KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

幸せに「他者に認められる」は必要か。

自分の価値は一体だれが決めるだろう。

他人だろうか。社会だろうか。

あるいは

自分か?

 


結論は人それぞれ違うと思う。

 


私の回答は後者になる。

 


私の価値を決めるのは自分だ。

 


しかし、この言葉を額面通り受け取るとやや語弊があるかも知れない。

 


なぜならわたしにとって自分とは、常に自身を評価し続ける他者に他ならないからだ。

 


私という他者は常にわたしを値踏みし、監視している。

 


一番厄介な他者を満足させ続けることこそ、私自身の幸福につながるのではないか。

ここ数年ほどはそんな仮説に基づいて私は生きてきた。

 


だからこそ、就くことの難しい希望職を目指したし、そのための努力し続けた。

 


ただ、これはあくまで仮説であってそのうち私の幸せが変質しないとは言えない。いや。するだろう。

 


生きている以上、永続的に変化しないものなどない。

 


重要なのは幸福追求をやめないこと。

そして誰よりも自身を知ることだ。

 


私は何もこの場で自分の幸せは自分で決めるべきだ、などとありきたりのことを言うつもりはない。

 


要は、どこに自らの幸せがあるのか。

考えて、探ることから始めるべきだろう。

 

 

 

では、どうすれば自分は幸せになれるのだろうか。

 


これは、「自分は誰に一番失望されたくないか」を考えるとよくわかるのではと思う。

 


以前私はこのような記事を書いた。

 

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

この記事の出来事こそ、

私が誰に一番失望されることを恐れているかに気がついた瞬間である。

 


私は私に失望されるのが一番怖い。

それこそ死を呼び寄せるほどに。

 


裏を返せば私は他者からの評価をそれほど重要視しない傾向にあると言うことだ。

 


たとえ

素晴らしいと褒め称えられようが、

お前はクソだと罵られようが

 


飛び抜けて有頂天になることはないし、ましてや自殺しようだなんて微塵も思わない。思ったこともない。

たぶん、一日二日喜ぶか腹を立てるか落ち込むか、その程度の出来事でしかないだろう。

 


私はあの出来事から知ってしまった。

 


私しか私を殺すことはできない

 


ということを。

 


要は自分は何を重要視するか、という話だ。

人から評価されることを大切にする人はそのように行動するのが相応しいし、他者に尽くす事が自らを幸福にするのであればそうすべきだ。

 


ただ、ここで一つだけ明言しておきたいのは、決してその幸福の形が一般的に言われる幸せとぴったり一致することはほぼないだろう、

という事だ。

 


無論、たまたま一般的な形と一部が合致することはあるだろう。しかし、それは偶然に過ぎない。

 


世間的な幸せとの合致を幸福追求の完成形と見るのはいかにも考えが足りない。と言わざるを得ない。

 


もし、世間的な幸せが幸福の完成形であると宣う人がいるのならば、きっとそれは自分を知らない人だと思う。

 


生きる、とは自分を知ることだ。

 


私は私を知り、世界を知って生きていきたい。

 

 

 

皆さんは幸福についてどう考えるだろうか。