KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説・「海のなか」(29)

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前話はこちら。

 

kuromimi.hatenablog.com

 

***

 


 夢に出てきたと思しきそこは、海の見える窓際の席だった。その夕暮れ、マキノのアイスクリーム屋を訪れたのは、夢が忘れがたかったからだった。窓辺から見える景色の真ん中には青い帯が遠く揺らめいていた。わたしの正面にはもう一人分の空席がある。あの夢では埋まっていた席。そこにいくら目を凝らしても、何か像を結ぶことはなかった。ただ、気配だけが凝集し、何かを為そうとしている。記憶の裏側を、無遠慮に引っ掻かれるような不快が海馬を刺激した。けれど、その強烈さとは裏腹に何一つ思い起こすことはできない。同様の手触りをここ最近幾度となく味わっていた。夢のことは、はっきりと覚えている。特に最近見た夢は鮮明だった。ただ相手の顔だけが、つるりと無い。そこだけ綺麗に抜け落ちて、いつまでもいつまでも空白なのだった。

 夢の中で、わたしは幾度となく「あの人」に会った。あの老人に。男なのか、女なのか、それすらわからない。船着場を手を繋いで共に歩いた。この席で向かい合って、アイスを食べた。あの人はわたしに笑いかけた。ーーーー幼いわたしに。そしてわたしは、指切りをした。全てあの人が関わっている。幾度も夢を見るうち、気がついた。あれはただの夢ではない。あれは、記憶なのだ。

 「久しぶりじゃん、夕凪」

    聞き覚えのある声がして、思考は断ち切れた。見上げると沙也がこちらを見下ろしていた。

 「ここ、座ってもいい」

 その申し出に少し驚きながら、小さく頷いた。それはいささか沙也らしからぬ行動に思えた。彼女は友人を見つけたからといって、わざわざ相席をしようとするタイプではない。むしろ、会釈でもして遠くの席に去っていくはずだった。彼女は一人の時間を愛せる人だと思う。一人を選ぶ強さを持っている。

    「いつも、ここに座ってるから」

 疑問に応えるように、沙也は言った。そんなにわかりやすかっただろうか。顔を上げると不覚にも目があってしまって、すぐに俯いた。いつでも彼女が怖かった。そして憧れてもいたのだ。強く、まっすぐな沙也に。だからこそ、その聡い目を覗き込むことはできない。全てを見透かされてしまいそうで。

 「食べないの?溶けてるけど」

 向かいから指摘されて、恐る恐る視線を向けると、注文したアイスは一口も手をつけないまま、半ば液状化していた。二つあったはずの白い塊は元の形を失いつつ、銀の皿を満たしている。

 するとその時、カウンターの方から足音が近づいてきて、真横で立ち止まった。

  「はい、いちごアイスひとつね」

  「ありがとうございます」

 ウェイターと沙也のやりとりを聞いて、やっとアイスに手を伸ばすことができた。いつもこうだ。自然に振る舞うとは何かが、わからない。溶けたアイスを掬って口へと運ぶ過程で、ポタポタと雫が白く跡を引いて、机を汚した。

 ああ。何一つうまくいかない。

 だから一人がいい。

 誰からも見られないなら、いい。

  「ねぇ、今日学校来てたの」

  「え?」

 唐突な問いかけに喉が詰まった。見開いた目には、怪訝な顔の沙也が写った。彼女の人差し指は制服を指していた。

  「…いや、制服着てるからさ」

 文化祭以来、登校していなかった。夢日記をつけ始めてから、ずっと。朝、家で制服を着て出かけ、人目を偲ぶように夕方家路に着いた。なぜ学校に行くふりを続けているか、自分でもわからなかった。不登校を知ったところで、母はきっと気にも留めないだろう。それなのに、なぜ。

 学校にも家にも、わたしの居場所はなかった。もう思い出せないほど昔からそうだった。それでも今ほど独りがつらくはなかった。それが、普通だったから。

 こんなことなら、青に出会わなければよかった。

何度そう思ったか知れない。

甘い充足の味を知った後は、余計に地上へ帰るのが辛かった。けれど今、あの場所すら変質しつつある。楽園が喪われつつあるのを、感じないわけにはいかなかった。

 あの日、薄れゆく視界の中で青の口はこう動いていた。

 『思い出したら、語っておくれ』

 と。夢について話した時の青の目の色が忘れられない。青が、執着を向けるものがこの世にあるなんて。もしも全てを思い出し、語ったなら。青から注がれる眼差しの理由をわたしはついに知るのだろうか。

 ずっと知りたかったはずだーーーーそれなのに。たまらなく怖いのは、どうしてなんだろう。

 「……やっぱり行ってないんだ」

 長い沈黙を肯定と受け取って、沙也は言った。

 「……気づいてたんだ」

 久しぶりに聴く自分の声は、自分自身でもわからないほど掠れて、別人の声だった。

 「まあね、陵がうるさいから」

 「そっか……」

 「てか、夕凪がこの店にいるの珍しいよね」

 沙也がアイスを口に運ぶ。気だるそうな様子だけれど、好物なのか僅かにほおが緩んだ。

 「えっ?あっ…そうかな…」

 「あたしも愛花もこののアイス好きだからよく来るし。昔から家族でも食べに来るけど見たことない」

 「そういえば……そうかも」

 「あ、でも。ものすごく前に何回かだけ夕凪のこと、見たことあったな」

  「え?」

 「いや、かなり前……多分小学校上がる前じゃなかったっけ」

  「そう…なの?」

 すると、沙也は小さく頷きながら頬杖をついた。その目はなにか確信ありげに輝いている。

 「そうそう!思い出した。確かこの席だった。珍しいと思ってたんだよね。確かあの日母さんと妹弟で来てさあーーーーー」

 その時、ガチャンと音が鳴った。わたしの手からスプーンをが滑り落ちたのだった。

 


それから先の沙也の言葉は、思い出せない。

 

 

 

***

 

小説・海のなか(30)へつづく。

 

 

次話はこちら。

 

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