小説・「海のなか」(44)
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次の日も、その次の日も夕凪は俺を待っていた。俺はその姿を見るたび、何か責められているように感じた。そしてようやく気がついた。夕凪がいなかったあの日、自分が傷ついていたということに。そして傷を持て余し、憤っていたということに。
俺は夕凪を赦したかった。もともと怒るのは得意ではない。そういえば今までまともに怒ったことがない。自身の怒りにすら遅れて気がつくのだから、当然うまい怒り方もわからなければ、相手を赦す方法も知らなかった。そもそも、赦すなんて傲慢な響きは好きじゃない。他の相応しい言葉を知らないだけで。
だからなおさら、どんな顔で夕凪と接すればいいのかまるでわからない。気まずいなら夕凪に会わなければいいだけだ。わかっていても、夕凪に同じことをやり返す気にはなれない。そんなことをしても自分が辛くなるだけだと理解していたから。いっそのこと、夕凪が来なければとも思った。あんなに会いたがったくせに。それでもやっぱり、会えば心が動く。喜怒哀楽は相変わらずたった一人の言動に揺らいでしまう。それを知られたくなくて、外に漏らさないよう必死だった。
情けない内面を隠すことばかりに夢中で、この時期の会話の内容をはっきりと思い出せるとは言い難い。ほんとうに戻れるのなら戻りたいくらいに悔しいが。けれどたったひとつだけ覚えている。なぜ印象に残っているのかは明らかで、翌日の夕凪に大きな変化が訪れたからだった。あの日以降夕凪はどこか吹っ切れたような明るさを発するようになった。そしてそんな夕凪の姿を、俺は初めて目の当たりにしたのだった。
あの日は、穏やかな雨が降っていた。だからお互い、相手がその場にいるだろうという確信はなかったはずだ。夕凪がいなかったあの日以来、俺が相手を待つことはなかった。雨を避けるため、その日は賽銭箱の横に腰を下ろして各々食事した。お互いが持ってきた傘から雨粒が社殿の乾いた木目を濡らしていたことが妙に印象に残っている。濡れて変わっていく木の色に、薄らと罪悪感を覚えていたせいかもしれない。今から考えると、あんなに雨が降っているのだから、渡すだけ渡して帰って食べるのが普通、という気もする。だが、不思議とそういう流れにはならなかった。
彼女が粛々と約束を果たす横で、俺はどうして良いのか相変わらずわからないまま、その日も黙々と夕飯をつついていた。これではまるで俺が悪いことでもしたかのようじゃないか。いや。この際その方が気が楽だ。俺が耐えれば、俺が責められていれば丸く収まるのであれば、それが一番手っ取り早い。もうなんでもいいから楽になりたかった。間断ない雨音も気まずさを加速させた。ずっと降り込める雨は薄い帷に覆われるような錯覚を生じさせる。あたりには俺たちしかいない、そんな感覚が芽生えた。
ただでさえ少なかった会話はあの日を境に更に目減りしていた。以前どう話していたのかすら思い出せない。そんな風に無駄な思考を巡らせつつ、再び堪え難さを飲み下していると久々に夕凪が口火を切った。
「ねえ、誰かに期待したことってある?」
あまりに唐突で、俺は食べ物を口に含んだ状態で固まり、挙句おかしな声を出す羽目になった。
「んあ?」
だが、次の瞬間にはこれがこの地獄の空気を押し流すチャンスだと悟った。これを逃してはならない。逸る心を抑えて俺は口を開いた。
「もちろん、そりゃああるよ」
「じゃあ、反対に期待されることも、ある?」
「ああ」
すると、夕凪はしばらくの間言い淀み、やがて意を決したように口を開いた。
「誰かに期待するのって怖くないの」
「…怖いよ。けど、期待しなきゃ誰とも関係を持つなんて無理だろ」
「でも怖い」
短くこぼして両腕に夕凪は顔を埋めた。夜風に靡いた髪がかすかな光を反射している。
「なら、どっちかだ。誰とも関わらないか。傷つくの込みで踏み込むか。いいことだけ起こるなんて、あり得ない。だって相手も自分もお互いのためだけになんて生きられないだろ?」
