KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

連続小説・「アキラの呪い」(1)

 

 

 

第一章 「水無瀬晶の弟」

 

 俺の姉について話しておきたい。
 水無瀬晶は厭なやつだ。無神経で傍若無人でニコリとも笑わない。性悪な女だ。
 姉といっても、血は繋がっちゃいないんだけど。ただうちの母親とあいつの父親が結婚しただけ。よくある話だ。晶と俺とは血が繋がっていない。ーーーそれを俺は喜ぶべきなのかもしれない。あんなに生きづらそうにしてる義姉を見ていると余計に。厄介な性質を、もしも俺も受け継いでいたらと思うとゾッとするし。けど、一方では思うんだ。もしも血が繋がっていたらと。血縁なら彼女を理解できるとは思わない。そんなもんは夢物語だ。親父とあいつの関係を見ても、それは明らかだろう。血の繋がりは単に断ちがたいだけで、問題解決してくれるわけじゃない。むしろ問題を複雑化させてしまう。けれど、その厄介さこそが、俺の望みを叶えてくれるのかもしれない。晶が拒絶しようとも拒みきれない何か。それをずっと欲していた。もしかしたら同じ苗字になったあの日からずっと。家族ならあいつは俺を切り離せない。少なくともそんなふうに、淡い希望を抱くことくらいはできる。よく血は水よりも濃いって言うじゃないか。そうでもなきゃ、姉はいずれ全てを手放す。そんな気がする。彼女の荒野に立っていられるのは最期まで彼女自身だけだ。昔から晶はそういうやつだった。本質的に人嫌いなんだ。全てをぶっ壊したいと思ってる。だから俺は息を潜めるしかない。これ以上彼女の世界から排除されないように。ただ見ることすら、禁じられたとしても。
 そうさ。俺はあいつを手放せない。
 そんなこと、もうとっくに分かってた。
 だからかな、あいつの手首に切り傷を見つけた時に、全てがぶっ飛んじまったのは。予感はしてたんだ。けど、止められなかったんだ。
 おかしくなりそうさ、ほんとうに。


***


俺は躊躇いもなく呼び鈴を押した。
電子音が途切れるのも待てず、立て続けに指を押しつける。うるさいほど呼び出し音が鳴っているはずなのに、一向に相手が出てくる気配はない。住人が不在でないことは事前に知っていた。だが、居留守にしても静かすぎる。
 「姉さん!」
 「開けてくれ!俺だ、歩!」
 自分の大声も聞こえないほど体内では心臓がうるさい。これだけ大きな声を出しても隣部屋の住人が反応しないのは外出しているからだろう。そう決めうちして、俺はしばらくドアを叩きまくった。それでも部屋からは反応がない。悪い予感が耐えがたい苦痛と共に腹から迫り上がってくる。俺はとうとう諦めてチノパンのポケットに手を伸ばした。
 「晶、開けるからな」
 後のことを考えると恐ろしい行為だったが、今は構わない。音を立ててドアが開くと、かすかに水音がする。ただそれだけなのに戦慄した。悪い想像がはっきりと裏付けられてしまう気がして。靴を脱ぎ捨てて浴室に駆け込むと床に投げ出された素足が見え、続いてぐったりと浴槽に体を預ける義姉の姿が露わになった。
 「晶!」
 駆け寄ると、その手首は横に一筋切り裂かれており、浴槽に満たされた水に浸っている。バスダブからはとっくに水が溢れかえり、俺たちを容赦なく水浸しにした。流れた血はこんな時なのに、水中でゆったりと赤い曲線を描いていた。彼女を抱き起こし、もう一度名前を叫ぶが応えはない。目覚めない晶を見て、俺は自分の顔が歪むのを感じた。

 ーーーーーー俺の姉が自殺未遂をした。

 彼女の口に耳を当てると弱々しい呼吸を繰り返していた。スマホを取り出すと、119番を叩き込み耳に当てた。コール音が重なる度永遠のように感じられる。受話器が上がると共に告げた。
「救急です。今から言う住所に救急車をお願いします」
 晶を抱き抱えた腕はずっと、震えていた。手の力を弱めることができない。彼女の肌に傷をつけたくはないのに。ひどい気分で浅黒い肌に食い込む太い指を、ただ呆然と見つめる。嫌になるほど冷静な自分の声が浴室に響いた。

***


 病院に搬送された晶は間一髪で助かった。後十分遅れていたら、この世に姉はいなかっただろうと聞かされ、複雑な気分になった。処置を一通り終えた後、医者は命に別状はないと言い残し、ひとまず退出していった。
 かなり深刻な状態だったはずなのに、晶は医者の予測よりもずっと早く目覚めた。それこそ、搬送された日の夜には意識を取り戻したのだ。つきっきりで晶のそばにいた俺は気が休まらず、一晩中まんじりともしなかった。だから姉の目覚めの瞬間に立ち会ったのは、もちろん他でもない俺だった。
 覚醒して開口一番、晶はこう言い放った。
短い一言には強烈な怒りが濃縮され、恐ろしいほどだった。吐き出された声は地を這う低音で突き刺さる。
 「…よくも邪魔してくれたわね」
 そしてこう続けた。
 「父さんと義母さんには言わないで」
 「言ったら?」
  顔を上げた晶と一瞬の間に視線が絡み合う。美しい猫目がギラギラと危なげに光っていた。
 「私には弟なんていなかった、ってことになるでしょうね」
 それはどんな脅し文句よりも有効だった。両親に事実を告げようものなら、その瞬間から俺の存在は未来永劫、徹底的に無視されることだろう。晶は有言実行を旨とする。他人に興味がないくせに勘だけは鋭い。無意識に1番の弱点を突くようなところがあった。
 すぐに返答しない俺に焦れて、晶は胸倉を掴んだ。体が引き寄せられ、互いの鼻が触れそうな距離になる。
 「いいから!早く言いなさい。あんたは何も見なかった。私はただケガをしただけだって」
 本当は抗うこともできた。服を掴んだその手にはまるで力が入っていなかったから。姉の手を見ると微かに震えている。そこから繋がる手首には幾重にも包帯が巻かれていた。どれだけ自分が痛々しい姿をしているのか、彼女は分かっているのだろうか。
 強がる姉を目の当たりにするうち、無意識に手が伸びていた。わずかに触れた左肩にはうっすらと青痣が残っている。俺がつけた傷だった。
 「もう言ったとは思わないのか」
 「あんたは言わないでしょう。そういう奴だから」
 まるで信頼しているかのような口ぶりに酔いそうになる。本当は分かっている。これは信頼じゃない。彼女はただ、俺を利用しようと手を尽くしているに過ぎない。彼女がいう通り、この展開は予想していたので驚きすらなかった。
 「そうだな。言ってないよ、まだ」
 「なら…!」
 「いいよ、言わないでおく。そのかわり条件がある」
 「は?」
 予想外の展開に晶は硬直した。姉を翻弄する気分は悪くないものだった。たまにはお前もみっともなく狼狽えてみるといい。心の中で俺は毒づいた。
 「俺と会ってくれ。週に一回、姉さん家で」
 「…なにそれ」
 理解不能な生き物を見るような目で見られながら、再び口を開く。
 「自殺しようとしたんだ、それくらい許可してくれなきゃな。生存確認だよ」
 「また邪魔する気なの…」
 うんざりした声でショートカットを掻き上げて、晶は天井を仰いだ。
 「俺はどっちでもいいよ。でもどちらが面倒か、姉さんにはもう分かってるはずだ」
 「あんたが義理だとしても弟なんて。呪われてるわ」
それは嫌々ながらの降参の印だった。
 「性格歪んでるんじゃない?」
 「性格が終わってる姉さんには言われたくない」
 契約成立に俺は釣り上がる口角を抑えられなかった。嫌がる女の顔を見てここまで満たされるのは初めてのことだった。あるいはそれは晶の瞳が俺を映しているからだったのかもしれない。

