KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説・「アキラの呪い」まとめ①

 

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どうも。クロミミです。

お盆休みを過ごしていたら、どういうわけかここ五年くらいあたためていた小説のネタが急に輪郭を持ち始めました。そんなこんなで急遽連載小説を増やすことに。それが本作「アキラの呪い」です。

 


急に決めたので小説のトップ画は写真を撮って適当に加工しました。結構いい感じにできたと思う。

 

 

 

 こういう理解不能なことが起こるから、小説を描くって面白いんですよね。

 


実はすでに一本「海のなか」っていう連載小説をずっと書いてまして。しかも佳境なんです。なので、本当はこっちを先に完結させるべきなんですが…。

 


ひとまず、「アキラの呪い」のネタが動くうちはこちらを優先的に更新しそうです。鉄は熱いうちに打てと言いますし、この流れは掴んでおかないと後悔する予感がするので。(そういうことってあるよね?)もちろん「海のなか」もしっかり完結させます。絶対に。

 

 

 

さて。前置きが長くなりましたが。

 


今回の記事では、「アキラの呪い」の⑴から⑷までの内容を軽くまとめると共に、登場人物やあらすじも併せてまとめたいと思います。内容を忘れたときは読み返してみてください。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 


●「アキラの呪い」あらすじ

 


「ーーー俺の姉が自殺未遂をした。」

義理の姉、晶の自殺未遂をきっかけに変化していく義理の姉と弟の危うくも奇妙な関係を描く。

 


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【各話まとめ】

 


●「アキラの呪い」(1)

 第一章は全て弟の歩(あゆむ)視点で展開。歩はある日姉である晶(あきら)の自殺現場に立ち会ってしまう。

 

 

 

●「アキラの呪い」(2)(3)

   歩はある夏の夕方、とある場所へと向かっていた。歩はその道中、姉の自殺衝動に勘づいた経緯を回想する(3)はその内容。

 

 

 

●「アキラの呪い」(4)

現在の歩。歩が向かっていたのは姉のアパートだった。姉とのとある約束のため、歩は姉のアパートを定期的に訪れることになっていた。しかし、当の姉は歩の訪問を拒んで…。

 

 

 

 


●「アキラの呪い」登場人物紹介

 


・水無瀬 晶(みなせ あきら)

 


 本作の主人公。歩の義姉。真正の人でなし。ショートカット。肌色は生まれつき浅黒い。吊り目が特徴的ではあるものの、基本的には地味目な顔。しかし、内面的なものが滲み出ているせいか、一度会ったら忘れられない、と評されることが多い。本人的に注目されるのは好きでないので大層不満な様子。しばしば「私が目立つんじゃなくて、周りが地味すぎるだけよ」とわりと本気でぼやいている。

 座右の銘があるとすれば天上天下唯我独尊。独立独歩。傍若無人。他人を拒んだり傷つけたりすることにかけては超一流。なぜか勉強ができるが、理由は本人にもよくわからない。この上ない毒舌家で下戸。まともな人間関係など、営んだ経験はほとんどない。中性的な見た目で、ベリーショートカット。23歳。今年から新卒として働く。自殺しようとするも、義理の弟である歩に邪魔され、激怒した。彼女が9歳の頃に父親が歩の母と再婚した。実の母とはほとんど縁が切れているが、外見的にはよく似ていたらしい。中身は父方の祖父に似ているところが多いという。

 

 

 

・水無瀬 歩(みなせ あゆむ)

 


 本作の主な語り部。晶の義弟。ろくでもない姉に振り回される苦労人。多分歩のせいで性癖が歪んでいる。20歳。長身で男臭い見た目。夏場は気がつくと焼けていて、一度焼けると戻らないので肌が年中健康的な色(日サロにいってる友人からは羨ましがられるそう)もともと勉強はあまりできないが、目的のためには努力を惜しまないのでそこそこの成績。晶と同じ大学・高校に通っている。晶の人嫌いに配慮し、自殺未遂以前はあまり積極的に関わりを持たないようにしていた。基本的に優しい男。あまり異性にはモテないが、本人は全く気にしていない。(中学くらいまではそこそこモテていたらしいが、今となってはよくわからない)中学、高校とそれぞれ一度恋人がいたが、いずれも数ヶ月で別れている(フラれた)友達は普通にいる。実は仲良くする人は選ぶ派。基本的にお人好しで利用されやすいタチのように見えるが、自分に関することがおざなりなだけ。損得勘定には鈍く、ナチュラルに割り勘とかを多めに持つので逆に相手に気を遣わせる。そういう余裕のある態度が嫌われることもあるらしい。利用されることもあるが、本人は利用されたことにすら気がついていない。そのためか、歩の保護者的な立ち位置で友達にはいいやつが多い。

 

 

 

 


こんな感じの二人が主役な本作。文体は、舞城王太郎の「探偵ディスコ水曜日」とかアントニイ・バージェスの「時計じかけのオレンジ」(乾信一郎・訳)などを参考にして作ってみてます。その方が今回の作品には合うって思って。語り部も男ですしね。

 


もう一作の連載小説「海のなか」が静謐さを持つ作品だとすれば、「アキラの呪い」はラフで遊びのある作品です。その分エンタメ寄りで、キャラの味付けも濃くしてます。楽しんでもらえますと幸いです。

 


近日中に第二章も公開予定です。

第二章では二人の過去を掘り下げます。

 

