KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説・「海のなか」(42)



 

前話はこちら。

 

 

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 翌日、夕方が近づいてくるとわたしは社殿の影に身を隠した。それが悪いことだとわかっていたけれど、どうしても見たかった。わたしの不在を知った陵の表情を。その顔色ひとつでわたしの中の何かが決定的に動いてしまう気がしていた。

 いつからこんなに狡くなったんだろう、と他人事のように考えながら壁に背を預けると、夜に侵されつつある空を見上げた。星が微かに煌めき始めたのを見て、晩秋すらもう終わりかけていることを悟った。どうりで日暮れが早い。冷えた手先を擦り合わせながら自嘲した。ここに佇んでいる理由の下らなさに我ながら馬鹿馬鹿しくなったのだった。けれど、失望などしなかった。そこまで自分を高く評価するつもりなんてなかった。いずれ来る濃い夜の闇はわたしの醜さすら覆い隠してくれるだろう。

 不意に境内の砂利を踏む音が響いて、思わず肩を跳ねさせた。物陰からそっと見遣ると、人影が見えた。ほの明るい懐中電灯の灯りに陵の横顔が照らされている。あんなに見たかったはずの表情は残念ながら暗闇に紛れてほとんど見えない。自分の見通しの甘さに呆れながら、それでも目を凝らした。彼はというと、何度も辺りを見回している。きっと待ち人を探しているのだろう。今まで、わたしが彼より遅くこの場に来たことはなかったから。何故かその姿を見ていると、満たされていくものがあった。けれど、そんな気分は次の瞬間には消えていった。陵はわたしがいないことを確認すると、一声もあげることなく、あっさりと石段に腰を下ろして持参した夕飯を食べ始めたからだ。その執着のなさに何故か心が乱れた。

 その時、はっきりと気がついた。彼の取り乱す姿が見たかったのだと。その有様だけがわたしを満足させる。だってそのんな姿、青だって一度も見せてくれなかった。わたしは気がつくと掌を呆然と眺めていた。この手を握っていてくれる何かがずっと欲しかったのだ。結局、子は母に酷く似てしまった。執着という悪魔に捕まってしまった。わたしももう、無欲さを装うことはできない。

 物陰から出て陵の方に大股に向かった。足音に陵が振り返った瞬間、ひどい後悔を感じた。その表情があまりにも嬉しそうで、そして切なかったから。

 「夕凪、おかえり」

 陵は何も尋ねず、ただそう言って夕飯の入った容器と箸を手渡してきた。

 「……」

 無意識に謝りそうになったけれど、なぜか「ごめん」という短い言葉を押し出すことができなかった。指先に染みる暖かさを感じながら、処理しきれない後ろめたさを感じていた。それは初めての感情だった。こんなにも不快なものなら知らずに済んだほうがよかった。ぐちゃぐちゃに揺さぶられながら食べたチキンライスの味は分からなかった。終始、幼なじみの表情が気になった。陵とは結局一度も目が合わなかった。いや。目があったとしても彼は微笑むだけで何ら特別な反応を示さなかった。わたしには何の関心もないように穏やかに優しいままただそこにいた。

 気がつくと、夕食をいつのまにか食べ終えていた。わたしの手からは知らない間に空の器はなくなり、傍を見ると既に陵は後片付けを終えていた。いつもならば、もうすぐ分かれて帰路に着く頃合いだった。何かを言わなければと思った。けれどその「何か」の正体は一向見えないままだった。

 「じゃあ、明日も来るから」

 そう微笑みかけて、陵が立ちあがろうとした瞬間、言葉が転がり出た。

 「まって…!」

 「え?」

 真っ白だった頭の中が元に戻ると、いつのまにか陵の袖を指先で掴んでいた。焦って手放してから、俯く。陵と目を合わせる勇気はなかった。

 「明日は、わたしもここにいるようにする…ごめん」

 目を瞑ったまま、暗闇に向かって殆ど言い訳のように言葉を連ねた。痛いほど強く瞼を擦り合わせたせいか、目の端に僅かに水分が滲み出すのを感じた。「違う」という声が脳内では響いていた。こんなことを言いたかったわけじゃない。許しを請いたいわけでもない。ただ、このまま彼を行かせたくない一心だった。それなのに引き留める術が分からなかった。そして、明日の再会を約束することにどれほどの価値があるのかすらも分からなかった。それでも約束したのは、わたしに差し出せる価値あるものがそれしかなかったからに過ぎなかった。そうしてその時やっと気がついた。わたしは物心ついてから今まで与えられることはあっても与えることはなかった。それはきっと価値あるものを今まで持ったことがなかったから。わたしの掌はいつも空だった。奪われる前に捨ててきたからだ。祖母という唯一の例外を除いて。陵の返答を待つ間、喉が苦しいほど締め付けられた。恐ろしく時間がゆっくりと流れてゆく。この苦痛が他者を試そうとした傲慢さの代償なのだろうか。口の中には経験したことのない不味い味が広がった。それは、逃げ場のない責め苦の味だった。

 「わかった。また明日」

 陵はそれだけ告げて踵を返した。その声は常より幾分低く、抑揚に乏しい。そこにわたしは今日初めて彼の感情を見た気がした。足取りが遠ざかってゆく気配を感じて顔を上げると、眼前には既に闇が満ちていた。わたしはしばしそのまま、交わした約束の重みを噛み締めていた。なぜこんなにも特別なことをした気になるのか、不思議だった。約束なんてただの言葉に過ぎないはずなのに。

 

 

 

***

 

 

小説・「海のなか」(43)へと続く。

 

次話はこちら。

 

 

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