前話はこちら。
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それまで私の中に残るものはなかった。ただ通り過ぎていくだけ。周りのもの全部がそう。血の繋がった母親でさえそうだったんだから、当たり前よね。ーーー今気づいたんだけど…。だから顔や名前を覚えられないのかも。新幹線の外を流れていく景色みたいっていうか…。うまく言い表せないわね。私ってこんなに馬鹿だっけ。
まあとにかく、いつだったかこんな会話をしたことがあったわけ。
あの人がある日唐突に尋ねたの。「お友達できた?」って。あれはまだ学校に通う前。五歳くらいのころだったかしら。いつもいつも同じようなことばかり尋ねてくるからそういう儀式みたいになってた。当然私は否定した。そんなもの、作ろうと思ったことすらなかった。私の世界は私だけで充足していて、必要すら感じなかったから。今は後悔してる。否定しなきゃよかった。簡単な嘘くらいつけばあの頃もう少し楽に生きれたかもしれないのにって。けど、小学生にもならないガキにそんなこと無理だったかもね。だって当時の私も正直に否定したんだから。そうしたら、続けてこう母は言ったの。「一人で寂しくない?」って。だから言ってやった。「寂しいって何」って。あのときの表情は見ものだったわ。あの絶望に満ちた顔。あんたにも見せてやりたかった。
それでもあの頃はなぜあそこまであの女が動揺するのか分からなかったの。まだ子供で父親は死んだとしか聞かされてなかったから。でも成長してから知った。実の父親がクズで私たち二人を残して消えたこと。それを聞いてやっと納得できた。あの女は…お母さんは、私を父と重ねて恐れていたんだろうって。少なくともそう思った方が私にも都合がよかった。理由なく恐れられるだなんて。気分がいいわけもないでしょ?私とあの女は容姿もあまり似てないじゃない。だからかな。昔から他人のふりをする方が容易くて。二人きりなら、きっと今頃本当に家族じゃなくなってたかも、なんてね。そう思えるくらいには昔から危うかったの。本当に。でも母は賢明だっだと思う。だって父さんとあんたを連れてきたんだから。その点だけは本当に感謝してるの。あんたにも、父さんにも、母にも、ね。
…まあ、歩。あんたにとっては災難だったでしょうけど。こんな姉ができちゃって。許してとは言えない。けどもう少しで厄介者はいなくなるわ。そのためにこんな話をしてるんだから。
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姉は小さく笑い声を立てて顔を歪めた。まるで他人事のように乾いた嘲笑。響きが鬱屈の根深さを生々しく現していた。虚しい残響がいつまでも漂って耳の奥を蝕んでいる。思わず俺は言った。
「姉さんは?」
「え?」
姉の顔から嘲りが消えた。
「姉さんは俺たちが家族になったこと、どう思ったんだよ」
「言ったでしょ。助かったと思ったわ。心底ね」
彼女の返答は要領を得ない。俺が求める答えはそんなものじゃないと知っているはずなのに。すると姉は観念したように深く息を吐き出した。
「あんたは知りたがりすぎるのが問題ね。昔からそう」
そう言ってこちらを指さしてくる。失礼な奴だ。
「なんだよそれ」
「自覚ないの?」
「何が?」
するとまた皮肉げな笑みが口端に滲んできた。
「まあ、そっちの方がいいか…」
独白して姉はただ目を細めるだけだった。いつも以上に考えの読めない態度に、これ以上振り回されまいと俺もまた口をつぐんだままだった。
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母が再婚してしばらく、表面上は何事もなく日々は消化されていった。けれど半年が経った頃から水面下で問題が起き始めた。母と一対一で話せなくなったのだ。正確には母が私に必要最低限以外話しかけてこなくなった。いや、その必要最低限すら義父を介して伝えられることが多くなった。例えば四人で食卓を囲んでいるときはいい。和やかに会話が交わされ、これ美味しいね、なんて言い合っている。けれど母と二人きりになった瞬間その空気は一変する。廊下ですれ違う時にすら息を詰めるような緊張がいつのまにか生じていた。
それでも構わなかった。もう十歳になった頃には「外れもの」であることを受け入れるようになっていた。「孤独」だけがいつまでも私に寄り添う唯一のものだと。
けれどその認識と現実は少しずつずれ始めた。あらゆる人々が私を通り過ぎていく中で、確かに変わらないものがあった。三歳年下の義弟だけがいつのまにか私のそばにいた。最初は気にもしなかった。他者はいつか通り過ぎる景色だったから。だから弟に対してもそう接した。時々わざと遠ざけもした。最も、私は他人を拒絶する機会さえ乏しかったから、上手くやれたとは到底言えない。とにかくそんな風にして私の10代前半は過ぎた。今から思えば無駄な時間だった。無駄な足掻きだった。あの行為こそが私にとっては致命的だった。生きていて後悔しているとすれば、そう。その一点に尽きるだろう。
「アキラの呪い」(23)へとつづく。