共感だけでは限界がある。
よく書籍のレビューで酷評する際、
「この小説の主人公にはどうしても共感することができなかった」
というような内容をよく目にする。
果たして、共感する必要があるのだろうか。
そして「共感できない」ということは酷評するに値する理由なのだろうか。
わたしは少し違うと思う。
読書にはざっくり分けて主に二種類があると考える。
「共感的読書」と「傍観的読書」だ。
前者は先ほど挙げたレビューのような読み方。
登場人物に自分を重ねて自らの過去を追体験するような読み方だ。無論わたしもこの読み方をしばしばする。自分の人生が物語の一部になったかのような快さを得られる素晴らしい読書の仕方だ。
このような読書を多くの人はしているように思う。ただ、この読み方には一つだけ欠点がある。それは「共感」によって得られる快感を読書の原動力としているが故に、共感できなければ読書を全く楽しめなくなってしまう、という点だ。
ここでもう一つの読み方を提案したい。
それが「傍観的読書」である。
この読み方の特徴は、そのまま傍観者の立ち位置で読書する、ということだ。
「傍観的読書」と前者との違いは、読者と小説の距離にあると思う。
「共感的読書」をする場合、読者の心は登場人物のより近くにある。しかし、「傍観的読書」の場合は読者は小説を眺める位置、つまり野次馬とでもいうべき立ち位置にあることになる。
この読み方は多分伝記や自伝の読み方に近いのではと思う。伝記や自伝を読んで人は共感しながら読むだろうか。きっと、「へぇー、こんなことがあって大変だったんだ」「この出来事をわたしはこう捉えたけどこの人はこう考えるんだ」「この人ってこんなに凄い人だったんだ」と読むのではないか。
わかりやすくいうのであれば、これが「傍観的読書」である。
この読み方ができれば、共感だけに頼ることなく読書を楽しむことができるので格段に読書の幅は広がるはずだ。
また、「傍観的読書」は先日話した「驚異を感じるような読書」の際に役立つ。
なぜなら「傍観的読書」をする場合、作品を全て理解することができなくても作品を楽しむことができるからだ。
また、この読み方をすると読者は頭の中で内容を自分流に噛み砕き整理しながら読むことを要求される。そのため、話の筋を整理しながら読む力がつきやすくなるはずだ。ぜひ試してみて欲しい。
実は「傍観的読書」についてはこの記事のドストエフスキーの項に於いても少々触れている。
実はさらに物語を突き放した角度から読む三つ目の読み方もあるのだが、それはまた別の機会に語りたい。
皆様がもっともっと読書を楽しめますように。
他にも読書について書いています。