***

 

「アキラの呪い」(2)へとつづく。

小説・アキラの呪い(19)

 

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前話はこちら。

 

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***

 


 赤黒く固まった血に塗れた敷物をゴム手袋越しに触ると、ずっしりとして重かった。そうしてその下から出てきたのは大量のペットシーツだった。犬猫が排泄をするときに下に敷くあれだ。夥しい数のペットシーツは血に染まりきっていた。

「…呆れた」

 これから死のうというときに、部屋の心配なんかしていたのか、あの女は。その上、これを俺に処理させるとは。俺の心情にまで思いが至らないのが、いかにも姉らしい。姉は人でなしだが、わざわざ他人を傷つける行為には興味がない。ただ彼女の無神経な振る舞いに傷つく人間がいるというだけで。本当に最悪な女だ。吐き気がする。たまにこうして、あいつと家族だということに目の前が真っ暗になるほどの絶望を感じることがあった。だが、同時にその繋がりにしがみつき絶ちがたく思っているのも俺自身なのだ。そう。いつでもその点が厄介だった。二律背反に押し潰され、俺のやりたいとことがなんだったのかさえ、わからないと感じてしまう。このまま根腐れるまて血塗れで立ち竦むのか。俺には答えが出せないままだった。だからこそ晶が決めてくれたらいいのに、と心のどこかでずっと思っていた。そうすればゆらゆらと落ち着かない心情もやっと足場を見つけられるんじゃないかと。あいつはなにも言わない。俺がずっと待っていることすら知らない。それが時折無性に辛かった。

 顔を顰めながら血に塗れたそれらをいくつものビニール袋に詰めていく。不透明なゴミ袋が必要な気がしたが、自分でしたことの後始末くらいは姉自身にやらせるべきだ、と思い直した。彼女の執拗と言えるほど厳重な対策のおかげか、ペットシーツはほとんどの血液を吸収しきっていた。おかげでそれらを捨てた後は軽く水拭きをするだけで現状復帰することができた。だが、問題は匂いだった。鉄臭い匂いは未だ部屋の中に充満していた。窓を開けて換気をすると、幾分涼しい風が通り抜けていくのを感じる。自分の服にも血の匂いがついていることに気がついたのは、その時だった。予想はしていた。

 着替えを持ってきてはいたものの、血の匂いを漂わせたまま電車に乗るのは気が引けた。

 「風呂、借りるか…」

 呟いて風呂場を目指すと、一歩踏み出した瞬間から嫌な予感が這い上がってきた。正体がわからない泥沼に足を踏み入れてしまったような。違和感を踏み潰して足だけはどんどん近づいていく。そして浴室の引き戸を開けた瞬間、分かった。目の前には薄暗い箱に似たユニットバスがあるだけだった。けれど俺には「見えた」し「聞こえた」んだ。水音と共に俺の中に棲みついた光景。碌な明かりも灯さない場所で死にかけていた女の姿が。ーーーここは、姉の最初の自殺未遂現場だった。当たり前の事実になぜかこの瞬間相対した気分だった。この部屋は義姉が起きて眠り、飯を食べ、そして死に臨んだ場所だ。今までちっとも思い出さなかった。あれほど色濃く刻印されたはずの凄惨な有様を。

 きっと避けていた。せめて正気であろうと努めるあまり。中身が崩れれば俺という外形を保つことすらも不可能になる。そうなれば姉は自分の元を去るに違いない。本能でわかっていた。崩壊を耐えることの方が彼女を一人きりにするよりは随分楽だということを。そして多分その選択を無意識にした。だからこそ、気がつけなかった。自分に何が見えていないのか。

服を脱ぐのも忘れて蛇口を捻ると、真横からシャワーが注がれた。どんどん服が濡れて肌に張りついていく。あいつは恐ろしくなかったのだろうか。死が。自ら死を呼び寄せようとしたことが。つい先日まで当たり前のようにここで生活していた姉がとても奇妙に思えてきた。「どうしてあんなに普通だったんだ?」そんな疑惑が俺の中では急激に膨らみ始めていた。俺と同じく崩落しそうなものを姉もまた胸に秘めているのなら。それを隠しているだけならいいのに。それとも、

 「お前はなんでもないってのか?…俺はこんなに…」

 口の中で低く呟いたが、水音に埋められた自分の耳にも届かないくらいだった。俺が傷ついたのと同じくらい、あいつにも傷ついて欲しかった。見返りがいらないなんて嘘だった。せめて伴走者として認めて欲しい。姉の感情を理解し、分かち合える存在でありたい。ずっとそう願い、欲してきたことを漸く自覚した。ずっとガキだった頃から何ら変わらない本心だったはずなのに。俺には見えちゃいなかった。

 『俺も連れて行ってくれ』

 ただずっと、その一言を伝えたかっただけなのに。己の幸不幸くらい理解できているつもりだった。弟という座を偶然与えられた。誰にも奪われることのない場所を。それだけで満足すべきだ。「家族」でなければ、俺は晶の人生に存在さえしていなかっただろう。

 


 『共に生きれないなら、共に死んでくれ』

 


 いつからかそんな言葉が頭の片隅を占めるようになっていた。狂った考えだ。死んだら何もかもお終いなのに。誰かを見つめることすら叶わなくなるのに。

 俺の望みは本当にこれでいいんだろうか。このまま苦しみ続けることと、このまま死んで全てに無感覚になること。どちらの方が本当の望みに近いのかわからない。

 この行き止まりの先には水無瀬晶がいる。俺の苦しみと悦び、両方をその手に担って。

ーーー彼女はそれを知らない。だからこそ死のうと思えるんだろうが。いや。あのクズはそんな事実すら知りながらも己の望みを叶えることを優先するかもしれない。そんな冗談のような考えに場違いにも笑みが漏れた。きっと歪んで醜い独り笑いだっただろうが。