 

 

「アキラの呪い」第一話はこちら。

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

 

「海のなか」第一話はこちら。

 

 

kuromimi.hatenablog.com

 

連続小説・「アキラの呪い」(4)

 

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前話はこちら。

 

 

kuromimi.hatenablog.com

 


***

 


 自殺現場を目撃した時の気分を思い出して、その場で吐いてしまいそうになる。体が揺らぎ、手にしたビニール袋を取り落としかけた。俺はいつまで平常を取り繕えばいいんだ?…永遠に?自分の弟がこんな気分でいることをあの人でなしが知ったところでなんとも思わないことはわかっていた。単に俺が知られたくないだけ。これは自己満足だ。

『あの日姉の住む安アパートへ向かわなければこんな気分を味わうこともなかっただろうか』

  そんな問いが幾度も頭を過ぎることは避けられなかった。その程度には最悪の気分だった。問いが重なるたび、その一瞬だけは晶を心底憎く感じた。種火は瞬間的に激しく燃え、同じくあっという間に立ち消える。暴力的な衝動が俺の内部でカウントするのも馬鹿らしくなるほど繰り返した。この苦しみが始まったのは晶が目覚めた瞬間からだった。情緒がまるでメチャクチャでどうしたいのかもわからない。あの日から俺は狂いつつあるのかもしれない。それでも、あの日の行動を後悔したくはなかった。いずれにせよ姉は生きていて、これからあいつに会えるのだ。これに勝る結果などない。ただ、それだけは確信を持って言えた。

 考え事をしているうちにいつのまにか俺は晶の部屋に辿り着いていた。既に家主が帰宅済みなのは連絡を取って確認していた。インターホンを押すと、程なくしてドアが外に向かって開いた。ドアの隙間から覗けた顔は不機嫌そのものだった。こうして睨みを効かせる顔は若い男のようにも見える。なぜかその顔を見ているだけで頬が緩んだ。実のところ、実際こうして会うまでは姉の無事を確信できないでいたから。

 「姉さん、晩飯作ってやるよ。どうせまだだろ?」

 わざとらしく作り笑顔を浮かべて、俺はビニール袋を持ち上げてみせた。

 「あんたの憎たらしい面を見たら、食欲が失せたわ。もう会ったから約束通りってことでいいわよね?それじゃとっととおやすみ」

 晶は早口で捲し立てて、ドアを閉めようとするが、そうはいかない。すかさず足を差し込んで阻止する。ぶつかり合った衝撃でなかなか大きな音がして、足に激痛が走る。痛みを感じたと同時に生理的な涙が目の端を濡らした。どんだけ嫌なんだよ、おい。全くとんでもない女だ。

 晶はといえば、俺の足なんかお構いなしに力尽くで締め出そうと、今もなおドアノブを力一杯引っ張っていた。我姉ながら素晴らしいクズっぷりだ。いっそ清々しいほどに。ドアの隙間から見える表情は他人にはお見せできない悪魔の形相を呈している。一瞬相手の必死さに呆気に取られ、それからどうしようもなく笑いが込み上げてきた。俺は思い切り腹を抱えて笑うのを辛うじて押し殺しながら、ドアに手をかけて力を込めた。そして男の腕力に物を言わせてこじ開けてゆく。晶はしぶとくドアノブにしがみついていたが、俺が入れそうな幅が確保されてしまったと悟ると、苦虫を噛み潰したような顔でようやく手を離した。

 よし、勝った……!

 俺はいつぶりかわからない程の勝利を噛み締めた。と同時に堪えていた笑いが決壊した。玄関に侵入した途端、折り曲げた体を震わせながらくぐもった声で笑う俺を、もちろん姉はゴミを見る目で見下ろしていた。

 「いや、姉さんずりーよ…。あれは働く大人のしていい顔じゃねえって。いや、ほんとに面白すぎる。夢に見そう。この先十年はこのネタで笑える」

 「ふざけんな、帰れ!」

 そう叫ぶ姿がまた子供っぽくて俺の笑いを誘った。本人は至極真面目なのがまたおかしくて仕方がなかった。

 「俺を呼吸困難で殺す気じゃないなら、これ以上喋らない方がいい。墓穴だから。大人しく飯でも食ってたほうが賢明だよ」

 そう言って姉の肩を軽く叩くと、ようやく俺は笑い発作から立ち直った。止められないうちにさっさと室内に足を踏み入れてしまう。これでもう簡単には追い出せないはずだ。

 「スリッパとかねぇの?」

 「図々しい。あるわけないでしょ、そんなもの」

 「あっそ。今度家から持ってくるわ」

 そう言ってひらひら手を振ってみせる。

 「…また来る気なのね」

 「そういう約束だろ」

 首を後ろにそらして姉を見ると、玄関で仁王立ちして腕組みしていた。俺に笑われたことであいつのプライドはいたく傷ついたようだ。小さな腕組みはせめてもの威厳を取りこぼすまいという風に見えた。だめだ、面白すぎるし、なんだか可愛くさえ見える。わかってる。俺は少しおかしくなってる。でも、仕方ないじゃないか。何年も不可侵だった領域にやっと今夜入ることができたのだから。今日くらいはしゃがせて欲しい。明日になれば、どうせ嫌というほど正気に戻ることになる。

