KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説・海のなか(2)

前話はこちら。

 

kuromimi.hatenablog.com

 

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第二章   嵐の日には

 

  わたしが浜辺で発見されたその日から予報外れに天気が崩れ、退院し学校に行く頃には嵐が街を襲った。陸に帰ってきてからずっと、とめどない雨音がBGMのように耳元で囁いている。

 雨は好きだった。雨はわたしを満たしてくれる。何も考えず、ただ雨を感じることだけにすべての感覚を使う。よく雨が降っている日には、窓を開けたままにして外を眺めていた。その方が雨のすべてを受け取ることができるから。肌に纏う湿り気。水が弾ける音。どこかで雷が重たい音を鳴らしている。すべての事柄から無関係に、小さな雨粒が誰も気がつかない暴力のようにわたしを侵食してゆく。この感覚に身を浸す時、わたしはとても贅沢な気分になる。なぜかはよくわからないけれど。

   わたしが登校し始めて三日目の日は特に重たい雨が降った。台風が急接近したせいだ。

   その日も窓から水浸しの校庭を眺めていた。わたしの席は窓際の一番後ろにある。連日の雨で、グラウンドは巨大な一つの水溜りのようになっていた。海から帰ってきてから、わたしはどこかおかしかった。雨を見つめても、あの恍惚が降りてこない。代わりに幾度も過ぎるものがあった。青のことだ。濃い雨の匂いは海を連想させた。暗い海に満ちた、恐れと背中合わせの深い安堵。わたしはもう一度あの不思議な少年に会いたかった。会えばきっと、何かが手に入るはずだった。

  そんな風に青のことを考えていると、左足の痣が疼く気がした。今のところ痣が薄くなる兆しはなかった。濃くなることもないが、なくなることもない。やはり、この痣はあの手に掴まれた跡なのだろうか。痣は丁度人の手のような形をしていた。わたしは毎日痣の形を指先で辿った。痣を見るたび溺れた時の恐怖が甦り、体が震えるのにやめられない。痺れるような恐れと快楽とがわたしを虜にしていた。わたしは机の下にある左足にまた目をやる。もう痣を確認したくてたまらなかった。休み時間の教室は騒がしい。わたしは完全に意識の外だ。暗示をかけようとするひそやかな声が唆す。いけないことをする時のように胸が高まった。ひとつ息を吐き出すと、わたしはそっと机の下に手を伸ばして黒いプリーツを持ち上げる。少しずつ白い肌が露わになっていく。ああ。もう見える、と思ったその時、校内放送がかかった。わたしは慌ててスカートから手を離して膝の上に戻す。途中、手を机にしたたかぶつけて机が派手な音を立てた。それに被せるように古いスピーカーから不明瞭な音声が流れはじめた。

『現在、大雨洪水警報が発令されました。本日は四時間目までで一斉下校とします。生徒のみなさんは速やかに各自の教室に戻り、帰り支度に取り掛かってください。繰り返します・・・』

   放送を聞いた途端、クラスメイトたちが一気に沸き立つ。やはりわたしの方を見ている人はいないようだ。ほっとしている反面、落胆もしていた。わたしは今、はじめて秘密を持っているのだ。

   帰りの会が始まるまで、あと十分はかかりそうだった。わたしは帰りの会の開始を待たずに下校することにした。体の奥の火照りはまだ治らなかった。とてもこのままではいられそうにない。そっと息を凝らして教室を後にした。やはり、わたしに気がつく人は誰もいなかった。

 


***

 


     わたしの通学路は船着場横の遊歩道を通るようにできている。嵐の日には海に近づいてはいけない。海辺の町に住む者にとっては当然の事だった。わたしは目の前でうねる波を見つめる。わかっていたはずなのに、気がつくと船着場に立っていた。わたしはどうやら、とてつもなく渇いているようだった。飢えと渇きの区別がつかない。鳴り止まないサイレンのような雨音が傘の向こう側から聞こえる。雨の音以外は何も聞こえなかった。目の前の光景が無声映画のようだ。深呼吸すると湿った潮の香りが全身を巡った。それだけで鳥肌の立つような感覚が背筋を走る。わたしのどこかが目覚めようとしていた。あと足りないのは、音だけ。傘は水の重さを乗せた分だけ重くなっていく。雨がわたしを押し込めようとしている。何かが喉の奥からせり上がってくる。わたしははき出すぎりぎりでそれを呑み込むと、また一歩海の縁へと足を踏み出す。後押しするようにひときわ強い風吹き抜けていった。すると、あれほど堅く握っていたはずの傘が手からするりとこぼれ落ちた。瞬間、顔に容赦無く豪雨が叩きつけた。まるで弾丸のようだ。わたしは咄嗟に目をかたく瞑り、両腕で顔を庇う。また、痛いほど強く嵐が吹き荒れる。それと同時にさっきとは比べものにならないほど濃密な海の匂いがわたしを覆った。与えられた衝撃に思わず目を見開くと、目の前で大波が押し寄せて砕けた。怪物のように襲いかかる気配を全身で受け止めながら、身震いする。瞬きする隙さえ惜しかった。今眼前にある全てをもっと深く、強く、刻み込みたかった。不意に、口に生臭い味が広がる。ああ、わたしはこの味を知っている。あの日溺れる寸前に味わった喉を焼く海の味。