 姉に教えてやりたかった。今の最低最悪な気分を。構わずぶちまけて何もかもめちゃめちゃに打ち壊してやりたかった。これまでの努力も虚像も平穏も全て。

 『もう決壊する』

 耳元で告げるような水音だった。

 

 

 

***

 

アキラの呪い(20)へと続く。

小説・アキラの呪い(18)

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前話はこちら。

 

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

***

 


 目覚めると、白い蛍光灯が縦に伸びているのが見えた。消毒液の匂いが鼻をつき、今自分が何処にいるのか分かった。格子状の白いパネルを嵌め込んだ天井には見覚えがあった。以前入院した病院と同じだ。その光景から失敗を悟った。ーーー無駄なことをした。不要な痛みを経験し、不要な血を流した。それなのに必要な結果は2度目にも関わらず手に入れられなかった。その事実は私を酷く落胆させた。阻まれてしまった、また。いつもそうだった。私の邪魔をするのは歩、あのたった一人の義弟だった。今度こそその繋がりを断てる、と思ったのに。

 


『あんたのせいよ』

 


 後悔していた。あんな風に言うつもりはなかった。混濁した意識が言わせた戯言に過ぎなかった。そう言っても心優しいあの男は気にするのだろう。まったく面倒なことこの上なかった。弟が私の死の原因だと思ったことなどなかったのに。私を殺せるものなんて、最初から私しかいなかった。私と他者はいつもそんな関係だった。今回こそは完璧だったはずなのに。遺書も残した。片付けもした。会社への退職願も提出済みだった。引き継ぎも全て終えている。あとは死というピースをはめるだけだった。だが、最後の欠片は未だ手の内にある。完成しないジグソーパズルを眺める時のように心が波立つ。

 苛立つ心とは裏腹に妙に身体は気怠い。血を流しすぎたのかもしれない。やっぱり部屋のことなんか考えずに、翌日以降に歩を呼ぶべきだった、と後悔しながら首だけ動かすと、ベッド脇には見慣れた顔がイスに腰掛け腕を組んで眠っていた。その顔には僅かに色づいた夕日が照りつけている。

 「…歩」

 視線の先で弟はやけに寝苦しそうだった。眩しいからかもしれない。私は無意識のうちに身体を起こし、彼の方へと手を伸ばしていた。手で陰でも作ってやるつもりで。弟は眉間に深く刻まれた皺のせいか、酷く疲れて見えた。ゆらゆらと上下する頭が危なっかしい。その姿を見て、私は全てが無意味なっていくのを感じた。

 ああ。間に合わなかった。

 恐れていた。こんな日が来るのを。この気分を味わうのは実に二度目だったが、繰り返される感情は酷くなるばかりだった。今回は隠し仰そうにもない。不様な姉の本当の姿を。

 「私だって努力したのよ…」

 「ごめん…」

 考えなければならない。

 弟と距離を置く術。弟の人生から己を消す方法を。そうすることでしか、この恐怖からは逃れられないのだから。一番恐ろしいことの兆しが今まさに見えていた。だから、考えねばならない。ーーー全てが台無しになる前に。

 気がつくと、爪を噛んでいた。僅かに滲んだ血を舐め取りながら、答えを出せないままでいた。何かの報いのように、自ら切り裂いた手首が痛んだ。別に構やしなかった。それよりも彼の見る夢が気になった。そのせいで弟の傍をどうしても去ることができなかった。そんなことができるくらいなら、死など選ぶ必要はなかった。悪いのは全て私だった。けれどもし、私の人生に弟がいなかったなら。私は痛みも苦しみも感じることはなかったのかもしれない。

 それでも、いずれにせよ私は自ら死を選んでいただろう。それは確信に近い予想だった。この退屈な世で意味あるものは水無瀬歩だけだ。それは今も昔も変えられないことだった。私は執着しすぎてはいけなかったし、歩は私と関わるべきではなかった。ーーーまして、家族になどなってはいけなかった。彼がいないことは、生きていないのと同じだ。死に臨む度、鮮明になるのはその事実ひとつだけだった。

 「ごめんね、歩」

 逃げろ、というべきだったのに。まだその一言が口から離れない。そのときだった。彼の目が開いたのは。

「姉さん。何に謝ってんの」

 ああ。弟のこの目が怖かった。全て見透かされているようで。清らかで鋭く突き刺す眼差し。彼の前では丸裸にされてしまう。かつてはこの男から逃れようともがいたこともあった。

 「…死ねなかったでしょ。だから」

 大きく息を吸い込み、重ねて言う。

 「今日こそ死ななくちゃならなかった。あんたこそなぜ邪魔をしたの?」

 舞い降りた夜の静けさに耳鳴りがした。弟の目は張り詰めた光を湛え、いまだこちらを見据えている。すると、突然彼の押し殺した哄笑が静寂を乱した。

 「俺は何度そんな言葉を聞かされればいい?」

 大きな両手が彼の顔を覆った。耐えきれないと嘆いている様な姿勢だった。言葉を吐き出す間中も小さな笑い声が口端から漏れ続けていた。それは彼らしくないものだった。誰かを嘲笑うなんて、歩は滅多にしない人間だった。普段の彼は高潔と言っていいほど優しい男だったから。