 その日は結局、俺が簡単な夏野菜のパスタを作った。味は塩が効きすぎて手放しで美味いとは言えなかった。でもまあ、初めて作ったにしてはマシなほうだろう。夕食を摂る前にまた一悶着あったがどうにか姉を丸め込み、食卓につくことができた。晶の食生活がひどいものであることは事前に予想していたが、想像以上だった。キッチンは綺麗すぎて使った形跡すらなかった。水滴の一粒もついていないのだから、いかに普段から役立っていないかよく分かる。幸い、一人暮らしを始める際に両親が一通り買い与えたお陰で、食器や調理器具は揃っていた。それさえもほとんど使われないまま放置されていたのだろう。指を滑らせるとうっすら埃が積もっている。恐ろしい。

 昔から腹さえ満たせればいいと考えているのは察していたが、まさかこれほどとは。このままでは自殺しなくても早晩体を壊すに違いなかった。

 姉は俺の作った物を不味いとも美味いとも言わないまま、さっさと口へ放り込んでいく。早く食事を終わらせて俺を帰してしまおうという魂胆なのかもしれない。食事中はお互いに会話も少なかったが、意外と気まずくはなかった。曲がりなりにも家族として過ごしてきた時間があるからだろうか。

 俺は食事後の洗い物を終えると、早々に部屋を出ることになった。晶の早く出ていけという殺気に気圧されたのは間違いないが、それだけじゃない。食事が終わってすぐに、晶の口から明日も仕事だと聞かされたからだった。金曜の夜だから、多少長居してもいいだろうと高を括っていた。その時になって初めて時計を確認すると、既に夜8時を回っている。時間が過ぎるのが早い。姉は昔からロングスリーパーだ。睡眠時間を削るのは俺も望むところではなかった。結局、自分の至らなさに苛立ちを覚えながらの退出となった。

 俺が帰り支度を終えると、晶はアパートの一階エントランスまで見送ってくれた。まあ、俺を確実に追い出すためについてきたのだろう。表情の険しさからもそれは明らかだった。

 「じゃ、また来るから」

 そう告げた時の晶の苦りきった表情はどんな言葉よりも雄弁だった。『二度と来るな』『鬱陶しい』敢えて言葉にするなら、そんなところだろうか。

 「約束は守れよ」

 微笑んでから背を向けて数歩遠ざかった時、予想外に後ろから声がかった。

 「いつまで来るつもりなの?歩」

 なんでもないような短い問いが俺の核心部分を逆撫でした。気がつくと俺は足早に姉の前へと立ち戻り、その腕を掴んでいた。それは傷のある腕だった。走ったわけでもないのにいつのまにか頭には血が上り、心臓が激しく鼓動していた。体だけがあの日に戻ってしまったようだ。姉が自殺未遂したあの日に。嵐のような怒りが蘇り、俺の内部を蹂躙する。知らない間に腕を掴む指に力が入っていた。やっと僅かな正気を掴んで、深く息を吐き出す。そうしなければ、現在に戻って来られなかった。

「…腕、怪我してるのに。悪い」

 晶は何も言わなかった。ただ、俯いていた。この身長差では相手が見上げてくれなければ俺が屈まない限り、互いの顔を見ることは難しい。その事実が今はなぜかもどかしくて仕方がなかった。口元まで迫り上がった言葉を飲み下すと、努めて穏やかに囁いた。囁きは押し潰され、掠れている。隠しきれない激情に、末尾は震えを残したままだった。

 「傷跡が、無くなるまで」

 本当は、「お前が自殺を諦めるまで」と言ってやりたかった。

 「今度は素直にドア、開けてくれよ。もう足が痛いのはごめんだ」

 その言葉を最後に腕を離すと、再び背を向けて歩み始めた。これ以上この場にいれば、心の内を全てぶちまけてしまいそうだった。後ろを振り返ることはなかった。もしも目が合ってしまったら、今度こそ気が狂うと分かっていた。

  晶から完全に離れると、病室で生気のない顔を眺めていた時のことがにわかに蘇った。あの時、俺は確かに姉を生かすため頭捻っていた。それは間違いない。だが、心のどこかではこうも考えていた。この出来事は姉の数少ない弱点になる。利用できる、と。これは俺があいつに食い込む唯一で最後のチャンスなのだと。この機会を逃せばいずれ、晶はすべてから去るだろうとも。あの日から後ろめたさが影のように付き纏うのは、そのせいだった。俺は果たして、そこまで狡賢くなれるのか。少なくとも今はまだ、確信が持てなかった。曖昧な態度はなによりも晶が嫌うものだった。そんな性根を見抜いているからこそ、あいつは俺に辛辣なのかもしれない。

 もう何度目かのため息が闇に溶けていく。夏の夜は振り払えない悩みと共に、肌にまとわりついていた。晶にもこの苦しみがわかればいいのに。そんな無駄なことを考えてしまう夜だった。

 


(第一章おわり。第二章へと続く。)

 


「アキラの呪い」(5)へとつづく。

 

次話はこちら。

 

 

 

kuromimi.hatenablog.com

 

連載小説・「アキラの呪い」(3)

 

 

 

前話はこちら。

 

kuromimi.hatenablog.com

 

***

 