「あお」

わたしの口は動く。

「青」

 彼の名を口にするのにあわせて、波はどんどん高くなる。嵐はもうわたし自身だった。一歩ずつ海へと近づいていく。危うい予感に痺れるような快感を覚える。あと一歩、あと一歩と誰かが急かすように囃し立てる。また、喉を破るようにして叫ぶ。

「青!」

 またわたしは堕ちていく。あの場所まで。青の待つ海の底まで。あと一歩踏み出せば、そこはもう海の中だった。最後の一歩を踏み出そうとした瞬間、何かがわたしを邪魔した。誰かが強い力でわたしの左手を摑んでいる。そのまま力任せに後退させられると、ドスン、とぶつかる。背中から他人の体温が染みこんでくる。黒い学生服の向こう側では心臓が跳ねていた。気がつくとわたしの頭上には傘が差し出されている。再び雨の音が戻ってきて耳を塞いだ。わたしは反射的に手を振り払った。早くしないと奪われる。あの素晴らしいもの全て。

 「夕凪」

 その時、すぐ近くで低い声がした。また、手を摑まれる。今度は振り払うことができないほど強く。わたしははっとして顔を上げる。そこにいたのは陵だった。雨音の中で陵の声だけがはっきり聞こえる。幼なじみの顔は傘の影になってよく見えない。黒い傘から染み出した闇が陵の顔を隠していた。彼がまたわたしの名前を呼ぶ。

「夕凪、帰ろう」

 その声を聞いた瞬間、体中の熱が一気に冷めていくのを感じた。その代わりに陵の触れているところだけが脈打つように痛んだ。彼の手は熱かった。いつの間にかわたしの手は感覚を失う寸前まで凍えていた。雨水が身体から滴るたび、わたしの心は冷めていき、耳の中の雨音はますます大きくなっていった。あの熱の名残をなんとか手繰り寄せようとする。あんなにも圧倒的で素晴らしかったのに。こんなにもあっけない。喪失感に心が追い付かない。もう一度わたしを支配して欲しい。そうしたら、今度は完璧に手に入れてみせるのに。

するとその時、左手を摑む手に更に力が込められた。骨の軋むような鈍い痛みが走った。

「痛っ」

わたしが声を漏らすと、陵は驚いたように手を離した。握られた手はうっすらと赤くなっていた。手が離れたあともまだ、熱く痺れている。それを見た陵は沈んだ声で

「・・・・・・ごめん」

   と言い、それからまた「帰ろう」と促していつの間にか拾い上げたわたしの傘をこちらにさしかけた。わたしの中の熱はもうすっかり冷めていた。

  帰り道、陵は何も話さなかった。ただ淡々と歩き続けるだけだった。もっとも、そのほうが好都合だった。全身に満ちる雨の気配を感じながら歩きたかった。けれど、頭の片隅はどこまでも冷えていた。こんなものはただの代わりにしかならない。自分にまとわりついた海の生臭さが一層わたしの思いを煽るようだった。いま波打ち際に自分が立っていないことがひどく不自然に思えた。その一方でわたしは陵の手の温かさを溶かすように味わっていた。掴まれた手首の赤みはすでに失せ、感覚すら遠く感じる。手首の感覚を手繰っていくと、まるで幸福と虚無を繰り返し体験しているかのようで心が捩じ切れるようだった。陵が何処に帰って行くのか分からなかった。わたしはただ頼りない足取りで陵について歩いた。これから帰るのが、わたしの家でも陵の家でもそれ以外でも同じことだった。わたしにとって特別な場所は海の中以外になかった。全身が激しい雨に濡れ、衣服が貼り付いていたけれど、不快だとも寒いとも思わなかった。むしろ好ましいとすら感じていた。自分から漂う海の気配に耳を澄ませていると、海を抱いているような気になった。それを慰めに海から遠ざかっていった。