 「姉さんは知らないんだろ?俺が今どんな気持ちか。助かってよかったって、傍にあんたの気配を感じた瞬間からそんなことばかり考えてたのに…馬鹿みたいだよな?本当に」

 「気が付いてたの…」

  「気が付かないはずがないだろう。なんのために俺がここにいると思ってんのさ」

 また彼はせせら笑うような口調で吐き捨てた。

 「なんのため?また約束でもさせる気なの」

 「いいや。そんなもんもう無意味だろ。自殺なんて絶対にさせない。だから見張ってんだよ」

 そう言い放って彼は足を組み替え座り直した。どんな手を使っても阻止すると言わんばかりの態度だった。

 「そんなに私が死ぬのが嫌?私はそんなに嫌じゃないんだけど」

 「姉に生きていて欲しいって思うのは自然なことだと思うけど?」

 嘲笑の響きはまだ消えない。

 「そう…?私にはそうは思えない」

 「そう言うだろうと思ったよ」

 大きな体を小さな椅子の上で持て余しているような弟の姿を見ながら言った。

 「…入院期間は?」

 「二週間。職場には俺から連絡しといた。スマホ悪いけど勝手に使った。…姉さん、あんた仕事やめたのか?」

 「ああ。まあ。貯金もあるから…なんとかなるでしょ」

 すると歩は、「そういうことじゃないんだけど…」とぼやいた。

 「どれくらい寝てた?」

 「今日で3回目の夜。ほんとしぶといよ。な?姉さん」

 冗談めかして弟は言ったが、その目は微塵も笑ってなどいなかった。頬杖をついて前屈みになると、彼は感情を隠す様に目の端だけでやっと笑って見せた。

 「そう。…歩、頼みがあるんだけど」

 頼み、と言う言葉に反応したのか肩が跳ねるのが見えた。

 「…なに」

 「私の家に行って、服とか色々持ってきて。それから、悪いけど血まみれになった敷物袋に詰めて縛っておいてくれない?賃貸だから汚れると困るのよ」

 「俺が席を外してる間、姉さんが死なないって保証は?」

 「ないわ。でも、死ぬ前にあんたに話さないといけないこともあると思った。まだ生きてることにしたの。だから歩、行ってきて。退院したらあそこで話すことがある」

 すると深いため息が聞こえて

 「わかった。その話、必ず聞かせてもらうからな」

 歩は席を立つと、よろめきながらも振り返らずに出て行った。握られた手が、込めすぎた力に震えているのが見えた。その激しさとは裏腹に病室のドアは音もなく開き、男を送り出した。閉ざされた空間にはまた一糸乱れのない沈黙が降りた。それでも私には、残された感情の跡が漂っているように思えてならなかった。

 

 

 

***

 

アキラの呪い(19)へと続く。

次話はこちら。

 

 

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小説・アキラの呪い(17)

 

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前話はこちら。

 

 

 

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第四章 彼女が望む理由

 珍しく向こうから連絡を寄越したのは、帰省が終わってすぐのことだった。その内容は簡潔で「部屋の片付けをするから今週は来るな」ということらしい。今更部屋が片付いていないことを気にするような奴じゃないはずだが。ひとまず疑問に思いつつも承諾した。ーーーもしかして好きな奴でも出来たんだろうか?
なんて馬鹿馬鹿しい考えも一瞬頭を過るが、すぐさま打ち消された。あの姉と恋愛沙汰ほど食い合わせの悪いものは他にない。想像するだに寒気のするような不気味さだった。いっそのこと恋や愛に興味でもあれば、彼女もまともな人間関係を手に入れられたかもしれない。そもそも姉は人間関係自体をいらないものだと考えているような女だ。だからこの線はまずあり得ない。
 と、そこまで考えて頭が空白になる。姉の思惑が皆目見当もつかなくなったのだ。いつも読みづらいとはいえ、長いこと弟をやっている身だ。今までだってなんとなくの予想くらいは出来た。ところが今回は、考えてもまるでわからない。
姉が、晶が、わからない。
本当に、こんなことは初めてだった。

***

 姉宅に向かう当日。その日は何時間か早く目的地を目指した。先週会っていないことが気がかりだったから。暫く定期的に会っていたせいか、顔を見て話したいという思いに囚われた。
 その日は激しい雨が降っていた。傘を差していてもお構いなしに濡れてしまうほどに。激しい雨音に酩酊するような秋。この雨が涼しさを連れて来るとは誰が言ったことだったか。朝のニュースでアナウンサーだったような。発言には責任を持って欲しいもんだ。もう9月も終わりなのに、涼しさの気配すら見えないじゃないか。俺は心の中で顔すら曖昧なアナウンサーを恨んだ。夏は好きだが、蒸し暑いのは苦手だ。とりわけ雨の日は特に。この湿度の高さには閉口するしかない。だから梅雨時期や台風なんかは最悪だった。そういえば台風が新しく発生したとも言っていた。驟雨はそのせいなのか。次から次へと生まれる気流の渦がこの時期は特に勘に触る。俺にはどうしようもない力の渦に揉まれているようで。少しはこっちの都合も考えて欲しいもんだ、と小さく悪態を吐きながら踏み出した足が水溜りに浸かった。
 深いため息を地面に落とすように、俺はヤケクソになって走り出した。どうせもうびしょ濡れなのだ。これ以上濡れたところで大した変わりはないだろう。
 結局滴るほどずぶ濡れの状態で姉の部屋へと赴くことになった。腕時計を確認すると、約束の時間より1時間半早い。時計が防水で良かったと考えながら、いつもの癖で前髪を払うと、濡れ切ってぺっとりと額に張り付いている。もはや手の施しようがない。今日は風呂でも借りなくてはならなそうだった。
『濡れたなら来なくてもいいのに』
 そうすげなく言い放つ姉の姿がありありと目に浮かぶ。まあいいさ、今日は姉の顔を見にきたんだから会えさえすればそれで構わない。でも風呂だけは貸してもらおう。このままだと十中八九風邪をひく。
 インターホンを一応押す。今日は祝日だからもしかしたら在宅かもしれない。そんな期待と共に2度ほど押したが応えはなかった。外出中らしい。珍しことに。
 俺は仕方なく合鍵を取り出してドアを開けた。今までこういうことがなかったわけではないし、勝手に入ったと怒られることはない…と思いたい。
「姉さん〜いる〜?入るぞ〜!」
 結局日和った俺は、大声を出しながら入るという手を打った。声がデカければデカいほど罪も軽くなるような錯覚があった。
 しかし、張り上げられた声は薄暗い室内に吸い込まれていった。なんの物音もしない。本当に主は部屋を空けているらしい。
 まあ、約束通りに来なかったのだから、そんなもんかもしれない。俺は玄関でバックパックを下ろすと、その中で濡れないように守られていた食材たちを取り出した。とりあえずこれらを冷蔵庫にぶち込んでおく必要がある。秋とはいえまだまだ気温が高い。夏の方が食べ物の足が早いことくらいは俺も知っていた。廊下の電気をつけながら歩くと床は夏なのにひんやりと冷え込んでいる。素足で触れるフローリングに寒気を催した。
 リビングの電気をつけると、入り口のすぐ横に冷蔵庫があった。ろくに料理もしない晶には勿体無いほど立派な代物だった。きっと今日も空気だけ冷やしているに違いない。
 開けて中を覗くと、案の定そうだった。綺麗に空だ。奇妙なほどに。今までも使った形跡が無いとは言え、それでもお茶ポットくらいは冷えていたのに。常備していたはずの調味料から何から全て取り払われてなくなっていた。
 それだけではない。やけに綺麗だった。ーーーまるで掃除でもしたみたいに。姉のそんな几帳面な姿を俺は一度も見たことがなかった。庫内を観察するうち、だんだんと背筋が冷えるのを感じた。
そう言えば、廊下もやけに片付いていた。いつもはもっと雑多なものが置いてあるのに。先週言っていた片付け、とはこれのことだったのか?でもこれは片付けというよりーーー。
 「ううっ」
 その時だった。誰もいないはずのリビングから声がしたのは。振り返り、リビングを見渡す目に飛び込んできたのは横たわる女の姿だった。ここにいるはずのない姉が手首から血を流して倒れている。敷かれたカーペットには夥しい量の血液が染み込み赤黒く変色していた。
 「晶!!!」
 叫んだが、足の力が抜けてその場に崩れ落ちてしまった。震えが来てどうしようもなかった。おかしくなりそうな頭でどうにか手だけを動かし、救急車を呼ぶ。応対する落ち着いた声にも心を鎮める効果はなかった。通話を終えると同時にスマホが手から滑り落ち、血溜まりを荒らした。血が飛び散ったが構わなかった。彼女が目覚めさえするのなら、もうなんでも構わなかった。電話で教えてもらった応急処置をなんとか施しながら触れた手は死んだように冷たい。俺よりもずっとか細い手に触れながら呟いた。
「どうして…こんなこと…」
 すると、
「あんたのせいよ」
 下から強い瞳が睨んでいた。
 「晶っ!」
 「あんたのため、だった…」
 そう言い残して、彼女は再び意識を絶った。ずっと頭の中で繰り返していた。
  「俺の…せい…」
 どこか遠くからサイレンが聞こえる気がした。濡れた髪から滴った雫が姉を無情に濡らしていることにすら、気が付かなかった。それほど言葉に囚われていた。そしてそれは救急車がやってくるまでずっと続いた。確かなのは握った手の温度だけだった。