 姉をそのカフェで見つけたのは、誓って言うが偶然だった。そもそも大学近くのそのカフェに足を運ぶことすら久々だったのだ。普段行きつけのカフェはまた別にあったわけで。

 ていうか、なんでこんな言い訳じみたことを俺が言わなきゃならないんだ。むしろ俺は晶を救ったのだから礼を言われて然るべきだろう。…いや。あり得ない想像をしてしまった。あの件に関して怒り狂って俺の首を絞めることはあっても、あいつが「ありがとう」と口にすることなど、まずないだろう。姉は自分の行動を制限されることを極端に嫌う。地雷を踏み抜いた自覚はあった。目覚めたあの場で一発殴られなかっただけでも、奇跡みたいなもんだろう。

 ともかくも俺はあの日、偶然姉と同じカフェに居合わせたのだ。先にいたのは晶の方だった。あいつは奥の方の席に陣取り、文庫本を手にカフェオレを飲んでいた。見つけた瞬間、まずいことなったと思った。万が一にもかち合えば、嫌な顔をされるのは目に見えていた。そんなわけで俺はできる限り小さくなっていることを決意した。目の端で何度かあいつを捉えながら、注文したブラックコーヒーと一緒にスコーンを齧る。スコーンは甘すぎて、後悔することになった。まあどちらにせよ晶のせいで終始気もそぞろだったから、大した問題ではなかったが。最終的に血のつながらない姉を意識しまくっている自分にイラつき始めた頃、晶が席を立った。俺は不運にも出口近くの席に座っていた。そこしか空いていなかったのだから、仕方がない。奴に見つかりやしないかと内心ハラハラしていたが、そんなものは余計な心配だった。あいつはほぼ真横を素通りし、気がつく素振りすらなかった。それはそれで複雑だと思ったのも束の間、アキラの手首に切り傷を見つけたのはその時だった。それが所謂リストカット跡なのは明らかだった。傷は横に深く手首の内側を切り裂いていた。よく見ると傷は幾つかある。視線がそこに縫い止められてしまったかのように動かせなくなる。そうしているうちにもドアベルがカランと鳴り、姉は店を出て行った。その足取りのやけに軽いことが気にかかった。思えば晶の行動は今日ずっとおかしかった。普段ならこんなカフェに来ているはずはない。出不精な姉はそういうことをめったにしない質だった。しかも、上機嫌だと?あり得ない。あの不機嫌がデフォルトの人間が?考えを巡らせる俺の耳にイヤホンからこんな歌詞が流れ込んでくる。

 


”最後のリボンが指を使わずほどけたの あぶくのように”

 


 ゆらゆら帝国の「ドックンドール」だった。ゆらゆら帝国はもともと晶の好きなバンドだった。この歌詞を聞いた瞬間、俺の中で何かがはまる感じがした。姉の軽やかな足取りは、この歌のような危うさを孕んでいたのだ。それこそが違和感の正体だった。悪い予感が加速する。気がつくと俺は勢いよく立ち上がり、店を出ていた。確実に晶に会う必要がある。あいつの行き先は知らないが、一人暮らし先くらいは把握している。俺は焦りに滑る指でなんとか住所検索をかけると脇目も振らず駆け出した。目的地は徒歩でたどり着ける距離にあるはずだった。イヤホンは相変わらず音楽を流し込む。曲は移り変わり、いつのまにかゆらゆら帝国の「アーモンドのチョコレート」になっていた。

 


“あいつは二度と戻らない  友達いればそれでいい さあみんなで乗ってこうぜ”

 

 

 

***

 

 

「アキラの呪い」(4)へとつづく。

 

 

次話はこちら。

 

 

kuromimi.hatenablog.com

 

連続小説・「アキラの呪い」(2)

 

 

 

前話はこちら。

 

kuromimi.hatenablog.com

 



 

***

 


 8月の夕方は日暮れとは言ってもまだまだ蒸し暑い。うんざりするような暑さだが、俺は夏が一番好きだった。全てのものが色を取り戻し、生き生きと輝きを増して見える。そういえば晶は夏を忌み嫌っていたな、と歩みを緩め、傾き始めた太陽を見やって思う。曰く、全てが鬱陶しいらしい。自分が流す汗も、照りつける太陽も、むせ返るような色彩も。ならばどの季節が好ましいのかといえば、答えは簡潔で「冬」と断言した。なるほどいかにも晶らしい理由と答えだ。あいつは面倒や束縛を殊更嫌う。夏の熱気は押し付けがましくうるさいものだっただろう。

 ところで俺がどこに向かっているのかといえば、晶の下宿先だった。そう、我が姉上が自殺未遂を図った一室だ。あの日からはすでに一週間以上が経過していた。あの日強請った約束を履行するため、この炎天下に歩いているのだった。本当はもっと早い時間にするつもりだった。けれど今日は不運にも、大学の講義が詰まっていた。俺の右手にはそこそこの重量のビニール袋が握られている。中身は夕食の材料だった。晶に夕食の準備は期待できない。それはあいつの家事スキルが残念というのもあるが、何より俺が働いていなくて、あちらは働いているからだった。三個年上の姉は今年会社員として働き始めたばかりだ。あいつの性格なら、食事がおざなりになっていることは間違いない。いままでは嫌がるのを察して何も手出ししてこなかったが、この機に一歩踏み込んでみることにした。だからあながち嘘じゃない。あの時言った「生存確認」という理由は。新卒は大変だと聞くが、見る限り晶にさしたる変化は無かった。家族も俺もそれを見てひっそりと安心していたところに、自殺未遂だ。正直面食らった。このタイミングでまさか、と。というのもあいつが自殺しようとすること自体は、実は俺にとって意外なことではなかった。晶は昔から厭世的でニヒリストだった。もっと言うなら可愛げのかけらもないガキだった。ずっと生きる楽しみや意味を見つけられないように見えた。なぜ、晶は自殺しようとしたのだろう。もしかしたら、明確な理由なんてないのかもしれない。覗き込んでも、そこには果てしない暗闇が座しているだけ。晶もよく言っている。「世間はなんでもかんでも理由を求めすぎる」と。ならばあいつはただ、死にたかったのだろう。だからあいつが病室で目覚めるまでの間、必死に考えた。晶を生かし続ける方法を。そしてやっと辿り着いたなけなしの案がこの定期訪問だった。まったく頭が足りないにも程がある。ありきたりすぎて我ながら悲しくなるほどだった。