言い切ったあとはしばらく間が空いた。短い沈黙だったが、俺は既に後悔し始めていた。何かまずいことでも言っただろうか。
「陵って案外冷たいこと言うんだね。そういうこと、言わなそうなのに」
そう言われて、虚を突かれた気分になった。確かにいつもは言わない領域のことを今は躊躇いもなく言葉にしていた。ここまで羞恥心を捨て、明け透けに心の内を曝け出したのは初めてだった。
「俺は人を信じてるんじゃない。信じたいだけだ。誰かを信じるのは、裏切られても後悔しないときだけ。だからさ、ほんとは信じてないのかもな」
「ふうん…私もそうしてみようかな」
それは独り言のようだった。
「じゃあ俺、そろそろ帰るよ」
べらべらと語りすぎたのが急に気恥ずかしくなって、俺はそそくさと腰を上げた。傘を開く音がやけに大きく響いた。背を向けた時、また声がした。
「陵、これだけ答えて」
振り向くと、手に持った荷物がガサっと粗雑な音を立てた。夕凪の表情は傘に半分隠れてよく見えなかった。
「誰かに期待するってことはさ、その誰かを信じてるってことなの?」
「俺ならそうだよ。でも夕凪。信じてるのはもしかしたら誰か自身じゃないのかも」
「どういうこと?」
「みんなお互いに幻想を抱きあってる。俺たちがら信じるのは結局、虚像なのさ」
「虚しいね」
「たまに思うよ。俺は俺の思い通りに動いているのか、それとも誰かの期待に沿って生きているのか、って」
「よくわかんないな」
「誰かの願いを叶えるってそういうことじゃないか?自分を失うこと。それが時々、気持ちよくもあり、苦しくもある」
「夕凪は、誰かの願いを叶えたいの?」
俺はとうとう尋ねたかったことを口にしてしまった。この問いかけは何かを明らかにしてしまうようで、ずっと怖かった。
「…さあ。でも幸せにしたい人は、いるみたい」
「他人事みたいだな、なんか」
「まだ、よくわからないんだ」
夕凪はその言葉を最後に立ち上がると、今度は未練なく去って行った。水を弾く音が遠ざかってしばらくしても、俺は動けなかった。まるで根でも生えたように。
「幸せにしたい…」
いつの間にか復唱していた。声は小さすぎて雨音に揉まれて消えていく。そのワードは俺の知る夕凪なら決して使わないはずのものだった。夕凪は昔から、他者へ与えることには興味がない。そのはずだった。その夜わかった確かなことは、夕凪がいつの間にか大きく変わった、ということだった。俺を置いて、俺の知らない場所で、俺の知らない誰かと。
「変えたのは、誰だ」
口にしてからようやく、さっき本当に尋ねたかったことはこれだったのだ、と理解した。愚かで鈍い俺らしい。口の端には歪んだ嘲笑が漏れた。
独白のような問いかけには、もちろん応えはない。求めても、いない。本当は夕凪が変わり始めていることくらい、とっくにわかっていた。海に向かって叫ぶ姿を見たあの時から。あの日も雨が降っていた。だからだろうか。彼女の剥き出しの横顔が厭に生々しく思い出された。俺はいつでも彼女の横顔や後ろ姿ばかり見つめている気がする。
俺は彼女を変えたかったのだろうか。
「…いや。違うな」
もしも夕凪が俺に変えられるような人間なら。俺はもうきっと、二度とこの場所を訪れることはないだろう。強く、そんな予感がした。つまらない奴に影響される夕凪なんて、いらない。
いつのまに、こんなに身勝手になったんだろう。我ながら呆れる程だった。でも仕方ないだろう。俺の手なんか、届かない方がいい。
深いため息と共に、雨の中に踏み出した。雨傘を叩く軽い音はやはりあの日を思わせた。彼女と俺との距離はあの日からなんら変わっていないのだろう。そうでなくては、困る。今更自分の厄介な癖を思い知らされるとは思ってもみなかった。夕凪と関わるとは、虚しさを甘受することだ。だが、俺はそれすら望むべきではなかったのかもしれない。これ以上欲張れば、俺は夕凪を自ら手放すことになりかねないのだから。
「嫌になるなぁ」
欲深い呟きは雨に溶けて流されていった。一番厄介なのは、やはり自分自身のようだった。
***
海のなか(45)へとつづく。