***

 

 

 

アキラの呪い(18)へとつづく。

 

次話はこちら。

 

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小説「アキラの呪い」(16)

 

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前話はこちら。

 

 

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間話2 「深夜:side晶」

 


 深く静まり返った夜のことだった。

 誰かがうめいていた。男の掠れた声が壁向こうから聞こえる。作業の手を止め、わたしは知らぬ間に歩の部屋の前へと立っていた。ドアノブを引くと、くぐもっていた声は鮮明になる。戸の隙間から闇が漏れ出て廊下を染めていた。その暗闇に惹かれたせいだろうか。部屋へと足を踏み入れ、気がつくとベッドを覗き込んでいた。弟が大きな体を窮屈そうに折り曲げ、蹲っている。彼を見下ろすのは久々で、見慣れない光景だった。その様はまるで獣の寝姿のようでもある。そして同じく獣のような唸りが喉から漏れて、部屋を這い回った。薄暗い室内でも、表情の険しさは明らかだった。深い皺が刻まれた眉間を触れるか触れないかのところで掠めてみる。そこだけ、別物のように盛り上がっていて、なんだか面白い。

 何かから逃れようとするように、彼は一層激しく身を捩る。それと一緒にシーツが乱れ、幾重にも波を生んでいた。一体どんな夢を見ているのだろう。

 そこでふっと正気に戻った。

 なぜ、ここにいるのだろう。

 やらなければならないことはまだまだ山のようにあるのに。その思いとは裏腹に足は貼りついたようにその場から動かなかった。

 そんなに興味深いものだっただろうか?

 何かを確認しなければならないと思った。ベッドの端に腰を下ろすと軋んだが、彼は起きる気配もない。振り向いてもう一度、まじまじと観察する。そういえば、この子の寝顔を見るのは本当に久しぶりだった。自然と手が伸び、触れたのは喉仏だった。私にはない、この盛り上がり。今は荒い息を吐きながら上下に揺れている。その動きを追うのにしばし夢中になってしまう。「ふふふっ」と、溢れた密やかな笑みが、唇を歪めた。指だけではない。彼の剥き出しの肌が寝苦しそうに身動きするたび、少しだけ私に触れた。するとその時、喉元が大きく動き喘ぐように吐き出した。

「ここのえさん…」

「ここのえ…」

 自分の息が詰まるのを感じた。触れていた指先をそっと離す。目覚めてはいけない。無防備な姿をもう少し見ていたかった。九重とは私の古い苗字だった。夢には私がいるのだろうか。それとも母が?すると、思考を断ち切るような鋭い声が発される。

「違う!違う違う違う違う違う……!」

「あきら、アキラ、晶…ねえ、さ、ん」

 久しぶりに名前を呼ばれて、自分の頬が強張るのがわかった。そう。昔は幼い声でアキラと呼んでいた。歩がそう呼ばなくなったのはいつの頃からだったか。残念ながら思い出せない。元々いろんな記憶が曖昧な方なのだ。それでも、もう呼ばれないのだと確信した時の喪失感だけは今でも覚えている。他のものが遠く失せていく中、ずっと消えなかった。焼け焦げた跡のようにずっと。目障りだった。消してしまいたかった。もう、呼ばれることはないだろうと思っていたのに。心の中ではそう呼んでいたのか。

 「…歩」

 「あんたはなぜ、呼ぶのをやめたの?」

 「これを尋ねてみたかったの」

 口に出して初めて、わたしは自分の欲求に気がついた。

 「ねえ、なぜ?」

 寝顔に問いかけても、応えなどあるはずもない。我ながら馬鹿馬鹿しいことをしてしまった。一連の行動を思い返して、呆れているとやがて彼の瞼がゆっくりと開き始めた。

 わたしはそれを悟るや否や、足音を殺し、退出した。幸いにも弟が気がついた様子はなかった。ここで立ち去ってもよかったが、どうしても目覚めた歩を見てみたいという衝動に駆られた。それに、どんな夢を見ていたのかも尋ねてみたかった。私はどんな夢に登場していたのか、と。少し考えた末、やはり入ってみることにした。

 ドアの前で姿勢を正すと、2度ノックした。短い声が応える。その声は悪夢故か疲れ切っている。彼はどんな顔でわたしを出迎えるだろうか。今はただ、それが楽しみだった。苦しんでいても悲しんでいてもいい。喜んでいても怒っていてもいい。彼の喜怒哀楽はわたしを楽しませる。それだけは、幼い頃から変わらないことだった。そしてこの悦びこそが、変わらず苦しみの源泉でもあるのだった。ドアが音もなく開く。隙間からは、あの子の潤んだ眼が見下ろしている。

 


***

 


間話2終わり。第四章へとつづく。

 

次話はこちら。

 

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小説「アキラの呪い」(15)

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前話はこちら。

 

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***

 


 晶は結局翌日には早々と片付けを終えてしまった。後には空の部屋だけが残された。まるでそこだけ持ち主を失ったかのようだった。そうして姉はその後一日だけ滞在し、実家からアパートへと戻っていった。正直いつ帰ったのかは俺にもわからない。週明けになって大学の講義に出なくてはならなかったから。ただ、最後の1日はどこかに出掛けていたようだった。帰りしな、晶と会って一緒に家路についたからだ。彼女が自ら外出するなんて珍しいものだ。普段はほとんど出かけないくせに。考えてみれば、彼女はこの帰省中妙に活動的だった。こんなに忙しなく動き回る姉を見たのは初めてだった。訝しむほどのことではないかもしれない。だが、違和感があるのは確かだった。そうして俺は近々また姉の元を訪れることにしたのだった。