結局陵は家まで送ってくれた。陵と分かれて玄関に入っていくとき、何か言わなくてはならないことがある気がした。けれど結局それが何なのかわかるよりはやく、ドアが閉じる音がした。ドアに背中を預けて自分が海岸で見つけられたときのことをふと想像する。あの時も今のように海を纏っていたはずだった。また潮の香りを吸い込んで、海に棲む少年の名をもう一度そっと口にした。吐く息は熱く、湿っていた。

 


***

 


  教室の隅からがたん、と音がした。騒がしい教室の中でその音だけが特別耳に響いた。何気なく音のした方向を振り向くと、一番後ろの席に目がいった。夕凪が珍しく表情を崩して左手をさすっている。夕凪に無表情の仮面を脱がせたのは一体何だったのか。俺には想像もつかない。

「おい、陵?」と呼びかけられて長谷川の方へと向き直るが、正直話なんか耳に入らなかった。夕凪のせいだ。失踪したあの日からあの子はやたらと俺の意識に入り込んできた。

    教室内は今しがたあった校内放送のせいで騒々しい。今日は台風の影響で半日休みになるらしい。俺は夕凪を乱したのがこの放送ならいい、とほとんど無自覚に考える。彼女が表情を乱したところをほとんど見たことがない。十年来の付き合いにもかかわらず、俺たちの関わりは希薄といってよかった。きっとクラスの大半のやつは俺と夕凪が幼馴染であることすら知りもしないだろう。夕凪は決して自分から関わりを求めない。その態度が俺には周り全てを拒絶しているように思えてならない。俺はいつの間にか彼女に容易く話しかけられなくなっていた。

   ふたたび視線を夕凪に戻すと、もう彼女は席にいなかった。俺は慌てて教室を見回す。すると、後ろのドアに夕凪の色素の薄い髪を見つけた。思わずあっと声が漏れた。彼女の背中は一瞬見えただけで瞬く間にドアの向こうへ消えてしまう。垣間見た夕凪の肩にはネイビーの通学鞄が掛かっていた。彼女はこのまま帰る気なのだ。それを悟るやいなや、気がつくと俺は自分のバックを摑んで廊下へ飛び出していた。一目散に下駄箱へ向かうと夕凪が傘を差して校門へと歩いて行くのが見えた。夕凪の足取りはふわふわと心許ない。夢の中を歩行しているような歩き方だった。歩いているのにまるで地面の存在を感じさせない。そんな後ろ姿を見た瞬間、大きく心臓が脈打った。それはずっと俺が見たかった後ろ姿に違いなかった。夕凪が隠しているすべてがその光景に凝縮されていた。心が叫んでいる。何かが俺の中に潜んでいた。

   夕凪の後をつけていくと、通学路沿いにある船着き場にたどり着いた。嵐の日は海がひときわ強烈だ。薙ぎ払うように激しい風と共に海の濃密な気配が襲う。気が付くと足がすくんでいた。生まれてからずっと海辺のこの町に住んできたのに、海の暴力をここまで感じたことはなかった。なぜ足がすくむのか、理由は明確だった。俺は恐怖しているのだ。生と死を。この嵐の中心でとてつもないエネルギーが渦巻き、相反する二つを生み出していた。

    じっと幼馴染の後ろ姿に目を凝らす。夕凪はしばらくの間、ただ佇んでいた。雨の日の静寂は重い。俺の手は我知らずふるえていた。息の詰まる静寂に何も考えられなくなった頃、一際強い風が吹いた。と同時に夕凪の赤い傘が空中に舞い上がった。俺は思わず隠れていた物陰から飛び出し、コンクリートの上を転がる傘を捕まえた。ほっとしてそのまま座り込みそうになるが、ぐっとこらえる。俺は顔を起こし、持ち主の名前を口にしようとした。が、できなかった。その瞬間に夕凪が叫んだからだ。何度も何度も彼女は叫んだ。絞り出すように生々しい音声が空間を貫く。決して大きな声ではないのに、圧倒的な質量を持って耳に響いた。夕凪は俺とほぼ横並びの位置にいる。あと何歩か歩けば手が触れそうなほど近くに。だが、夕凪は俺に気が付くそぶりも見せず海に向かって叫んでいた。そして俺もまた姿を再び隠すこともせずじっとその場に立ち竦んでいた。動けなかった。自分の目を疑った。目の前にいる少女を俺は本当に知っているのか?叫ぶ姿はぞっとするほど美しかった。髪の毛の一本一本がまるで意思を持っているように暴れる。彼女は間違いなくこの嵐の一部だった。彼女が身動きするたび、グロテスクなほどの肉感が雨粒とともにまき散らされ、濃厚な後味を残していた。いつものひっそりとした影の薄い少女の面影が瞬く間に消え失せてゆく。