 「…困ったな」

 思わず声が漏れた。理由があるならその理由を取り除けば死は防げる。だが、理由がない場合は?どうやって死を妨げればいいのだろう。今まで誰もあいつの生きる意味にはなれなかった。そして、これからもきっとそうなのに。自殺未遂はその証だった。急にどこかからか、虚しさが溢れて握り込んだ手が震えた。あの日、晶が死んでしまっていたら。それは考えるだに身の毛のよだつ想像だった。あの性悪が居なければいけない理由はどこにも見当たらないのに、俺はそれをどうしても許容できない。

 晶が自殺したあの日もそうだった。どうしても放っておけず、挙句ストーカーのような真似まですることになってしまったのだから。

 


***

 

「アキラの呪い」(3)へとつづく。

 

次話はこちら。

 

kuromimi.hatenablog.com

 

連続小説・「アキラの呪い」(1)

 

 

 

第一章 「水無瀬晶の弟」

 

 俺の姉について話しておきたい。
 水無瀬晶は厭なやつだ。無神経で傍若無人でニコリとも笑わない。性悪な女だ。
 姉といっても、血は繋がっちゃいないんだけど。ただうちの母親とあいつの父親が結婚しただけ。よくある話だ。晶と俺とは血が繋がっていない。ーーーそれを俺は喜ぶべきなのかもしれない。あんなに生きづらそうにしてる義姉を見ていると余計に。厄介な性質を、もしも俺も受け継いでいたらと思うとゾッとするし。けど、一方では思うんだ。もしも血が繋がっていたらと。血縁なら彼女を理解できるとは思わない。そんなもんは夢物語だ。親父とあいつの関係を見ても、それは明らかだろう。血の繋がりは単に断ちがたいだけで、問題解決してくれるわけじゃない。むしろ問題を複雑化させてしまう。けれど、その厄介さこそが、俺の望みを叶えてくれるのかもしれない。晶が拒絶しようとも拒みきれない何か。それをずっと欲していた。もしかしたら同じ苗字になったあの日からずっと。家族ならあいつは俺を切り離せない。少なくともそんなふうに、淡い希望を抱くことくらいはできる。よく血は水よりも濃いって言うじゃないか。そうでもなきゃ、姉はいずれ全てを手放す。そんな気がする。彼女の荒野に立っていられるのは最期まで彼女自身だけだ。昔から晶はそういうやつだった。本質的に人嫌いなんだ。全てをぶっ壊したいと思ってる。だから俺は息を潜めるしかない。これ以上彼女の世界から排除されないように。ただ見ることすら、禁じられたとしても。
 そうさ。俺はあいつを手放せない。
 そんなこと、もうとっくに分かってた。
 だからかな、あいつの手首に切り傷を見つけた時に、全てがぶっ飛んじまったのは。予感はしてたんだ。けど、止められなかったんだ。
 おかしくなりそうさ、ほんとうに。


***


俺は躊躇いもなく呼び鈴を押した。
電子音が途切れるのも待てず、立て続けに指を押しつける。うるさいほど呼び出し音が鳴っているはずなのに、一向に相手が出てくる気配はない。住人が不在でないことは事前に知っていた。だが、居留守にしても静かすぎる。
 「姉さん!」
 「開けてくれ!俺だ、歩!」
 自分の大声も聞こえないほど体内では心臓がうるさい。これだけ大きな声を出しても隣部屋の住人が反応しないのは外出しているからだろう。そう決めうちして、俺はしばらくドアを叩きまくった。それでも部屋からは反応がない。悪い予感が耐えがたい苦痛と共に腹から迫り上がってくる。俺はとうとう諦めてチノパンのポケットに手を伸ばした。
 「晶、開けるからな」
 後のことを考えると恐ろしい行為だったが、今は構わない。音を立ててドアが開くと、かすかに水音がする。ただそれだけなのに戦慄した。悪い想像がはっきりと裏付けられてしまう気がして。靴を脱ぎ捨てて浴室に駆け込むと床に投げ出された素足が見え、続いてぐったりと浴槽に体を預ける義姉の姿が露わになった。
 「晶!」
 駆け寄ると、その手首は横に一筋切り裂かれており、浴槽に満たされた水に浸っている。バスダブからはとっくに水が溢れかえり、俺たちを容赦なく水浸しにした。流れた血はこんな時なのに、水中でゆったりと赤い曲線を描いていた。彼女を抱き起こし、もう一度名前を叫ぶが応えはない。目覚めない晶を見て、俺は自分の顔が歪むのを感じた。

