KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説・海のなか(3)

前話はこちら。

 

 

kuromimi.hatenablog.com

f:id:KUROMIMI:20200216221401j:image

         ***

陵からメールがあったのは、新学期が始まって数日が経った日の夜だった。それは陵からの初めてのメールだった。海に行く前に陵とはメールアドレスを交換していたけれど、メールのやりとり自体はしたことが無かった。短いメールだった。

「愛花へ。久しぶり。夕凪、昨日退院して明日から学校来るらしいです。一応知らせといた方がいいかと思って。昨日退院前に会いにいってみたけど元気そうだったよ」

「夕凪」という名前が木のささくれのように触れられたくない場所を刺激する。あたしが思いだせる夕凪の顔は俯いている横顔だけだ。もう夕凪と知り合って何ヶ月かが経とうとしているのにあたしは未だに夕凪の顔を真正面から見たことがない。

 特にこれといった特徴のない女の子。大人しくて地味な娘。あの時まではそれが夕凪の印象だった。夕凪がまだ目覚める前、一度だけお見舞いに行った。実はこのタイミングはわざとだった。もしも夕凪が目覚めていたら「大丈夫?」「大変だったね」以上の何を言えばいいのかわからない。いつもなら、こんなどうでもいいこと悩むような性格じゃないのに。その場でなんとかする力くらいはあるつもりだ。

 でも。あの子にとってのあたしはなんだろうと考え始めると、もう抜け出せなくなってしまった。クラスメイトではない。友達ではない。一対一で話したこともないのに友達なんて言えない。けれどただの知り合いというには関わりすぎている。そんな感じ。

 今でも病室で見た夕凪の寝顔をありありと思い出せる。美しかった。ゾッとするほど。ひとひらの血の気さえない白い肌が人間のものではないようだった。幽鬼のように透けて見える白さは異様な存在感を放っていた。侵しがたい何かを纏って横たわる彼女に、ただ恐れを感じた。直感したからだ。

 夕凪が「変わった」ということを。

 何かが決定的に変質し、あたしと彼女の世界は明確に隔たったと感じた。

 お見舞いに行った時は夕凪のお母さんが傍に付き添っていた。お母さんが少し陰りのある笑顔でこう言ったのを忘れられない。

「心配してくれてありがとう。あの状態で怪我ひとつなかったのは本当に奇跡だったとお医者さんからも言われたのよ。本当によかったわ。あとは目覚めてくれさえすればいいんだけれどね…」

 違う、ともう少しで言いそうになるのを堪えた。なぜ気が付かないのか。こんなにも違っているのに。こんなにも、身の毛がよだつのに。

 「…早く、目が覚めるといいですね」

 言いながらもう一度注意深く母の様子を観察してみた。何かを隠しているような様子はないように見える。やはり娘の変化に気がついていないのか。それとも、あたしがおかしいのか。夕凪が変化したと思っているあたしの感覚こそが間違いなのか。

 実のところ全くと言っていいほど自分の直感を疑う気にならなかった。なぜか昔から、あたしのこういう直感は外れたことがなかった。

 とにかく一刻も早くこの場を立ち去ってしまいたかった。長く居座ればきっと毒されてしまう。この気の狂いそうなほどの美しさと清らかさに。強い畏れは同時に深い陶酔を呼び寄せる。蝕まれてしまう。

「本当に来てくれてありがとう」

 目の前の光景に捕われて立ち尽くすあたしの態度をどう受け取ったのか、両手はいつのまにか夕凪の母の手に包み込まれていた。じっとりとした暖かさが無遠慮に入り込んでくる。一瞬何が起こったのか理解できなかった。動揺を隠せない。目の前で女の紅をひいた口がいまにも動こうとしていた。ああ、もう次につづく言葉がわかる。

「あのっ、そろそろ失礼します。早く元気になるといいですね」

言葉が出で来る前に断ち切った。ほとんど振り払うように手を離すと、逃げるように病室を後にした。逃すまいとするような、すがるように見境なく粘着質な夕凪の母の気配がまとわりついていた。見てはいけない他人の事情を垣間見てしまった。知らない方が幸せだった。あの時に感じた後味の悪さをいつまでも引きずっている。今でもまだ。

