KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説・海のなか(20)

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前話はこちら。
  

 

 

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***

 

 図書館の入り口近くはすぐカウンターになっていて、その真ん中にひっそりと男性の司書さんが腰掛けていた。頭には白髪が入り混じり、頬も心なしか痩けている。神経質そうな生真面目そうな面持ちが印象に残った。部屋には常に司書さんのタイピング音が切れ間なく舞っていた。うるさい

わけではない。それどころかいっそう静寂を際立たせている。

 彼は丸メガネの奥から来客を一瞥して微かに頭を動かすと、また何事もなかったようにパソコンへ向き直った。会釈したのかもしれない。あたしも軽く頭を下げつつそっと中に入る。今が文化祭中なんて信じられない人の少なさだった。ここだけ置き去りみたいだ。

 部屋を見回すと、言い訳程度に展示がされていた。「気に入りのフレーズ」コーナー。全校で集めたお気に入りの本の1フレーズを募集した結果を模造紙に張り出しているらしい。そういえば、少し前にそんなものを書く時間があったけれど、あれは困った。本を読まないあたしには一苦労だった。結局書けなくて、でも捨てることもできなくて。いまでも藁半紙は机の奥にくしゃくしゃで眠っているはずだ。

 「あの小瀬夕凪って子、ここにきてないですか。背中まである長い髪の子なんですけど」

 司書さんの顔を覗き込むように尋ねると

 「小瀬夕凪ああ、あの子かな。そんな名前だったの。いつもあそこにいるよ」

  そう言って、無造作に部屋の左隅の方を指差した。棚の向こう側のことを言っているみたいだ。

 「ありがとうございます」

 頭を下げると、司書さんは手をひらひらと振った。すでにその目はあたしを見ていない。言われるままに本棚の列を分け入っていくと、なるほど大きくて分厚い本ばかりだ。陵の言っていたことは正しかったらしい。

 背の高い書架と書架の狭間はまるで深い森のように薄暗い。すうっと体温が吸われて寒気がするような。

 「大型本のコーナーを左

 気がつくとあたしはお守りみたいに陵の言葉を唱えている。本当に不向きなことを引き受けてしまった。何かに急かされるように足が早まる。密林の切れ間には光の帯が横たわっている。いつの間にか、あたしはあそこにさえ行けば、という思いに支配されている。

 光の中に踏み入った瞬間、世界が一気に色彩を帯びた。そうしてそこで歩みが止まった。もう何処へもいけない。目の前の光景に一瞬で取り込まれてしまった。

 まず、光の中で長い髪がセピア色に透けるのを見た。美しい糸の束を辿ると横顔がある。こちらからだと逆光で彼女の姿は影になっている。それでもなお、透き通るように白い肌。そのただなかで唇だけがほの赤く色づいていた。表情はどこか中性的で華奢な少年のようにも見える。

 数瞬の間あたしにはそれが誰だかわからなかった。美しく浮世離れした何か。そんな印象だけが深く強く脳裏に植え付けられてしまってくりかえし何度も眺めているような。操られるように自分の口から声が漏れた。

 「夕凪……

 その時あたしは場違いにも、昔とある美術館を訪れた時のことを思い出していた。そう、これは「あの感じ」に似ていた。芸術を目の前にその世界へ呑み込まれてしまうときの没入感。溺れているような沈み込むような。総毛立つあの感覚に。理解を直感が追い越してゆく。あたしの全てが一心に開くのが分かった。あの少女に向かって。

 夕凪は陶酔的な表情を浮かべて窓の外を眺めていた。その儚げな様子がなぜかしきりに胸を押し潰す。大きな欠落の気配が彼女の周りを覆っている。喪失の予感が加速する。それは息を呑むような不快の絶頂だった。今立っている場所すら覚束なくなるほどの不安。

 その時、どこか下方から音がした。足に何かが当たる感触で我に帰る。見下ろすといつのまにか手にしていたはずのビニール袋が床に落ちていた。

 正気に戻るにつれ、あたりの音が帰ってくる。中庭のほうから微かにバンドの演奏が聴こえた。演奏しているのはアジアンカンフージェネレーションの「オールドスクール」だった。真悠のバンドに違いない。ダンス部の副部長をやっている友人はとても器用で音楽に関することなら、やってできないことはないくらいだった。この曲は確か彼女の一番好きな曲だったはず。真悠と仲良くなったのもこのバンドがきっかけだ。