 ーーーーーー俺の姉が自殺未遂をした。

 彼女の口に耳を当てると弱々しい呼吸を繰り返していた。スマホを取り出すと、119番を叩き込み耳に当てた。コール音が重なる度永遠のように感じられる。受話器が上がると共に告げた。
「救急です。今から言う住所に救急車をお願いします」
 晶を抱き抱えた腕はずっと、震えていた。手の力を弱めることができない。彼女の肌に傷をつけたくはないのに。ひどい気分で浅黒い肌に食い込む太い指を、ただ呆然と見つめる。嫌になるほど冷静な自分の声が浴室に響いた。

***


 病院に搬送された晶は間一髪で助かった。後十分遅れていたら、この世に姉はいなかっただろうと聞かされ、複雑な気分になった。処置を一通り終えた後、医者は命に別状はないと言い残し、ひとまず退出していった。
 かなり深刻な状態だったはずなのに、晶は医者の予測よりもずっと早く目覚めた。それこそ、搬送された日の夜には意識を取り戻したのだ。つきっきりで晶のそばにいた俺は気が休まらず、一晩中まんじりともしなかった。だから姉の目覚めの瞬間に立ち会ったのは、もちろん他でもない俺だった。
 覚醒して開口一番、晶はこう言い放った。
短い一言には強烈な怒りが濃縮され、恐ろしいほどだった。吐き出された声は地を這う低音で突き刺さる。
 「…よくも邪魔してくれたわね」
 そしてこう続けた。
 「父さんと義母さんには言わないで」
 「言ったら?」
  顔を上げた晶と一瞬の間に視線が絡み合う。美しい猫目がギラギラと危なげに光っていた。
 「私には弟なんていなかった、ってことになるでしょうね」
 それはどんな脅し文句よりも有効だった。両親に事実を告げようものなら、その瞬間から俺の存在は未来永劫、徹底的に無視されることだろう。晶は有言実行を旨とする。他人に興味がないくせに勘だけは鋭い。無意識に1番の弱点を突くようなところがあった。
 すぐに返答しない俺に焦れて、晶は胸倉を掴んだ。体が引き寄せられ、互いの鼻が触れそうな距離になる。
 「いいから!早く言いなさい。あんたは何も見なかった。私はただケガをしただけだって」
 本当は抗うこともできた。服を掴んだその手にはまるで力が入っていなかったから。姉の手を見ると微かに震えている。そこから繋がる手首には幾重にも包帯が巻かれていた。どれだけ自分が痛々しい姿をしているのか、彼女は分かっているのだろうか。
 強がる姉を目の当たりにするうち、無意識に手が伸びていた。わずかに触れた左肩にはうっすらと青痣が残っている。俺がつけた傷だった。
 「もう言ったとは思わないのか」
 「あんたは言わないでしょう。そういう奴だから」
 まるで信頼しているかのような口ぶりに酔いそうになる。本当は分かっている。これは信頼じゃない。彼女はただ、俺を利用しようと手を尽くしているに過ぎない。彼女がいう通り、この展開は予想していたので驚きすらなかった。
 「そうだな。言ってないよ、まだ」
 「なら…!」
 「いいよ、言わないでおく。そのかわり条件がある」
 「は?」
 予想外の展開に晶は硬直した。姉を翻弄する気分は悪くないものだった。たまにはお前もみっともなく狼狽えてみるといい。心の中で俺は毒づいた。
 「俺と会ってくれ。週に一回、姉さん家で」
 「…なにそれ」
 理解不能な生き物を見るような目で見られながら、再び口を開く。
 「自殺しようとしたんだ、それくらい許可してくれなきゃな。生存確認だよ」
 「また邪魔する気なの…」
 うんざりした声でショートカットを掻き上げて、晶は天井を仰いだ。
 「俺はどっちでもいいよ。でもどちらが面倒か、姉さんにはもう分かってるはずだ」
 「あんたが義理だとしても弟なんて。呪われてるわ」
それは嫌々ながらの降参の印だった。
 「性格歪んでるんじゃない?」
 「性格が終わってる姉さんには言われたくない」
 契約成立に俺は釣り上がる口角を抑えられなかった。嫌がる女の顔を見てここまで満たされるのは初めてのことだった。あるいはそれは晶の瞳が俺を映しているからだったのかもしれない。

***

 

「アキラの呪い」(2)へとつづく。

小説・「海のなか」(44)

 

前話はこちら。

 

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次の日も、その次の日も夕凪は俺を待っていた。俺はその姿を見るたび、何か責められているように感じた。そしてようやく気がついた。夕凪がいなかったあの日、自分が傷ついていたということに。そして傷を持て余し、憤っていたということに。 

 俺は夕凪を赦したかった。もともと怒るのは得意ではない。そういえば今までまともに怒ったことがない。自身の怒りにすら遅れて気がつくのだから、当然うまい怒り方もわからなければ、相手を赦す方法も知らなかった。そもそも、赦すなんて傲慢な響きは好きじゃない。他の相応しい言葉を知らないだけで。

 だからなおさら、どんな顔で夕凪と接すればいいのかまるでわからない。気まずいなら夕凪に会わなければいいだけだ。わかっていても、夕凪に同じことをやり返す気にはなれない。そんなことをしても自分が辛くなるだけだと理解していたから。いっそのこと、夕凪が来なければとも思った。あんなに会いたがったくせに。それでもやっぱり、会えば心が動く。喜怒哀楽は相変わらずたった一人の言動に揺らいでしまう。それを知られたくなくて、外に漏らさないよう必死だった。

