読書を何倍も楽しむ、遅読のススメ。
本を読むのが好きな人ってどんな人を想像しますか?山ほどの本をあっという間に読んでしまう人のことをいう、と多くの人は思うのではないでしょうか。
わたしは遅読派です。でも本を読むことを愛しています。
今回はそんなわたしの読書の楽しみ方について語りたいと思います。
わたしは元々は速読派でした。特に小・中学生の頃は。1日に何冊も本を読んでしまうくらいずっと本を読んでいた。そして、何度も何度も同じ本を読んでまた次の本へ。なんども読むことできっと自分の中に内容を刷り込んでいたのだと思います。
だからなのか、自分でも驚くほど本の内容だけははっきりと覚えている。
今でも漫画はこの読み方をしています。なぜなら一冊10分程度で読めるから。これなら何回も読んでもたくさんの漫画を読むことができる。
しかし、小説はそうもいかない。高校生くらいになるとちょっと難しいものにも手を出し始めたからです。レイ・ブラッドベリ、村上春樹、ハインライン、安部公房、坂口安吾、とかね。
そして、難しいものは当然読むのに時間がかかるので、なんども読むことがなくなったのでした。(だって読みたい本は他にいくらでもあるわけですから)
しかし、そうすると本の内容は文章の群れとしてわたしの中を通り過ぎていくだけ。後に残るのは
「ああ面白かった」
という感慨だけ。
わたしは寂しくなりました。どうにか読書体験で得た感動や感覚をそのまま保存する方法はないものか…と考えた結果、わたしは高校三年の頃に遅読をすることにしたのです。
遅読するといろいろなことがわかりました。
この小説のどこに自分が惹かれているのか、作者はなぜここでこんな展開を持ってきたのか、わたしはこの小説にどう向き合ったのか。
とにかく、いろいろなことを考える余裕のようなものが生まれた。
何よりわたしには遅読があっていたようです。ほんとうに読書が楽しくなりました。でも、まだわたしは寂しかった。
だって記憶の劣化は防げない。
そこで、遅読すると同時にあることを始めました。
読んでいる本の気に入った一部を書き写し始めたのです。
二つの写真は上からウィリアム・アイリッシュの「幻の女」二つ目はゆらゆら帝国の「つぎの夜へ」の歌詞。
最初は小説だけだったのが、最終的には自分が刺激を受けた言葉は歌詞にしろ、小説にしろ詩にしろ対談にしろ、学術書にしろ全て書き留めるようになりました。
私の男、ディスコ探偵水曜日、九十九十九、ファウスト、生きるとは、自分の物語をつくること、薬指の標本、世界の終わりとハードボイルドワンダーランド、悪霊、カラマーゾフの兄弟、青猫、死の本、夜にはずっと深い夜を
なんかを書きとめた覚えがあります。もっといろいろあるけれど。時にはみた夢を記録した夢日記の独特の文体に惹かれることもありました。(クロミミは大学で睡眠についての講義を一時期受けていました。)
とにかく、ノートに書き留めたものを読むだけでその本を読んだ感動がまざまざと思い出され、幸せな気分に。そりゃあそうですよね。自分の大好きな文章しかないんだから。楽しくって仕方なかった。
実は以前オススメの日本文学・海外文学の投稿を描いた時に引用した本文は全てこのメモ書きの部分。今読んでも大好きです。やっぱり。
とにかく、この作業を加えることによってわたしは大好きな本の文体・雰囲気などを克明に記憶できるようになった。ついに理想の読書にたどり着いたというわけです。
この方法のいいところは小説の楽しみ方の幅が広がること。
わたしは書き留める前に
黙読→音読→音読しながら書く
をしています。
ただ本文を書き写しているだけのはずなのに、わたしにとってこの作業はとても疲れるものです。
なぜなら情報量が増えるから。
書きながら、どこが自分に響いたか考える。考えてここだという部分を太いペンで書く。すると、この作業は作家の文体を知るだけでなく、自分の好みを知る作業にもなっているのです。
これは間違いなく小説を書く時に自分の文体を作り出すのに役立ったと思っています。
そしてさらにこの習慣が思わぬ効果を生んだ。実はメモを書き溜めていたのは小説のネタ帳。現在11冊目。
このノートを開いてネタを練りながら、この小説の文体は中村文則×フィリップ・K・ディックみたいにしよう。と思ったら、
すぐにページを遡ってみにいけばいい。そして元に戻ってまたかきはじめる。
断然創作におけるインプットとアウトプットがスムーズになったのです。
この習慣を始めてもう四年以上が経っていますが、これからも続けるつもりです。だって楽しいから。
皆様はどんな風に読書をしているでしょう。どんな風に小説を書いているのでしょう。よかったらコメントで教えてください。
それでは今回もありがとうございました。