    夕凪は一つ叫ぶたびに一つ海へと足を踏み出した。最初の頃は何と言っているのかわからなかったが、そのうち「あお」だとわかった。「あお」が何なのか俺には全く分からない。それでもぞっとした。ここまで一人の人間を変えてしまう何か。そんなものに今まで一度でも俺は出会ったことがない。夕凪は熱に侵されたような表情を浮かべている。まるで何かに強く焦がれるように。それが分かった瞬間腹の底が冷えた。また、夕凪はいなくなるのかもしれない。今度は俺の目の前で。正体不明の何かを夕凪は心底求めていのだ。どうしようもなく。

    気が付くと、夕凪はコンクリートの淵に立っていた。俺が駆け寄って彼女の腕を引くのと、夕凪が最後の一歩を踏み出すのはほぼ同時だった。耳の奥から狂ったような激しい鼓動が聞こえる。強く引いたせいでよろめいた夕凪の背が俺の体にぶつかる。夕凪の体は凍るように冷えていた。無意識のうちに俺は傘を夕凪の上へとさしかけた。

「夕凪」

口にした瞬間、強い力で手が振り払われる。夕凪は獰猛な獣のようにまた海へと手を伸ばす。「あお」彼女の口がまた動こうとしている。もうこれ以上聞きたくなかった。その言葉は夕凪が自分にかけた呪いのように感じられた。気が付くとまた夕凪の腕を掴んでいた。手加減する余裕などなかった。小さな叫びが口から洩れる。

「夕凪」

掴んだ腕がびくっと震え、夕凪はようやく俺を見た。眼はまるで濁ったガラス玉のようだった。その眼は現世を映してはいるが、決して見てはいない。主がこの場にいないからだ。

「帰ろう、夕凪」

   俺は恐ろしさにますます強く握った。少しでも手の中にあるものを確かに感じていたかった。

「痛っ」

小さな声で俺は我に返った。夕凪が痛みに顔を歪めている。悪い夢からさめたような気分だった。けれどその一瞬のちにさっきまでの光景が夢でないことがまざまざと分かった。あんなもの、見たくなかった。俺はいつの間にか後悔しているようだった。そっと夕凪の腕を離す。

「ごめん……」

    謝りながらまた赤い傘を差しだす。夕凪の目を見ることができない。傘で遮った向こう側にいるのは他人より得体のしれない何かだ。さっきまでは、血が沸騰するように熱かったのに、いまでは夕凪の冷たさが滲んで冷めていた。何かが怖かった。けれど自分が何を恐怖しているのかわからなくて、余計に恐ろしかった。

   俺はやっと「帰ろう」と口にすると、背を向けた。黙ってついてくる夕凪の気配を感じながら、恐ろしさと同時に虚しさも感じていた。夕凪が今ここにいるという実感がまるでわかない。俺と彼女の間にはとてつもなく堅いガラスの壁が仕込まれている。俺の手はいくら伸ばそうが夕凪に届かない。それでも、夕凪の心がここにないということくらいは分かった。俺では彼女の魂に触れられない。

    雨が降っていてよかったと思った。雨音が沈黙をうめてくれる。ふと、考えてみる。あの時夕凪の腕を掴まなかったなら。俺はこんな感情に歪まずに済んだのだろうか。問いは現れてからすぐに無意味になった。俺にはあの選択肢以外なかった。また同じような場面に出会ったところで、同じように行動するに違いない。これ以上このことについて考えるのはよしたほうがよさそうだった。この問答は袋小路にある底なし沼に似ている。

    もう夕凪の家の前に差し掛かろうとしていた。俺の足は夕凪の家に近づくにつれ、重くなっていった。

    何か夕凪に言わなければならないことがあったはずだった。けれど開けた口からは、何も出てこない。夕凪は立ち止まった俺からどんどん遠ざかっていく。なんでもいい。とにかく彼女を少しでも長く引き留める術が欲しかった。

「夕凪」

   名前だけが衝動的に口からこぼれる。振り向いた夕凪の顔は傘で半分以上隠れてよく見えない。

「なんであんなところにいたんだ。危ないだろ」

   口にした瞬間、本当に聞きたかったのはこれではないと分かった。けれど今更どうすることもできない。

「青に会うため」

   予想もしなかった夕凪の答えに、俺は二の句が継げない。訳が分からない。 夕凪が姿を消した後も、俺は立ち尽くしたままだった。そして、呪われたように「あお」という不気味な響きをただいつまでも噛みしめていた。


***

 

次話はこちら。

 

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海のなか(3)へ続く。

 

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