KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説・「海のなか」(31)

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前話はこちら。

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

 

***

 


「さて。何を話そうか…」

 リビングのイスに腰を下ろすと、父は向かいにわたしを座らせた。こうして相対するのも久しぶりだった。朝早くから夜遅くまで働いていることの多い父は、家族でありながらほとんど会うことはない。それはわたしがほとんど自室に引きこもっているせいでもあるけれど。いつからだろう。誰かがいる空間に耐えられなくなったのは。それが家族なら、尚更だった。その目で見られるだけで、心に土足で踏み入られるような不快があった。家族は他人だ。よく家族や恋人という名前を、許可証のように振りかざす人がいる。そんなこと、許されるはずがないのに。家族だろうと何者だろうと理解できないものはある。家族だからといってお互いに理解可能なものである必要もない。そうでなくては、おかしい。

 にもかかわらず、両親は家族という幻想を信じる人々の一人だった。もっとも、今はわからない。ここ数年ろくに口を聞いていないのだから。

 目の前の父は、記憶の中より幾分くたびれて見えた。すでに、壮年から老境へと差し掛かろうとする気配さえある。彼の風貌は驚くほどわたしに似ていない。他人だと言えば、そのまま信じてしまうだろう。事実、幼い頃並んで歩いている時にも奇異な目で見られることが幾度かあった。

 その度思ったものだ。わたしは誰の子供なんだろう、と。親としてわたしに接し続けていたのは、間違いなくこの男だった。父がいなければ小瀬家はとうに破綻していた。だが、わたしが母ーーー小瀬眞琴の子供であることは明らかな事実だった。なにせ外見はあの人の生写しだ。親としては何一つわたしを育くむことのなかった母親にばかり、似てしまった。

 幼いわたしは父と、そして祖母によって育てられたのだ。祖母というのは、母方の祖母だ。今は和室の奥で縁取られ、仏頂面を晒している。

 祖母の面影を手繰り寄せるうち、脳裏を少しずつ過去が染め上げていった。わたしは幼い日の何年かを、祖母の家で暮らしていたのだ。それさえも忘れていた。人生上で最も輝いていて、同時に最も忌むべき出来事を孕んだあの時期を。

「夕凪」

 名前を呼ばれ、ようやく過去から覚めたわたしは顔を上げた。

「むかし、高浪の幸子おばあちゃんのところにしばらくいた時期があったのを覚えてるか」

 高浪は母の旧姓だ。おそらく、夢に出てきた情景はその頃の記憶を元にしているに違いない。

「うん」

「じゃあ、何歳から何歳まであそこで暮らしてたか思い出せるか」

言われてしばし頭の中を探ったけれど、どうにも見当たらない。そういう時期があった、ということだけがたしかだ。あとは断片的な場面が浮遊しているに過ぎなかった。始まりも終わりも何処にか消えたように、思い出せない。

 わたしはかぶりを振った。

「……だろうな」

 そう返した父の目はどこか遠くを見ていた。たしかにその目はわたしに向いている。だが、その眼差しは今のわたしに向けられたものではなかった。

「お前があそこにいたのは、2歳から5歳の約3年の間だ。……本当はな、もう少し長くあっちで暮らしてもらう予定だったんだ。そうだな、できればせめて小学校に上がるまでは。俺は仕事で家を空けることが多かったし、お母さんはああいう人だからとても夕凪を任せることはできなかった」

 途方に暮れたようなため息は、思わずといった風情で父の口から吐き出された。

 「だが、その予定は破綻した。なぜかわかるか?」

 すると父は、感情に揺らぐ瞳でわたしを見据えた。

「高浪のおばあちゃんが死んだからさ」

 そう告げられたとき、不思議と激しい感情は起こらなかった。奇妙に凪いだ内面に部品がひとつ舞い降り、しかるべき場所に収まっていった。

「おばあちゃんがどうやって亡くなったのか、それはわからない。死体が見つからないんだ。だから本当は、死んだのかすらわからない。今も行方不明、という言い方もできるだろう。ただ確実なのは、砂浜に打ち上げられた状態で5歳のお前があの夏、発見されたということだ。三日も行方不明だったのに傷も後遺症もなく、な」

 「夕凪。何か、思い出さないか?」

   「今年の夏にそっくりだって言いたいの」

 「その通りだ。俺はあの時、今度こそお前までいってしまったんだと覚悟したよ。……戻ってきて、本当によかった」

   父の温かな優しさは、なぜか気味が悪くてみじろぎした。

 「どうして今まで黙ってたの。おばあちゃんのこと」

 それは、どうして今の今まで過去を忘れていたのか、という問いでもあった。

 「幼い頃のお前は、おばあちゃんがもういないと理解していた。だから、病院で目を覚ましてからは何日も泣いていたんだ。あんな姿は見たことがなかった。けれど、目覚めて三日経った頃かな。ぴたりと泣かなくなったんだ。……しばらくして気がついたよ。お前は、行方不明になったことも、おばあちゃんのことも全て忘れていると」

 父は自分の膝に吐き出すように語った。

 「守るつもりだったんだ。このまま忘れたままでいれば、お前は日常に戻れる。だから…」

 弱々しい末尾は、言い連ねる気力を失った口へと吸い込まれていった。不意に、目の前の男を嬲ってやりたい衝動に駆られる。しかし、その感情はほんの一瞬激しく燃え上がっただけだった。感情は、いつもこうだ。わたしにとって感情とは、臨場感の損なわれた映画のワンシーンなのだ。だからわたしはただ、待っていればいい。そうすれば次の訪れがある。

 ーーーーほらきた。他人事のように思った。

 怒りと入れ替わりにやってきたのは、薄ぼんやりとした虚しさだった。それはひどく馴染みのある感覚だった。

 これは自衛なのかもしれない、と思う。激しい感情を抱くことを恐れているのだ。その激しさによって自分が壊れてしまうことを。そして、己の感情に振り回される母のような女になることを。

 気がつくと、長いため息をついていた。もうこの場にいたくはなかった。父の気遣わしげな視線から逃げ出したかった。今はただ、一人でいたい。思ったより、わたしは神経質になっているのかもしれない。立ち上がると、思いがけず椅子が大きな音を立てた。

 「ありがとう。話してくれて」

 見下ろす父の姿はさらに小さく見えた。頼りない姿を見ていると、何故だか後ろめたくて居た堪れない。自分がこの弱そうな生き物をいたぶっただけのように思えてならなかった。

 ーーーーそれきり、父とは話していない。

 


***

 

小説・海のなか(32)へとつづく。

 

 

次話はこちら。

 

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