 ところで両親は姉の帰省が終わってから目に見えて活力を失っていた。特に母は顕著だった。やはり姉との衝突がこたえたのだろう。あの後、母はこっそりとゴミ袋を開き中身を少しだけ回収していた。きっと「ゴミ」のいくつかは彼女の手元にあることだろう。その背中を見ていると、複雑な思いに駆られた。姉はきっとその行動を嫌悪するだろうし、俺もなんだか寒気がした。親からの愛情とはここまで重くのしかかってくるのか、と。無償の愛とはよく言ったものだ。本人の意思とは関係なく注がれ続ける他者の感情。それを受容できるなら本来は問題ないのだろう。ならば、それを受け入れられない人間はどうなるんだ?愛に溺れ、挙句窒息するんじゃないか。そんな絵図が脳裏に浮かんでは消えた。「溺愛」という言葉がある。愛に溺れているのは、愛する者なのか、愛される者なのか。もし愛される者であるなら、その叫びは相手に届くのだろうか。それとも愛という水に遮られ気が付かないのだろうか。

 それなら愛は本当に尊いと言えるのか。隠れて母の背を見ながら、俺はずっとそんなことを考えていた。だからあの後ろ姿はあんなにも恐ろしく見えるのだろうかと。

 親父にも尋ねてみたくなったけれどやめておいた。なんと切り出せばいいのか、その一言が全く思いつかなかったから。だから想像だけしてみた。

『なあ、親父。母さんが姉さんのゴミ、拾ってたんだ。なんか妙な気分になったんだよ』

『ああ。…母さんは晶のことがほんとうに好きだからなぁ』

『そんだけ?』

『何が言いたい』

『だってさ…姉さんは捨てることを望んでるんだぜ?』

『親心ってやつだよ。歩も結婚すればそのうち分かる。親にしかわからないんだ』

『そういうもん?』

『そういうもんだ。ガキにはわからない』

 きっとこんな感じ。親父は煙に巻くような会話ばかりした。大事な部分には触れず、誤魔化してなんとなくなかったことにしてしまう。きっと俺が何を言いたいのか正確に理解した上で、それでもはっきりとは応えてくれないだろう。親父の相手をしているときはいつも、掌の上で遊ばれている気分だった。母は親父と俺がよく似ていると昔から言うが、正直外見だけだと思う。あんな底意地の悪い真似、不器用な俺には到底出来っこないからだ。なまじ見た目が似ているのが嫌だ。そのせいで中身の違いがより顕著に思えた。親父には敵わない。だからたまに思う。もしも親父のように賢ければ、晶にもっと上手く接することができていただろうか、と。

 この問いに意味はない。でも自分の無力さを思い知るたび別の人間になりたいと願わずにはいられない。父本人はというと、晶と家族として接してはいるものの、二人には常に一定の距離があった。最初はお互い遠慮しているのだと思った。だが、それは違った。姉は過度に干渉しないほうが都合が良かった。そして父は義娘の個人的問題に踏み込んで解決するほどには、姉を愛していなかった。もちろん家族としての愛はあった。それは間違いない。だが、それ以上の厄介ごとに関わるほどの感情はなかった。そんなことは姉自身も望まないのは明らかだったし。幼い頃から晶を育てたのは母だったから、父は概ね母の方針に従うようにしていた。

 冷たいような気もするが、正直これでよかったのだと思う。母に加えて父まで積極的に振る舞っていたら、きっと姉はいつか爆発していただろう。安泰に見えたうちの家族も案外危ういバランスで成り立っていた、ということらしい。

まあ、晶を擁する家庭が平穏無事な方がどうかしている。そう思わないか?俺は大いにそう思う。俺たちはなかなか頑張ってる。そうだろ?まあ、誰かに褒めてもらったわけでもないんだが。

 


第三章おわり。間話2へと続く。

アキラの呪い15、16は連続更新。

次話はこちら。

 

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小説・「アキラの呪い」(14)

 

f:id:KUROMIMI:20240229160032j:image

 

 

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 両親はもうすぐ10時になろうかという頃に合わせて起きてきた。少し遅い朝だった。父が先に起きて、ついでに母を起こして連れてきたらしい。父も母も朝が弱いわけではない。やはり昨日の酒が効いたんだろう。

 両親が起床して30分も経たないうちに一悶着あった。姉がゴミ袋に貯めた大量の「ゴミ」を母が目にしたのだった。母は娘を愛していたし、娘が生きてきた軌跡をが失われることを恐れていた。

 「晶、これ、どうするの?」

 「捨てる」

 「……なら、私にくれない?それならいいでしょう」

 「捨てるって決めたの」

 「あんたが捨てるならもう、あんたのものじゃないわ。なら…」

  「いや」

 この辺りで母の声が少し大きくなり、一階にいた親父と俺は様子を伺いに階段を上った。登りきったその時に見た母の横顔は長い間忘れられない。張り詰めた、縋るような目をしていた。だが、それよりも母の中で逼迫しているのは、「隠さなくてはならない」という思いのように見えた。母は確かに姉を愛していたが、それを相手に押し付けるような真似はしないよう慎重だった。もしもそんな真似をすれば晶に激しく拒絶されることは火を見るよりも明らかだったからだろう。もしかするとそんな気遣いすら、姉には煩わしいのかもしれないが。それを言うのはあまりにも酷だ。うちの姉が残酷なほど利己的なのはいつものことだ。

 受け取り手のない愛情ほど虚しいものはない。だからこそ母に限らず父も、姉に対する家族愛を積極的に表現することを避けていた。だが、行き場を失った感情を溜め込み続けるのは苦しい。表現したくなるのが人間ってもんじゃないか。いつの日か意図せず噴出したからといって誰が責められる?少なくとも俺にはできない。今日の状況はまさしくそんな感情の漏出が原因だと言えた。

 頭を片手で押さえながら深いため息をついて母は俯いた後、鉛を吐き出すように言った。

 「…わかった。好きにしなさい」

 姉は結局、それ以上何も言わずに部屋のドアを再び閉ざしてしまった。話している間中、姉の表情を見ることは叶わなかった。壁とドアに阻まれ、隠されていたからだ。肩を落とした母の背を見て、今更ながら姉がどんな顔で今のやり取りをしていたのか気にかかった。血の繋がった母のささやかな望みを拒絶する。それってどんな気分だろう、と。実の母が他界して久しい俺には想像し難いことだった。実の母の記憶すらない。写真なら見たことはあるが、それは後から作られた記憶に過ぎない。だからだろうか、普段母があくまで義理の母であると意識することはほぼなかった。父はもちろん義母も二人の子供を平等に愛した。たまに両親自身すらも互いの連れ子を育てていると忘れているのではないか、そんなふうに思えるほどだ。この点でうちの親はなかなか「良い親」だった。再婚してここまでうまくいくことも稀なんじゃないか?家族というものは血縁ではなく関係性の名だ。うちの家族に関して言えば間違いなくそうだった。

