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第六章 「萌芽」
『10月3日 木曜日
今夜はなんだか落ち着かなくて、彼に会いに家を抜け出した。このところは、毎晩会いに行っている。』
夜空を引っ掻いたような頼りない三日月が浮かんでいた。今にも消えそうな感じ。まるで、青みたいだ。
だからわたしは会いに行くのかもしれない。彼が今日もあの場所にいるか、確かめるために。そんな自分に気がつくたび、気持がわるい。わたしもあの人の娘なのだと実感してしまって。もう何も好きにはなりたくないのに。どうしようもなく心が動いてしまう。
水底を漂う海流がわたしの髪の毛を巻き上げて散らしていった。動きがゆっくりと伝わってくる。その感触だけがわたしを現実に縫いとめている。完璧な夢の中でわたしだけが調和を乱している。
「なにを見ているの?」
美しい少年が尋ねた。彼にはきっとわからない。不完全なわたしの気持ちなど。心の片隅で密かにそう嘆く一方でわたしは彼がそうあるように望んでもいた。憧れれば憧れるほどその気持ちだけは尊いものになるような気がして。眩しい何かが自分を染め替えてしまうような。そんな心地。
「この場所は暗いね。月も見えない」
「月が好きなの?」
「好き」という言葉にまた心が揺れる。陶酔的で曖昧な気分が一気に拭い去られていくような不快感。ああ。嫌だ。
「違う…!」
わたしはあの人みたいにはならない。わたしは誰のことも嫌いにならない好きにならない。……愛さない。
気持ち悪い!気持ち悪い!大嫌いだ。
「…そう。ごめんね。もうきかない」
青の声が遠くに聞こえた。
喉の奥に石を呑んでしまったみたいに呼吸が荒くなる。青は優しい。だから踏み込んでこない。彼には、彼だけにはわたしをわかって欲しいと思っているはずなのに。誰よりも彼には理解してほしくない。
最近よく思う。青に出会った頃に戻りたいと。あの頃は彼の優しさに溺れているだけで幸せだった。わたしがわたしでさえなければ、こんな不安も覚えずに済んだのに。
今日、分かったことがある。
わたしがこんなにも不安になるのは、青の優しさに理由がないから。いつも
「青はなぜ、わたしに優しくしてくれるの」
「青とわたしはいつ始めて出会ったの」
そんな疑問が口をついて出そうになる。
けれど、問うことはできない。
出会った時からわかっていた。
問う時は、終わる時だと。
もしかしたら、青自身でさえ知らない問いの答えを知るとき、この心地よさも共に去るだろう。そんなことには耐えられない。だから。
わたしはこの先、どうすべきだろう。どうしたいのだろう。
この場所に来れば幸せになれるはずだったのに。もう、満たされない。青はもうわたしを救えない。青と出会わなければこんな孤独を知ることもなかっただろうに。
耳鳴りがする。水泡が弾けて囁いている。お前と青は別物だと。わかっている。わかっていた。この痛みは夜に沈むにつれて日に日に深化するばかりだ。それなのにきっと、わたしは明日もここを訪れてしまうだろう。青に救いを求めて。彼はきっとわたしを欲しがってはくれないのに。
ああ。どうすればいい。
※※※
小説・海のなか(15)へと続く。
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