 情けない内面を隠すことばかりに夢中で、この時期の会話の内容をはっきりと思い出せるとは言い難い。ほんとうに戻れるのなら戻りたいくらいに悔しいが。けれどたったひとつだけ覚えている。なぜ印象に残っているのかは明らかで、翌日の夕凪に大きな変化が訪れたからだった。あの日以降夕凪はどこか吹っ切れたような明るさを発するようになった。そしてそんな夕凪の姿を、俺は初めて目の当たりにしたのだった。

 あの日は、穏やかな雨が降っていた。だからお互い、相手がその場にいるだろうという確信はなかったはずだ。夕凪がいなかったあの日以来、俺が相手を待つことはなかった。雨を避けるため、その日は賽銭箱の横に腰を下ろして各々食事した。お互いが持ってきた傘から雨粒が社殿の乾いた木目を濡らしていたことが妙に印象に残っている。濡れて変わっていく木の色に、薄らと罪悪感を覚えていたせいかもしれない。今から考えると、あんなに雨が降っているのだから、渡すだけ渡して帰って食べるのが普通、という気もする。だが、不思議とそういう流れにはならなかった。

 彼女が粛々と約束を果たす横で、俺はどうして良いのか相変わらずわからないまま、その日も黙々と夕飯をつついていた。これではまるで俺が悪いことでもしたかのようじゃないか。いや。この際その方が気が楽だ。俺が耐えれば、俺が責められていれば丸く収まるのであれば、それが一番手っ取り早い。もうなんでもいいから楽になりたかった。間断ない雨音も気まずさを加速させた。ずっと降り込める雨は薄い帷に覆われるような錯覚を生じさせる。あたりには俺たちしかいない、そんな感覚が芽生えた。

 ただでさえ少なかった会話はあの日を境に更に目減りしていた。以前どう話していたのかすら思い出せない。そんな風に無駄な思考を巡らせつつ、再び堪え難さを飲み下していると久々に夕凪が口火を切った。

 「ねえ、誰かに期待したことってある?」

 あまりに唐突で、俺は食べ物を口に含んだ状態で固まり、挙句おかしな声を出す羽目になった。

 「んあ?」

 だが、次の瞬間にはこれがこの地獄の空気を押し流すチャンスだと悟った。これを逃してはならない。逸る心を抑えて俺は口を開いた。

 「もちろん、そりゃああるよ」

 「じゃあ、反対に期待されることも、ある?」

「ああ」

 すると、夕凪はしばらくの間言い淀み、やがて意を決したように口を開いた。

 「誰かに期待するのって怖くないの」

 「…怖いよ。けど、期待しなきゃ誰とも関係を持つなんて無理だろ」

 「でも怖い」

 短くこぼして両腕に夕凪は顔を埋めた。夜風に靡いた髪がかすかな光を反射している。

 「なら、どっちかだ。誰とも関わらないか。傷つくの込みで踏み込むか。いいことだけ起こるなんて、あり得ない。だって相手も自分もお互いのためだけになんて生きられないだろ?」

 言い切ったあとはしばらく間が空いた。短い沈黙だったが、俺は既に後悔し始めていた。何かまずいことでも言っただろうか。

 「陵って案外冷たいこと言うんだね。そういうこと、言わなそうなのに」

 そう言われて、虚を突かれた気分になった。確かにいつもは言わない領域のことを今は躊躇いもなく言葉にしていた。ここまで羞恥心を捨て、明け透けに心の内を曝け出したのは初めてだった。

 「俺は人を信じてるんじゃない。信じたいだけだ。誰かを信じるのは、裏切られても後悔しないときだけ。だからさ、ほんとは信じてないのかもな」

 「ふうん…私もそうしてみようかな」

 それは独り言のようだった。

 「じゃあ俺、そろそろ帰るよ」

 べらべらと語りすぎたのが急に気恥ずかしくなって、俺はそそくさと腰を上げた。傘を開く音がやけに大きく響いた。背を向けた時、また声がした。

 「陵、これだけ答えて」

 振り向くと、手に持った荷物がガサっと粗雑な音を立てた。夕凪の表情は傘に半分隠れてよく見えなかった。

 「誰かに期待するってことはさ、その誰かを信じてるってことなの?」

 「俺ならそうだよ。でも夕凪。信じてるのはもしかしたら誰か自身じゃないのかも」

 「どういうこと?」

 「みんなお互いに幻想を抱きあってる。俺たちがら信じるのは結局、虚像なのさ」

 「虚しいね」

   「たまに思うよ。俺は俺の思い通りに動いているのか、それとも誰かの期待に沿って生きているのか、って」

 「よくわかんないな」

 「誰かの願いを叶えるってそういうことじゃないか?自分を失うこと。それが時々、気持ちよくもあり、苦しくもある」

 「夕凪は、誰かの願いを叶えたいの?」

 俺はとうとう尋ねたかったことを口にしてしまった。この問いかけは何かを明らかにしてしまうようで、ずっと怖かった。

「…さあ。でも幸せにしたい人は、いるみたい」

「他人事みたいだな、なんか」

「まだ、よくわからないんだ」

 夕凪はその言葉を最後に立ち上がると、今度は未練なく去って行った。水を弾く音が遠ざかってしばらくしても、俺は動けなかった。まるで根でも生えたように。

 「幸せにしたい…」

 いつの間にか復唱していた。声は小さすぎて雨音に揉まれて消えていく。そのワードは俺の知る夕凪なら決して使わないはずのものだった。夕凪は昔から、他者へ与えることには興味がない。そのはずだった。その夜わかった確かなことは、夕凪がいつの間にか大きく変わった、ということだった。俺を置いて、俺の知らない場所で、俺の知らない誰かと。

