小説・「海のなか」(37)
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「ありがとう…」
こぼすように呟くと、夕凪は暗がりの中じっとこちらを見つめていた。
「なんか変?」
戸惑って俺は半笑いになってしまう。すると、夕凪ははっとして
「いや、本当に来てくれると思ってなくて」
と言った。どうやらお互いに相手がいるか不安に思っていたらしい。そう考えたら、どことなく嬉しくなってしまった。
「夕凪でもそんなこと考えるんだな」
「え?」
「だって周りなんか気にしないと思ってたからさ」
紙袋からおでんを取り出して夕凪に手渡しながら続ける。
「俺が何したって、どうでもいいっていうか…。まあ、そんな感じ」
「なんかそれだけ聞くと嫌なやつみたいだね、わたし。なのになんで来てくれたの」
お互いの表情は微かにしか見えない。だからこんなにもするすると言葉が出てくるのかもしれない。今夜の暗闇は何だか俺を素直にさせる。
「俺さ、夜って好きなんだよ。なんかワクワクするっていうか。だからかな」
言ってしまってから、自分でもこれが偽りない本音なのだと思った。俺が今日来たのは、ただ俺がそうしたかったからだ。夕凪が神社にいる事を、俺は知っていた。ずっと昔から。彼女の背中を眺めながらどこかで願っていたのかもしれない。ここで夕凪と並んで座ることを。彼女にずっと関わりたかった。ただ、それだけ。剥き出しになった望みはあまりにも幼稚でストレートだった。俺は何だか気恥ずかしくていてもたってもいられなくなった。
「そっか…俺、ずっと」
「陵?」
「いや。何でもないんだ。お腹すいた!おでん食べよう」
ごまかすように箸を渡して早口に言った。夜が深くてよかった。今だけは顔を見られたくない。微かな光源から顔を背けて頬張ったおでんはあたたかかった。「いただきます」と小さな声が傍でして、うまそうな匂いが俺の方まで流れてきた。
「わたしはたぶん…どうでもいいってわけじゃないんだ。今までやりたいこともできる事も何にもなかっただけで。だから、自分がだれかに何かをできるなんて思った事もなかった」
夕凪は静かに言った。今初めて夕凪と出会い、話したかのようなそんな不思議な心地だった。胸がざわめいて仕方がないのに、なぜか心地よかった。俺は気がつくと後を継ぐように話し始めていた。
「俺もさっき気がついたんだけどさ。多分ずっと……夕凪と並んで話してみたかったんだ。だから嬉しいよ。ありがとう、夕凪」
言い終えて夕凪の顔をそっと覗き込むと、彼女の頬は濡れている。涙が微かな光を反射して白く光っていた。
「夕凪…」
「え」
その時初めて夕凪は自分が泣いていると気がついたようだった。泣いていることそのものを認められないような表情をしていた。幼なじみの涙を見たのは、俺もこれが初めてのことだった。もう出会って10年は経っているはずなのに。こんな短い時間すら俺たちは共有したことがなかった。そんなことに、今更気がついた。
夕凪は無言でほおに触れ、不慣れな手つきで涙を拭った。そして濡れた指先を眺めていたかと思うと、不意に涙を舌先で舐めとった。
「涙って塩辛いんだ」
少しはにかむような表情だったのも束の間、次に浮かんだのは、呆然とした表情だった。
「何でわたし、泣いたんだろう…」
答えるもののない問いは夜に紛れて消えてゆく。その瞳からは静かに雫が溢れ続けていた。
***
海のなか(38)へ続く。
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