KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

他人に期待するのはもう、やめよう。

 

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しばしば

「上司なら〇〇して頂かないと」

「あの人は課長なのに〇〇だ」

と口にする人がいる。そんな言葉を聞いた時、いつも思う。

あれ?全然思ったことない、って。

そう。わたしは全く共感できないのだ。なので同意を求められた時、曖昧な笑顔で濁してばかりだ。

 


思い返してみれば、わたしは人生上でほとんどと言っていいほど社会的立場によって他者を尊敬したことはない。良い人であることを期待したこともない。それはきっと、わたしが人の善性を微塵も信じていないからだ。性悪説性善説なら、圧倒的に性悪説を支持するだろう。

 


 さて、ここで冒頭の言葉をもう一度読んでみて欲しい。この言葉の裏には他者への「期待」や「願望」や「幻想」が間違いなくある。思えば勝手な話ではないか?社会的立場を持っているというだけで、勝手に願望を抱き、そこから外れれば批判するのだから。

 


勿論、立場が人を変えることもあるだろう。しかし、それは絶対ではない。大体、そんな程度のことで人間の本質は変わったりなどしない。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。

 


人間はきっと変わることなどできない。変わったように演じることは出来るが。人間に一生ついて回るのは生まれ持った性質のみである。そうしてそれが環境によって善か悪かにより分けられる。人間の性質にもともと善悪などない。わたしはそう思う。

 


とまあ、今の今まで物知り顔で言説を並べ立てているわたしだが、この論理は無論、私自身にも跳ね返ってくる。

 


私は確かに「上司」「先生」などの肩書きで人を判断しない。だが、一方で年齢というフィルター越しに他者を見るきらいがある。例えば、「この人は30歳なんだから〇〇できて当たり前」というような。ある意味私も立場を通して人を評価しようとしている。

 だからこそ私もまた、さっさと悟るべきなのだ。

「年月は必ずしも人を変えない」と。「立場が人を必ず変える」ことのないように。幻想を追っていては、物事の本質は見えてこない。

 


ありきたりな言い回しで恐縮だが、自分が変えられるのは精々自分のことだけである。

 


だからこそ、

 


他者が変わらない、気に食わないと口を動かすより先に、まずは自分が動き、対処を模索すべきなのだ。

 


もう、他人には期待しない。

それはこういう意味だ。

 

 

クロミミははてなブログにて、「KUROMIMIには本が足りない。」を更新中。先日、連載小説「海のなか」の最新話を更新しました。ここ数ヶ月苦しんでたけどようやく描けた。物語も佳境です。ぜひご覧ください。