 ところで並べてみるとよくわかることだが、晶と母は親子の割に似ていない。晶は癖っ毛の剛毛で、母は猫っ毛のストレート。塩顔気味の晶に対し、母はくっきりとした顔をしている。とても小柄な母に対し、晶は比較的長身だ。数え上げていくとキリがないほど、彼女たちの相違点は多い。それは何も外見だけじゃない。内面的にも正反対だった。外交的で人懐こい母と人嫌いで厭世的な娘。本当に血が繋がっているのかと怪しみたくなるほど正反対だ。だからだろうか、親子であっても二人は互いをどうしても理解できないらしかった。性格が違いすぎて、思考回路も行動様式もまるで違う。それでも二人が共存できたのは、母の努力の賜物だった。

 今日のように衝突しそうになるとすぐに母は手を引く。そうしてまるで不和などなかったかのように流してしまう。彼女は他人との衝突を何よりも嫌っている。誰かとぶつかり合うくらいなら自分の意思などどうでもいい。生き様にそんな思いが透けて見えるようだった。特に姉に対してはその傾向が強い。きっと母は罪悪感に動かされている。無条件の降伏は娘を分かってやれない罪を贖う代償行為に近い。だからこそ母は晶に甘い。親父も母の方針を尊重して、ある程度までは姉を放任していた。そんな感じだったから、昔は不平等に感じたこともあった。姉には許されることでも、俺には許されない。姉ばかりが甘やかされ、愛されているようで悔しかった。

 けれど長じるにつれその考えが誤りだと気づいた。甘やかすばかりが愛情ではない。姉のことを思うなら、きついことを言う役回りの人間が必要なはずだ。ところが俺たちにはそういう役目の人間がいなかった。皆、不都合から目を逸らしていただけだ。

 ーーー必要な人間が欠けている。

 俺がその事実に気がついた時には、すでに手遅れだった。俺たちは卑怯さに慣れすぎていた。後からなんとか姉を諌めようとしたこともあったが無駄だった。そもそも義弟などという立場でそんなことをされて、あいつが黙って聞いているわけがない。怒鳴りはしなかったものの、怒気を孕んだ沈黙で迎えられ、そのまま黙殺された。殴られなかっただけましなのかもしれない。

 自分の無力さを悟った時に決めたことが一つある。

ーーーーあいつが自分を傷つけようとした時は、手段を選ばず止める。そのために、せめてそばに居よう。

 たったそれだけの単純な取り決めだった。俺は義母や親父の代わりにはなれない。それでも彼女の手を握り続けているのは義理の弟だけだった。俺がこの手を離せば姉は一人きりになってしまう。大した意味はなくともこれが俺にできる最大限だった。

 俺もまた、罪悪感によって動いているのだろうか。

 そんな風に考えてしまう時もある。どちらにせよ、俺にアキラを手離すと言う選択肢はなかった。そんなことができるくらいならとっくに距離を置いて過ごしていただろう。血の継ながらない他人らしく。

 そんなことを考えていたせいだろうか。俺はその夜、おかしな夢を見た。それは「姉ではない晶の夢」だった。晶も俺も制服を身につけていた。夢の中で俺は彼女を「九重さん」と呼んだ。言ってからそういえば晶の旧姓は九重だった、と思い出した。振り向いたあいつの表情はよくある夢のようにぼんやりとしている。きっとうまく想像できなかったんだろう。

けど、一つだけ覚えているのは彼女が俺と言葉を交わしている間、笑っていたことだった。ほとんど見たこともない姉の笑顔。それは幻のように儚く、美しかった。

 奇妙な夢は、すぐに終わりを迎え俺を現実へと帰した。真夜中はキンと耳鳴りがするほどの静寂を湛えている。特に辛い夢でもないのに、何故か身体が汗ばんでいた。暑くはなかった。あいつと家族でない自分など想像したこともなかったのに。先程まで見ていた幻想に俺はどうやら魘されていたらしい。

目覚めた後には印象だけが残り、あとはどれだけ踠こうと欠片さえ取り戻すことはできなかった。だから、ひたすら一人掌に残った虚しさをなんとか握り潰しているしかなかった。目の前が闇に塗り込められている。息苦く、重たい色に見える。

 するとその時、部屋のドアがノックされた。ドアを開けてみると、姉がそこには立っていた。その姿が夢の姿と重なった。

「うるさいわよ」

「は?」

 廊下に晶のため息が響いた。

「あんた、そんな歳になってもまだ寝相が悪いの?変な声は聞こえるわ、ドタバタうるさいわ、なんなの一体」

 心底呆れた、とでも言いたげな表情でそう言う姉を俺は見下ろして当惑する。奇妙だった。真夜中にこうして他人の部屋を訪ねて話すだなんて、絶対に普段やらないことのはずなのに。どう考えても彼女らしくなかった。

 「…ごめん」

 「夢は所詮夢よ。あんたが恐れてることは起こらない。絶対に。正夢なんてあるわけないわ。馬鹿馬鹿しい」

 やっぱりそうだ、と俺は目を見開いて思う。姉は俺を心配してやってきたのだ。

 「姉さん、もしかして起きちゃったのか?俺がうるさくて」

「いや?まだ起きてた。片付けやっておきたかったし」

 「そう…」

 予想外の事態で呆気に取られ、まともな応答ができない。姉と他人を心配するという状況がどうしても俺の中でうまく結び付かなかった。ただ、頭の片隅でこう思った。

そうか、心配している晶の表情はこんな感じなのか…と。

 「なに?ぼっとしちゃって。まだ寝ぼけてるの」

 「えっ?あ、ああ…姉さんが優しいからおかしいなってさ」

 なんだか恥ずかしくなって、右手で無闇に髪を掻き回しながら言い訳した。姉の顔をまっすぐ見られない。

 「はあ?何変なこと言ってんのよ。もういい、寝な。うるさくしないでよね、今度こそ」

 俺を追い払うように手を振りつつ彼女は隣室へと去っていく。嫌味たらしい言動も今夜ばかりは憎くなかった。

「ありがとう。おやすみ、姉さん」

 呟くように告げてドアを閉めると、心が落ち着いているのに気がついた。今度は悪夢なんて見ないだろう。そんな予感がした。身体を横たえると、耳鳴りに代わって壁越しに姉の気配を感じた。彼女はいつ眠りにつくだろう。心地よい物音に耳をすませながら、ぼんやりと思う。そう。現実の姉はすぐ隣にいる。彼女が家族でないなんて、そんなことは記憶にもないくらい遠い昔の話だった。冷静になってみれば、ありえない夢だ。たとえ明日から水無瀬晶が九重晶に戻ったとしても、ここで過ごした時間が消え去るわけじゃない。そう思ったら、心がすっと軽くなっていくのを感じた。