 この音は夕凪に届いていないのだろう。そう見えた。憂いのある表情でどこか遠くを眺めたまま。あたしは夕凪から視線を外さないままそっとしゃがみ込むとビニール袋を持ち上げた。途中派手な音がしたけれど、やはり夕凪は振り向かない。声を掛けようとして躊躇う。目の前の光景に侵し難いものを感じる。ゾッとするほど端正なこの均衡を崩せない。

 ところが、不意に少女は振り向いた。その瞳は何も映していない。夢見心地に濁っている。ゆっくりと瞬きする様がコマ送りされていく。

 ーーー目が、充血している。

 あたしは一歩後ずさった。夕凪が突然手を伸ばしたからだ。腕はまっすぐあたしに向かって突き出される。彼女の爪が右手の甲をかすった。

 「まって!」

 夕凪の口から叫びが漏れる。請うような、縋るような。大きな双眸が激情に揺れていた。溢れそうなほど見開かれた目から感情が迸り空気を伝ってあたしまで揺さぶられる。

 これは、誰だ?

 「夕凪……!?」

 腰掛けていた椅子が大きな音を立てて後ろに倒れた。と同時に夕凪が一つ身震いした。浮遊する魂が身体へと還った。彼女は腕をさっと引くと、今度は自分の肩を抱いた。俯いたその表情は読めない。誰にも縋り付くことのできない手が震えている。先刻までの彼女の目には何かが見えていたようだ。幻をみたのかもしれない。寄って立つ誰かの姿を。沈黙があたし達を取り巻いた。けれど、目の前の少女が押し殺した嗚咽が聴こえる気がした。夕凪の睫毛は意外なほど長く、落ちた影の昏い色が青白い頬を染めていた。それからどれほどの間その様を眺めて立ち尽くしていただろう。

 「シフトだから、いくね」

 気がつくと夕凪はすぐ横をすり抜けていく。あたしは動けないまま、夕凪の遠くなる足音を聞いた。すれ違いざまに見た夕凪の瞳は、潤む気配すらなく乾きり、ぎりぎりと痛いほどに張り詰めた色をしていた。

 思っていた。ただの平凡で地味な引っ込み思案の女の子だと。けれど、一方で違和感があった。夕凪に出会ってからずっとこの胸が騒いでいるから。たった今その理由がわかった。彼女は脆くも弱くもない。ただ、恐ろしく一途だ。

 ーーーー彼女は泣かないのではない。泣けないのだ。焼け付くようなあの瞳はまだ鮮明に刻まれていた。

 足音の余韻が消えてしまってから、夕凪の腰掛けていた木製の椅子にストンと座る。眼下にはだだっ広い校庭が太陽に照らされ白く光っていた。窓辺は風が強く吹いている。上昇気流に前髪が吹き上げられていくのを感じる。眩しさに目を細めながら視線を遠くに投げると、家々の向こう側にか細い線のような海が見えた。もう海は鮮やかな色を翳らせている。夏は去った。どうりで今日はやけに涼しい。いやらしいほどに。

 夕凪はここに座って一体何を考えていたのだろう。同じ場所にいても何一つわかる気がしない。結局あたしはあの子の何かが欲しいんだろうか。こんなところまで来てしまって。ーーーここに来る前の問答の続きを、いつのまにかあたしは考えている。今まではそれが陵だと思っていたのだけれど。あの子を好きな陵が欲しいんだと。けれど今、わかった。どうやら違ったらしいと。

 あたしはずっと夕凪が奥底に秘めているものに嫉妬していたみたいだ。そして陵に対しても、きっと。彼らの欲するひたむきさに焦がれていた。あたしはずっと怖かった。何かを本気で欲しいと言うことが。臆病なあたしは失う時のことを考えてしまう。恋心と羨望はよく似ている。多分この思いはこれ以上育たない。だって気がついてしまったから。あたしには他にもっと見なくてはならないものがある。

 すると、不意に今更気がついたのか、と頭の片隅で一馬が皮肉な笑顔を見せた。こうなることがあいつに読まれていそうな気がしてならなかった。

 あいつに言わなきゃならないことが、あるみたいだ。そろそろ口にしてみてもいいのかもしれない。この胸の内を。あいつはきっと呆れるだろう。あまりにわがままな言い分だから。けれどきっと許してくれるだろう。あいつはあたしの兄貴分なのだから。

 覚悟しろ。一馬。

 見上げた澄んだ青空は少しくすんだ美しい色合いをしている。今夜、一馬にメールをしよう。あいつは呼び出しに応じるだろう。今回はきっと、壊れない。あたしが壊させない。

 「あ、鱗雲」

 あたしの嫌いな寒い季節がやってくる。

 

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