小説・海のなか(30)
前話はこちら。
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いつのまにか、わたしは外へと飛び出していた。全てを剥き出しにし、なりふり構わず。気がついた時には既に、家へと続く長い坂道を走り降っているところだった。
一歩踏み出すたび、歩みが身体中に響いてわたしの内側を滅多撃ちにした。久しぶりの全力疾走に、呼吸音しか聞こえなかった。現世の全てが遠ざかり、その分頭の中の光景が色濃く迫ってくる。日暮れの青く染まり始めた家路はやけに遠く感じられた。
もう、戻れない。
一度思い出してしまえば、なぜ忘れていられたのか、もうわからない。ーーーーあんなにも、一緒にいたのに。
ようやく辿り着いた家の門扉に手をかけた時、急に恐れが湧き上がってきた。この扉は過去へと続く扉だ。そもそもなぜ今まで忘れていた?なぜ両親は私に隠していたのだろう。秘密を暴いて仕舞えば、何か悍ましいものがその奥には眠っている。それは間違いのないことのように思えた。
本当に知ってしまってもいいのか。
そう考えた瞬間、ドアを開けていた。もう逃げたくなかった。何かを変えようと思うなら、何かを壊さなくてはならない。たとえそれが自分自身だとしても。少しでも立ち止まれば恐怖に足が止まりそうだった。全てを振り切るように、わたしは奥の和室へと駆け込んだ。ここにあるはずだった。今まで忘れ去っていたものが。
座敷の奥に、瞳は誤りなく目的のものを捉えた。
ーーーーあった。
その瞬間、揃ったピースが組み上がっていくのを感じた。
祖母の遺影。仏壇だ。暗い室内でもその面影は間違いなくあの夢に重なった。白髪で仏頂面の彼女。祖母はあまり笑わない人だった。
「……おばあちゃん」
頭の中がざわつく。「あの人」の輪郭がはっきりとなぞり書きされていく。あれほど脳裏に立ち込めていた靄は立ち所に何処へかと消えていった。
どうして忘れていられたのだろう。
「ごめん」
掠れ声でそう口にした時、襖が小さく軋んだ。見ると、父が廊下からこちらを伺っているのだった。その足元から伸びた影がこちらの暗闇に呑み込まれている。細い影は所在なさげに揺らいでいた。
「……夕凪」
久しぶりに聞く父の声は、記憶よりずっと低い。
「おとうさん」
「教えて、全部」
彼は一瞬、首を絞められたように息を詰めて黙り込み
「……思い出したんだな、夕凪」
絞り出すように言った。
「もう逃げない」
短く告げたわたしを見つめ返す父の表情を、しかしわたしは見ることができなかった。逆光だったからだ。顔を黒く塗りつぶされたまま、父は俯き深く息を吐き出す。そうして、「もう逃げられないな」という呟きが微かに耳へ響いた。
***
海のなか(31)へ続く。