KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

連続小説・「アキラの呪い」(1)

 

 

 

第一章 「水無瀬晶の弟」

 

 俺の姉について話しておきたい。
 水無瀬晶は厭なやつだ。無神経で傍若無人でニコリとも笑わない。性悪な女だ。
 姉といっても、血は繋がっちゃいないんだけど。ただうちの母親とあいつの父親が結婚しただけ。よくある話だ。晶と俺とは血が繋がっていない。ーーーそれを俺は喜ぶべきなのかもしれない。あんなに生きづらそうにしてる義姉を見ていると余計に。厄介な性質を、もしも俺も受け継いでいたらと思うとゾッとするし。けど、一方では思うんだ。もしも血が繋がっていたらと。血縁なら彼女を理解できるとは思わない。そんなもんは夢物語だ。親父とあいつの関係を見ても、それは明らかだろう。血の繋がりは単に断ちがたいだけで、問題解決してくれるわけじゃない。むしろ問題を複雑化させてしまう。けれど、その厄介さこそが、俺の望みを叶えてくれるのかもしれない。晶が拒絶しようとも拒みきれない何か。それをずっと欲していた。もしかしたら同じ苗字になったあの日からずっと。家族ならあいつは俺を切り離せない。少なくともそんなふうに、淡い希望を抱くことくらいはできる。よく血は水よりも濃いって言うじゃないか。そうでもなきゃ、姉はいずれ全てを手放す。そんな気がする。彼女の荒野に立っていられるのは最期まで彼女自身だけだ。昔から晶はそういうやつだった。本質的に人嫌いなんだ。全てをぶっ壊したいと思ってる。だから俺は息を潜めるしかない。これ以上彼女の世界から排除されないように。ただ見ることすら、禁じられたとしても。
 そうさ。俺はあいつを手放せない。
 そんなこと、もうとっくに分かってた。
 だからかな、あいつの手首に切り傷を見つけた時に、全てがぶっ飛んじまったのは。予感はしてたんだ。けど、止められなかったんだ。
 おかしくなりそうさ、ほんとうに。


***


俺は躊躇いもなく呼び鈴を押した。
電子音が途切れるのも待てず、立て続けに指を押しつける。うるさいほど呼び出し音が鳴っているはずなのに、一向に相手が出てくる気配はない。住人が不在でないことは事前に知っていた。だが、居留守にしても静かすぎる。
 「姉さん!」
 「開けてくれ!俺だ、歩!」
 自分の大声も聞こえないほど体内では心臓がうるさい。これだけ大きな声を出しても隣部屋の住人が反応しないのは外出しているからだろう。そう決めうちして、俺はしばらくドアを叩きまくった。それでも部屋からは反応がない。悪い予感が耐えがたい苦痛と共に腹から迫り上がってくる。俺はとうとう諦めてチノパンのポケットに手を伸ばした。
 「晶、開けるからな」
 後のことを考えると恐ろしい行為だったが、今は構わない。音を立ててドアが開くと、かすかに水音がする。ただそれだけなのに戦慄した。悪い想像がはっきりと裏付けられてしまう気がして。靴を脱ぎ捨てて浴室に駆け込むと床に投げ出された素足が見え、続いてぐったりと浴槽に体を預ける義姉の姿が露わになった。
 「晶!」
 駆け寄ると、その手首は横に一筋切り裂かれており、浴槽に満たされた水に浸っている。バスダブからはとっくに水が溢れかえり、俺たちを容赦なく水浸しにした。流れた血はこんな時なのに、水中でゆったりと赤い曲線を描いていた。彼女を抱き起こし、もう一度名前を叫ぶが応えはない。目覚めない晶を見て、俺は自分の顔が歪むのを感じた。

 ーーーーーー俺の姉が自殺未遂をした。

 彼女の口に耳を当てると弱々しい呼吸を繰り返していた。スマホを取り出すと、119番を叩き込み耳に当てた。コール音が重なる度永遠のように感じられる。受話器が上がると共に告げた。
「救急です。今から言う住所に救急車をお願いします」
 晶を抱き抱えた腕はずっと、震えていた。手の力を弱めることができない。彼女の肌に傷をつけたくはないのに。ひどい気分で浅黒い肌に食い込む太い指を、ただ呆然と見つめる。嫌になるほど冷静な自分の声が浴室に響いた。

