと思ったことすらなかった。私の世界は私だけで充足していて、必要すら感じなかったから。今は後悔してる。否定しなきゃよかった。簡単な嘘くらいつけばあの頃もう少し楽に生きれたかもしれないのにって。けど、小学生にもならないガキにそんなこと無理だったかもね。だって当時の私も正直に否定したんだから。そうしたら、続けてこう母は言ったの。「一人で寂しくない?」って。だから言ってやった。「寂しいって何」って。あのときの表情は見ものだったわ。あの絶望に満ちた顔。あんたにも見せてやりたかった。
それでもあの頃はなぜあそこまであの女が動揺するのか分からなかったの。まだ子供で父親は死んだとしか聞かされてなかったから。でも成長してから知った。実の父親がクズで私たち二人を残して消えたこと。それを聞いてやっと納得できた。あの女は…お母さんは、私を父と重ねて恐れていたんだろうって。少なくともそう思った方が私にも都合がよかった。理由なく恐れられるだなんて。気分がいいわけもないでしょ?私とあの女は容姿もあまり似てないじゃない。だからかな。昔から他人のふりをする方が容易くて。二人きりなら、きっと今頃本当に家族じゃなくなってたかも、なんてね。そう思えるくらいには昔から危うかったの。本当に。でも母は賢明だっだと思う。だって父さんとあんたを連れてきたんだから。その点だけは本当に感謝してるの。あんたにも、父さんにも、母にも、ね。
…まあ、歩。あんたにとっては災難だったでしょうけど。こんな姉ができちゃって。許してとは言えない。けどもう少しで厄介者はいなくなるわ。そのためにこんな話をしてるんだから。
***
姉は小さく笑い声を立てて顔を歪めた。まるで他人事のように乾いた嘲笑。響きが鬱屈の根深さを生々しく現していた。虚しい残響がいつまでも漂って耳の奥を蝕んでいる。思わず俺は言った。
「姉さんは?」
「え?」
姉の顔から嘲りが消えた。
「姉さんは俺たちが家族になったこと、どう思ったんだよ」
「言ったでしょ。助かったと思ったわ。心底ね」
彼女の返答は要領を得ない。俺が求める答えはそんなものじゃないと知っているはずなのに。すると姉は観念したように深く息を吐き出した。
「あんたは知りたがりすぎるのが問題ね。昔からそう」
そう言ってこちらを指さしてくる。失礼な奴だ。
「なんだよそれ」
「自覚ないの?」
「何が?」
するとまた皮肉げな笑みが口端に滲んできた。
「まあ、そっちの方がいいか…」
独白して姉はただ目を細めるだけだった。いつも以上に考えの読めない態度に、これ以上振り回されまいと俺もまた口をつぐんだままだった。
***
母が再婚してしばらく、表面上は何事もなく日々は消化されていった。けれど半年が経った頃から水面下で問題が起き始めた。母と一対一で話せなくなったのだ。正確には母が私に必要最低限以外話しかけてこなくなった。いや、その必要最低限すら義父を介して伝えられることが多くなった。例えば四人で食卓を囲んでいるときはいい。和やかに会話が交わされ、これ美味しいね、なんて言い合っている。けれど母と二人きりになった瞬間その空気は一変する。廊下ですれ違う時にすら息を詰めるような緊張がいつのまにか生じていた。
それでも構わなかった。もう十歳になった頃には「外れもの」であることを受け入れるようになっていた。「孤独」だけがいつまでも私に寄り添う唯一のものだと。
けれどその認識と現実は少しずつずれ始めた。あらゆる人々が私を通り過ぎていく中で、確かに変わらないものがあった。三歳年下の義弟だけがいつのまにか私のそばにいた。最初は気にもしなかった。他者はいつか通り過ぎる景色だったから。だから弟に対してもそう接した。時々わざと遠ざけもした。最も、私は他人を拒絶する機会さえ乏しかったから、上手くやれたとは到底言えない。とにかくそんな風にして私の10代前半は過ぎた。今から思えば無駄な時間だった。無駄な足掻きだった。あの行為こそが私にとっては致命的だった。生きていて後悔しているとすれば、そう。その一点に尽きるだろう。
「アキラの呪い」(23)へとつづく。
小説・アキラの呪い(21)

前話はこちら。
***
住人が増えてからも、私の毎日は大して変わらないだろうと思ってた。あんたと父さんは驚くほど家族として馴染んだじゃない?疑問を持つのもバカらしくなるくらいにね。私はそれを見て安心してたの。さっきも言ったとおり。でも少し不思議な気分にもなった…。まるで私だけが輪から外れたみたいに。今はあの時の気持ちがなんだったのかわかる。あれは疎外感だった。