 窓辺から流れ込んでくる夜気の意外な冷たさが不意に意識を現在へと引き戻した。どこかで虫が夏の名残を惜しむように鳴いていた。ブルっと震えが来た。体が冷えたのかもしれない。けれどもう少しだけ風を感じていたかった。庭先はまだ湿り気のある緑の匂いと潮の香りが混ざり合って独特の香気に満ちていた。夏が終わろうとしている。あたしの好きな季節がまた去っていく。夏の芳しさを胸いっぱいに吸い込むと切ないほど幸せだった。でも、やっぱり誤魔化せない。心地よさで忌まわしいものを遠ざけようとしている。

 陵は気がついているのだろうか。夕凪の変化に。ーーーいや。気がついていないのだろう。多分。文面に再び目を落しながら思った。気がついていたらこんな文章は打てない気がする。改めて眺めるとそっけない文章だ。いつも愛想がいい陵らしくないような気もする。男子の文章なんてこんなものなんだろうか。空白が無言の拒絶のようにも思えてきて、捉え所のない不安があたしをとらえた。誰かに対してこんな気持ちになるのなんて初めてだ。こんな気持ちになってしまうのはやっぱりあの日の陵を見てしまったからだろう。

 脳裏には夕凪が溺れた日の陵があまりにも鮮明に焼き付いていた。一番最初に夕凪が溺れたと気がついたのは陵だった。気がつくや否や、陵は一目散に近くの交番に駆け込み救援を求めた。異常なほどの必死さだった。盗み見た横顔の力強さが目を惹いて、じっと見入ってしまった。

 あたしの知る陵は感情をあまり表に出す少年ではなかった。みんなに優しいし愛想もいい。けれどいつも誰にでも一線引いていて、決してタガを外すことなどない。だからこそあの日は異常だった。あんな情熱が潜んでいたなんて、知らなかった。まるで硬い外殻を破り捨て、まったくの別人が中から現れたかのような。あの時、あたしは陵の本性を目の当たりにしたに違いなかった。

 あの日からどこかで考えてしまう。陵の執着の矛先があたしだったなら。彼が必死になるのがあたしだったら、なんて。

 夕凪の眠っている様子がまた頭の片隅で蘇った。夕凪が変わってしまったと陵が知ったなら。一体どんな顔をするだろう。

 考えるだけで恐ろしいような気分だった。もっともそんな瞬間が来ることはきっとないだろうけれど。いつも無表情な夕凪の顔を思い出す。喜怒哀楽に乏しい生白い顔を。知らない間に募る嫌悪はあたしを嫌な生き物に変化させてしまう。

「あの子が嫌い…」

夕凪が嫌い。

 呟いてみたけれど、違う気がした。自分の中には言葉がない。怖い、といった方が正確だろうか。いや、これも違う…。気の遠くなる繰り返しはいつまでも続いて憂鬱さが沈み込む。胸の底に吐き出せない泥が溜まっていく。もうすぐ夕凪が学校に来る。たったそれだけのことで心がざわついてしまう。

 もうすぐあたしの季節が終わる。夏は陰り秋を通り過ぎてやがて冬がやってくる。冬は嫌いだ。あたしから活力を奪っていく。むかしからそうだ。

 また体の奥から震えがくる。剥き出しの二の腕に触れると冷えて鳥肌が立っている。秋はすぐそこまで迫っている。無視しきれない。

 窓を閉めると室内は無音になる。葉の擦れる音も虫の声も全てが遠ざかる。耳鳴りがしそうなほどの静けさのせいか不安はだんだん膨らむようだった。

 黒い窓ガラスに自分の顔が映っていた。他人を蔑む女の顔は醜い。深く沈んだ泥はまだ吐き出されないまま、ずっとあたしを不快にさせる。いつかそのまま腐ってしまうのかもしれない。

明日が来なければいいのに。

明日が来たらあたしはもっと嫌なやつになってしまうだろう。

 夏の終わりを惜しみながら、あたしは予感した。あたしの季節が終わる頃、何かが起こってしまうだろうと。それは願っても外れそうもない、たしかな予感だった。

 

(第二章おわり。)

 

 

次話はこちら。

 

kuromimi.hatenablog.com