***


 病院に搬送された晶は間一髪で助かった。後十分遅れていたら、この世に姉はいなかっただろうと聞かされ、複雑な気分になった。処置を一通り終えた後、医者は命に別状はないと言い残し、ひとまず退出していった。
 かなり深刻な状態だったはずなのに、晶は医者の予測よりもずっと早く目覚めた。それこそ、搬送された日の夜には意識を取り戻したのだ。つきっきりで晶のそばにいた俺は気が休まらず、一晩中まんじりともしなかった。だから姉の目覚めの瞬間に立ち会ったのは、もちろん他でもない俺だった。
 覚醒して開口一番、晶はこう言い放った。
短い一言には強烈な怒りが濃縮され、恐ろしいほどだった。吐き出された声は地を這う低音で突き刺さる。
 「…よくも邪魔してくれたわね」
 そしてこう続けた。
 「父さんと義母さんには言わないで」
 「言ったら?」
  顔を上げた晶と一瞬の間に視線が絡み合う。美しい猫目がギラギラと危なげに光っていた。
 「私には弟なんていなかった、ってことになるでしょうね」
 それはどんな脅し文句よりも有効だった。両親に事実を告げようものなら、その瞬間から俺の存在は未来永劫、徹底的に無視されることだろう。晶は有言実行を旨とする。他人に興味がないくせに勘だけは鋭い。無意識に1番の弱点を突くようなところがあった。
 すぐに返答しない俺に焦れて、晶は胸倉を掴んだ。体が引き寄せられ、互いの鼻が触れそうな距離になる。
 「いいから!早く言いなさい。あんたは何も見なかった。私はただケガをしただけだって」
 本当は抗うこともできた。服を掴んだその手にはまるで力が入っていなかったから。姉の手を見ると微かに震えている。そこから繋がる手首には幾重にも包帯が巻かれていた。どれだけ自分が痛々しい姿をしているのか、彼女は分かっているのだろうか。
 強がる姉を目の当たりにするうち、無意識に手が伸びていた。わずかに触れた左肩にはうっすらと青痣が残っている。俺がつけた傷だった。
 「もう言ったとは思わないのか」
 「あんたは言わないでしょう。そういう奴だから」
 まるで信頼しているかのような口ぶりに酔いそうになる。本当は分かっている。これは信頼じゃない。彼女はただ、俺を利用しようと手を尽くしているに過ぎない。彼女がいう通り、この展開は予想していたので驚きすらなかった。
 「そうだな。言ってないよ、まだ」
 「なら…!」
 「いいよ、言わないでおく。そのかわり条件がある」
 「は?」
 予想外の展開に晶は硬直した。姉を翻弄する気分は悪くないものだった。たまにはお前もみっともなく狼狽えてみるといい。心の中で俺は毒づいた。
 「俺と会ってくれ。週に一回、姉さん家で」
 「…なにそれ」
 理解不能な生き物を見るような目で見られながら、再び口を開く。
 「自殺しようとしたんだ、それくらい許可してくれなきゃな。生存確認だよ」
 「また邪魔する気なの…」
 うんざりした声でショートカットを掻き上げて、晶は天井を仰いだ。
 「俺はどっちでもいいよ。でもどちらが面倒か、姉さんにはもう分かってるはずだ」
 「あんたが義理だとしても弟なんて。呪われてるわ」
それは嫌々ながらの降参の印だった。
 「性格歪んでるんじゃない?」
 「性格が終わってる姉さんには言われたくない」
 契約成立に俺は釣り上がる口角を抑えられなかった。嫌がる女の顔を見てここまで満たされるのは初めてのことだった。あるいはそれは晶の瞳が俺を映しているからだったのかもしれない。

***

 

「アキラの呪い」(2)へとつづく。