 そうしていつの間にか眠りの中へとふたたび落ちていった。今度はなんの夢も見なかった。時折眠りが浅くなった時には、寝かしつけようとするような物音が隣から微かに聞こえてきた。姉は結局夜半を過ぎても作業に没頭しているようだった。その事実だけで何故か俺はこの上なく安心できるのだった。

 


***

 

アキラの呪い(15)へと続く。

 

次話はこちら。

 

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小説・「アキラの呪い」(

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***


 朝飯は予定通り目玉焼きにウィンナーを添えた。両親の分も合わせて作ってしまう。二人とも今日まで休みで明日から仕事らしい。昨日そこそこ呑んでいたから、もしかしたらなかなか起きてこないかもしれない。食パン三枚を焼きながら、一杯だけコーヒーを淹れる。姉は苦味を受け付けない。それでかつては毎朝甘いホットミルクを飲んでいた。朝食のセッティングを終えると、俺は2階へ「姉さん。朝飯食おうぜ」と声をかけた。姉と朝食を囲むのも久しぶりのことだ。
姉は「そんな顔して料理ができるのってなんか気持ち悪い」とかボソボソ言いながら食べている。何か一言余計なことを言わなければ気が済まないらしかった。俺にはそんな言葉さえもなんだか嬉しい。思っていたよりも遥かに、姉が独立したことがこたえていたらしい。この帰省でそれを実感せざるを得なかった。いつもよりコーヒーの苦味を感じる。ほろ苦い余韻は姉との関係性がどこまでも一方的なものでしかないと戒めているようでもあった。
 「この後も片付けすんの?」
 食器を洗いながら問いかけると、姉はホットミルクを恐る恐る口に運んでいるところだった。彼女は猫舌のくせに熱い飲み物が好きという難儀なところがあった。
 「うん。あとでまとめて捨てに行くわ」
 「なあ、思ったんだけど。ほとんど捨てるんだろ?ならさ、誰かしらに譲るとか、アプリで売り払うとかしてもいいんじゃないの」
 俺からすれば当然の疑問だったが、姉の歪んだ顔をみて、そうとも言えないらしいという事実を悟った。
 「なんでよ。他人にやるくらいなら捨てた方がマシに決まってんでしょ」
 「そうか?」
 心底わからないという声色が思わず出てしまう。自分のいらないものを他人が使えば処分する手間が省ける。捨ててしまえばそれまでだ。大切なものなら尚更捨てられないもんじゃないのか。話しながら考えを巡らせても一向に答えが出ない。
 「捨てようが何しようが、私のものは私のものよ。それをなんで他人にやらなきゃなんないの?そんなことするくらいなら捨てるわ。絶対にね」
 その言葉を聞いて、理由もわからずゾッとした。姉が物に執着することはわかっていた。昔からそうだ。気に入ったものを見つけると、他のものは目に入らないくらいそればかり使った。だから手元に残るのは、昔から彼女が愛したものたちだけ。その性格は幼い頃から変わらない。ただ、一つ例外がある。人間関係の一点においてはその図式がまったく当てはまらなかった。きっと姉は、二十年以上生きた今でも他者へ強い感情や関心を寄せたことがない。
 だからこそ、物に対する姉の執着心を目の当たりにするたび思う。あの矛先が少しでも人に向けられたなら、と。そうすれば姉も少しは俺の気持ちを理解するだろうか。そんな風に考えてしまう瞬間は、これまでも前触れなく訪れた。そして今、この時もそれは同様だった。こういう瞬間はいつだって、底無しの穴の前に立ち尽くすような虚さをともなった。
 「姉さんがそう言うなら、まあいいけどさ。父さんと母さんにはバレないようにしろよ?多分あとでうるさいから」
 気がつくと、そんな言葉を俺は発している。声はこれで大丈夫か?普通がわからなくなる。平常を取り戻そうとすればするほど足元は崩れていった。
 「ふん、…わかってるわよ」
 姉が返事すると、背後で椅子を引く音がして、足音が近づいてくる。緊張に手が震えた。今、顔を見られたら感情を隠しきる自信が無かった。今どんな顔をしているのか、自分でも想像できない。水音と心音がありえないほどうるさく聞こえた。笑え。せめて笑顔で塗りつぶせ。そうでないと。そうしなければ。
 「歩、これもお願い」
 カン、と音がしてそちらに目を向けるとマグカップが置いてある。足音が遠ざかり、階段を上りきるのを察するまで、俺は息もできなかった。結局、取り繕えたのかすらわからない。平静を装えていなかった、とは考えたくなかった。だとすれば、姉はその表情すら目に留めず立ち去ったことになる。そこまでの無関心は流石の俺でも堪えるものがあった。
 いつからか、俺は姉に素のままの感情を見せるのことを恐れるようになっていた。俺がどんな様でも姉は気にもかけない。そんなことはわかっているのにやめられない。俺は姉が頼ることのできる存在でありたかった。少しでもいい。支えになれる、そんな人間に。自分が不様なことくらい誰よりもわかっているつもりだ。けれどせめて、姉の前でくらいは余裕のある姿を見せたいと思った。ありのままの自分を見せれば最後、晶が俺を頼りにする日は、永遠に訪れない。そんな予感に縛られている。俺はずっと背伸びしている。それは無意味な願掛けに近い行為だ。背伸びで埋めたいのは単に歳の差なんかじゃない。俺は姉と対等になりたかった。姉を理解したい。いや、理解できないとしてもこの居場所を守り続けたい。そうしなければ、いつか姉は俺を置き去りにどこかへ行ってしまう気がしていた。自殺未遂の光景が脳裏にまざまざと蘇る。姉の自殺願望は俺の強迫観念を加速させている。他者を必要としない人のそばに居続けることがどれだけ難しいことか、誰よりもよくわかっているつもりだった。だからこそ、姉の家に押しかけた。拒否する隙を与えないように。でもそうして得られたのは、形ばかりの隣だった。本当はわかっていた。こんなことに意味はないと。
 交流が増えようと、帰省しようと、彼女の心が開かれたという実感はない。どれだけ差し出そうと受け取る気がない相手に、何かを与えることは出来なかった。
 一人相撲もいいところな今の醜態を思い返すだに嫌気が差した。
「…ほんと、ろくでもないな」
 そんな言葉が口の端から漏れたが、誰に対してかはわからないままだった。洗い物を終え、締めた蛇口から残り水が滴る音がキッチンに響いていた。
 『どうしたらいい、晶』
 いや。本当はこう問いかけたいのかもしれない。
 『どうして欲しい、晶』
 なんでもいい、あの口から望まれることを俺はずっと待っている。きっと、そんな日は来ないのだろうが。彼女は他人を信じないから。


アキラの嘘(14)へとつづく。

 

次話はこちら。

 

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