私とお母さんは家族とは言えなかった。でもあんたたちが来て、家族になってくれた。でもそれは同時に私にも家族ができるってことだとは思えなかったの。だって血が繋がってるわけでもない、他人なのよ?私はあの女の腹から生まれた。それなのに、結局あの女も私も互いを理解出来なかった。いいえ。理解なんていらない。ただ、認めてさえくれれば良かった。でも、それさえも難しいようだって気がつくのにそう時間はかからなかった。だからあんたも同じだと思った。すぐに諦めて、異物として互いを処理するようになるって。
あんたの右膝に傷跡があるの、知ってるでしょう。あれ、わたしの目の前できた傷なのよね。
たしか、家族になって1ヶ月が経った頃だったかな。あの日もあんたはわたしの後ばかりついてきて。おぼえてる?小さい頃はいつも私について歩いてたの。勉強してても、本を読んでても、テレビを見てててもずっと一緒。ついてくるなって言ってもついてきて。正直鬱陶しかった。私は一人でいたかったから。それにあの頃は…母さんの家族ごっこに付き合うのに、うんざりしてたのかも。
それであの日も…いきなりあんたが手を掴んで来たのに驚いて、振り払ったの。とても軽い身体だった。そうしたらさ、そのままふらついて畑の中に落ちちゃって。膝がざっくり切れたみたいでさ。結局膝から血をダラダラ垂らしながら泣き喚くあんたを家まで連れて帰ったっけ。不思議だった。なんで助けたりしたんだろう、って。だってそうでしょ?別にあんたが好きだったわけじゃない。どっちかといえば嫌いだった。あんたは私と違ってうまくやってた。それが疎ましかったのかもしれない。なのにどうしてってね。考えても考えてもわからなくて、苛々したわ。そして結論を下したの。きっとあんたのことが嫌でこんなに腹が立つんだと。考えるのをやめたのね。我ながら馬鹿だったわ。
思えばあの時から、私にとって歩は特別だったのよ。あの頃はちっとも気が付いてなかったけどね。
***
アキラの呪い(22)へとつづく。
掌編小説 「赤い唇の女」

ーーーこれは雨の呪いのようなものだ。
ガラス窓の中の女が微笑った。わたしは決して笑っていないのに。手を頬に触れるが、そこには僅か強張りすら感じなかった。
初めに気がついたのは水たまりだった。幼い日のある雨の午後。暇を持て余して水面を覗き込むと、自分の影が写っていた。退屈極まりなかった。ーーーその影がひとりでに動き出すまでは。あの時影は言った。「退屈なの?」と。
それからこの呪いは続いている。こんな奇妙なことさえも、回を重ねるごとに驚きは失せていく。最初は怪しみ恐怖を感じていた気もするが、今では日常の一部に過ぎなかった。私は寒気を感じ、目覚めた。どうやら窓辺に腰掛けて眠っていたらしい。短い夢を見ていたようだった。過去の記憶を再生するだけの、くだらない夢。人気のない図書館の奥で、居眠りをすることくらい贅沢なことはない。窓の外ではいつのまにか雨が降っている。6月のいつ終わるとも知れない降水は憂鬱を呼ぶ。するとその時、窓ガラスに映った影が笑った。女が言う。
『久しぶりね』
「ええ」
『宿題は?』
「まだよ」
同じ顔なのに、全く違う人物のように見えるのがいつも不思議でならなかった。あんな風に笑えない。私は。
『今日も冴えない顔してるわね』
影はいつものセリフを繰り返した。だからか、わたしはわざわざ何か言う必要も感じなかった。
『そんなにつまらない?』
黙り込んだままのわたしに、影がまたお決まりの文句を投げかける。なぜか、答えたくなった。「ええ」と頷きながら、頭の隅で考える。もしもこの女がただの幻影だったなら。わたしは友人が欲しかったということになるのだろうか。わたしの心を見抜いてくれる誰か。そんな存在が欲しかったということなのか。だとしても、実際にそんなものは手に入らないだろう。 それらしい人物が現れたところできっと私は信用しない。心の内を彼女に吐露するのは、影が私と同じ姿で、しかも幻に過ぎないからだ。そうでなければ、こんな関係は生まれさえしない。もしくは関係が長くなった頃、どちらかが関係を結び続けることに飽きて手放してしまうだろう。手放された縁が消えるのは早い。過去にそういう経験がないわけでもなかった。もはや顔さえも思い出せないかつての友人達。あれらの関係性は結局無意味なものになってしまった。いくらその顔を見つめても、くわくわと蠢くだけで空白を埋めることは叶わなかった。縁が途切れたことより誰かを忘れてしまい、私にとっての意味が完全に失せたことが悲しかった。ほんの束の間胸中が荒涼とする。でも仕方なかった。それが事実だ。