 「変えたのは、誰だ」

 口にしてからようやく、さっき本当に尋ねたかったことはこれだったのだ、と理解した。愚かで鈍い俺らしい。口の端には歪んだ嘲笑が漏れた。

 独白のような問いかけには、もちろん応えはない。求めても、いない。本当は夕凪が変わり始めていることくらい、とっくにわかっていた。海に向かって叫ぶ姿を見たあの時から。あの日も雨が降っていた。だからだろうか。彼女の剥き出しの横顔が厭に生々しく思い出された。俺はいつでも彼女の横顔や後ろ姿ばかり見つめている気がする。

 俺は彼女を変えたかったのだろうか。

 「…いや。違うな」

 もしも夕凪が俺に変えられるような人間なら。俺はもうきっと、二度とこの場所を訪れることはないだろう。強く、そんな予感がした。つまらない奴に影響される夕凪なんて、いらない。

 いつのまに、こんなに身勝手になったんだろう。我ながら呆れる程だった。でも仕方ないだろう。俺の手なんか、届かない方がいい。

 深いため息と共に、雨の中に踏み出した。雨傘を叩く軽い音はやはりあの日を思わせた。彼女と俺との距離はあの日からなんら変わっていないのだろう。そうでなくては、困る。今更自分の厄介な癖を思い知らされるとは思ってもみなかった。夕凪と関わるとは、虚しさを甘受することだ。だが、俺はそれすら望むべきではなかったのかもしれない。これ以上欲張れば、俺は夕凪を自ら手放すことになりかねないのだから。

 「嫌になるなぁ」

 欲深い呟きは雨に溶けて流されていった。一番厄介なのは、やはり自分自身のようだった。

 

 ***

 

海のなか(45)へとつづく。

小説・海のなか(43)

 

前話はこちら。

 

kuromimi.hatenablog.com

 

***

 

 

 

 境内に誰もいないことを悟った時の心情をどう言い表せばいいだろう。虚しかったわけじゃない。悲しかったわけじゃない。ただ、心底がっかりしていた。今日も当然のように夕凪がそこにいると無根拠に信じていた自分自身に。

 俺たちには約束がない。確信もない。すべて分かっていて、それでも毎晩通うと決めたはずなのに。いつの間に期待していたんだろう。夕凪が現れてから、あの場を立ち去るまでの記憶は曖昧だった。彼女がどんな顔をしていたかすら朧げでそれがひどく残念だった。昨日までは夕凪の小さな変化すら逃すまいと、些細なものまで拾い上げていたはずなのに。俺を揺さぶることがどんなに容易いか、夕凪はきっと知らない。表情ひとつ、声ひとつ、身動きひとつで十分だ。俺はそれが嫌ではなかった。今までの夕凪との交流で得た、虚しさの色合いを忘れかけてしまう程度には。だからこそなおさら、近頃浮かれすぎていたと自覚しないわけにはいかなかった。

 今日の夕凪について、俺がはっきりと覚えているのはたった一つだけだ。境内の裏から出てきた時。あの時の表情だけ。夕凪は驚いて、それから焦ったような恥いるような顔をした。あの顔が忘れられない。あんなもの、見ない方が幸せだった。夕凪にとって自分は取るに足りない存在だという思い込みが解けてしまいそうだ。急な上り坂の後には同じく急な下り坂が用意されている。間違いなく叩き落とされるのならば、その前の僅かな浮上に何の意味があるだろう。もしそうなれば、昨日まで身を浸していたはずの生温い幸せすら、手に入れることはできない。そんな恐れにじわじわと侵食されてゆくのを感じていた。結局はくだらない自己保身だった。いつだって邪魔をするのは俺自身だ。傷つきたくなくて、いつもその時を逃してしまう。いい加減少しは変われたかも、と思っていたのに。過大評価だったみたいだ。臆病は死ぬまで治らないらしい。

 耳の奥には夕凪の約束が染みていた。あの約束に振り回されたくはなかった。去り際の態度の大人気なさが急に恥ずかしくなってきて、俺は足を早めた。もっと笑えばよかっただろうか。もっと話せばよかっただろうか。もっと夕凪を見てもよかっただろうか。ーーーそうすれば少しは夕凪の中に俺の居場所はうまれるだろうか。

 いつのまにか誰かに好かれることばかり考えてしまう。これが俺の悪癖だった。彼女は誰のことも好きにならないし嫌いにならない。あらゆる意味で平等なのだ。そんな独りの後ろ姿が昔から羨ましかった。まるで俺の持っていないものを全部手にしているように感じて。そして、持っているものをあっさり捨ててしまいそうな執着のなさにさえも、いつのまにか惹かれていた。

 次の日から、夕凪は境内に座って俺を待っていた。その姿はまるで許しを乞うように見えた。あの日の出来事に対する複雑な心情がそう見せるのか、それとも実際にそうなのか。それは夕凪に尋ねなければわからない。どうせ俺には意図を測ることなどできない。人は見たいようにしか見ないのだから。