『新しい趣味でも始めてみれば?」』
影はなおも笑いながら語りかけてくる。
「何を?」
『図書館にいるんでしょ?…読書とか』
「もう飽きたのよ。それに今図書館にいる理由に本は関係ないの。適度に涼しくて快適な場所がここだっただけ」
『なら音楽は?』
幾分考え込む様子で彼女は提案する。
「うるさいのは嫌い」
『なら絵を描くとか』
「面倒だわ」
『…そんな風に生きてて楽しいの?』
女は困り顔すら美しく思えた。同じ顔をしているはずなのに。
「あんたは?生きるって楽しい?」
いつのまにか問いかけていた。今まで趣味の一つもなかったわけではない。絵を描くことに没頭したこともあった。読書を心から楽しいと思っていた時期もあった。けれどそれはもう過去の話だ。いつからか気がついてしまった。いくら好きなものをかき集めたところで、虚な中身が埋まることはない。永遠の暇を忘れられるほどのものを結局探し出すことができなかった。それを悟って以降、どれだけ今まで好きだったものを愛そうとしても無駄だった。退屈は不治の病のように端から心を蝕んでいた。私は悦びがあるから生きているのではない。ただ、産まれたから生きているだけ。死を恐れているに過ぎない。
『…少なくともあんたよりはそう感じてると思うけど?』
虚像は言った。そしてこう提案する。
「ねえ、それならこうするのはどう?私がそっちに行って、あんたはこっちに来るの。どう?」
『そんなこと、可能なの?』
訝しむ私に、女は頷いて見せた。
「そっちに行ったところで、この死にそうな気分がどうにかなるって?」
そう嘲笑した途端、外の雨音と自分の心臓の音が急に大きくなった気がした。膝の上で握りしめた手は熱を持ち、震えていた。
『さあ、そんなこと知らないわよ。どう感じるかなんて。あんたにしか分からないことじゃない。違う?』
言う通りだった。女は美しい微笑を湛えて、答えを待っていた。その姿には私にはない余裕が感じられ、やけに眩しい。所詮は虚像、幻想に過ぎないはずなのに。そう考えたせいだろうか。気がつくと、こう答えていた。
「…悪くないわね。どうすればいい?」
すると、赤い唇は弧を描いた。
『私の手にあんたの手を重ねて』
言われるままにすると、驚くことが起こった。ガラス窓に手が沈み込んでゆく。声にならない悲鳴をあげて影を見ると、女はもう笑っていなかった。
『あんたにとっての退屈が、私はずうっと欲しかったのよ』
「知らなかったでしょ」と言って、微笑みかける女はどんどん実体を帯び、麗しさを増していく。反対に私は透けて虚像に近づいていった。それが最後に見た光景だった。
***
雨音がした。目覚めるとそこは図書館の窓辺だった。椅子に腰掛けたまま、いつのまにか眠っていたらしい。嫌な汗をかいていた。奇妙な夢だった。あまりにも生々しく、非現実的で思い出すと笑えてくるほどだ。虚像が動くなんて。馬鹿馬鹿しい。
館内放送がかかる。もうすぐ閉館らしい。窓の外を見るとまだうっすらと明るかった。夏の夕暮れは遅いので、ついつい長居し過ぎてしまったようだ。帰り支度をすると書架の間をすり抜け、出口へと向かう。と、その時すれ違った司書の顔に違和感があった。ーーーその顔は「私」と同じだったのだ。
「え?」思わず声を漏らすと、それに合わせたかのように館内にいる人々が全てこちらを向き始めた。ーーー全て女だった。長髪の女がいた。短髪の女がいた。三つ編みの女がいた。ポニーテイルの女がいた。だが一人残らず全て私だった。いや、全てが私と同じ容姿をしていた。幾つもの双眸が爛々と光っていた。張り詰めた沈黙と共に私は彼女らに品定めされているようだった。天地がかき混ぜられる。そうして思い知った。先ほどまでの夢が現実であり、そしてここに閉じ込められたということを。
そしては私は全てを喪失した。
【了】
自作の小説「アキラの呪い」のキャラを描く。
↓主役二人です。もしも表紙があったら…と妄想して描きました。結構ホラーテイストな仕上がり。構図は二人の関係性を意識して決めました。

主人公の義弟、歩とその友人拓人の大学での様子。↓
↓主人公の晶が自殺未遂した時に、(作中冒頭で彼女は自殺未遂します)して意識のある状態で歩に見つかったら、多分力関係が逆転するだろうな…という妄想絵。

【アキラの呪いあらすじ】
「俺の姉はろくでもない女だ」
歩が義姉の自殺未遂現場に居合わせたことをきっかけに、絶対に死にたい姉と絶対に死なせたくない弟の攻防戦が始まる。
第一話はこちら。↓