先日、久々に電車で外出した折にこれをずっと読んでいた。
「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」
「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー 2」
有名なこのシリーズをわたしはなんとなく今まで避けていた。
というのも天邪鬼なので、これがいい!読んで!と言われると逆に手に取りたくなくなるという性分なのだ。
そんなわけで、流行もいい加減去ったこの時期に手に取っている。
本書は全て、英国にて生活を営む著者の視点から語られる。
英国人の夫と結婚した著者には一人息子がいる。この作品は全2巻だが、基本的にはその一人息子や著者自身、その周辺に起こったことが綴られる。
「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」シリーズでは、著者の息子が中学生になってからの日々を描いている。
が、なんだかちょっとリアリティーに欠けるなと感じていた。なぜなら著者の息子があまりにも大人びているからだ。
これで中学生?と思う。
口にする言葉もなかなかどうして大人っぽい。
なぜ差別は起こるのか。
友人はなぜ自分を追い詰めるような行動を取り続けるのか。
友人と自分の違いをどう扱うべきか。
ホームレスについて
貧困について
人種差別について
いじめについて
etc…
日本ならば高校生でもそうそう考えないようなことを、小柄なティーンになりたてのこの少年は考えているのだ。
自分自身の内面的なことならわたしにも身に覚えがある。しかし、中学に入りたての子供がこんな社会的なことについて主体的に悩む…。わたしにはどうもしっくりこなかった。
おそらくは、いかにも翻訳文学チックな文体も彼が大人びている一因なのだろう。
例えば、英語を訳す際に「he」は「彼」になってしまう。どうしても訳す際に実際より大人びた文体にならざるを得ない。「he」を「あいつ」や「こいつ」と訳すなら別だが。英語は日本語ほど三人称や二人称、一人称の種類が多くない。
だが、このような問題は日本語に訳す際に工夫すればなんとでもなる部分と言える。おそらくこの文体は意図的なのだろう。
ではなぜ、著者ブレイディみかこはこのような翻訳文学らしい、ややクールな文体を選んだのだろうか。
わたしはこの点について、こう考える。
著者があくまで社会の諸問題を考える上でのフィルターとして、自分の息子という存在を描いているからではないだろうか。
作中で何か諍いがあってもどこか引いた視点で我々読者はことの成り行きを見ることが出来る。
わたしも読み進めるにつれ、作中の状況を自分に置き換えていた。だからといって感情移入したわけではない。
あくまで提示された架空の状況を眺めるような、冷静な自分がいたように思う。
このような状況を生み出すことこそ、冷めた文体の効果なのである。
だが、少年が考えている内容が大人びていることには違いない。この理由はどこに求めるべきだろうか。
原因の一つは、英国における教育にあると思う。
「僕はイエローで〜」を読んでいて一番印象的だったのはその授業内容だった。とにかく社会的な問題や出来事について学ばせたり、教養をつけたりする。中学一年にして、社会的な問題を題材にしたスピーチのテストまであるというのだ。
わたしの知る日本の教育とは全く違う。このような状況に置かれれば、嫌でも社会的な問題に向き合わねばならない。
日本では大学にでも行かない限りそんな機会、訪れないのではないか。(それとも日本でも、今時の中学生はそんなことをしているのか?もしもそうならめちゃめちゃ羨ましい。すげー楽しそうじゃん。)
国民性は教育に色濃く反映される。
日本人は基本的に政治に関心が薄いと言われる。
それはきっと議論することを好まない性質の国民性だからだ。政治について語ることは必ずといっていいほど、議論と対立を生み出す。このような状態は一般的な日本人にとって、居心地の悪いものなのだろう。日本では議論屋は煙たがられる。
一方で「ぼくはイエローで〜」から読み取れる英国の国民性は、何がなんでも自分で決めたい感じがする。主体性が強いといってもいい。こんな言い方をしては語弊があるかもしれないが、全員が議論したがり、というかんじ。(少なくとも日本人よりは)
さすがはあらゆる社会的なシステムを産んだ国である。国民の性質とシステムがとてもうまく噛み合っている。
民主主義も他のあらゆる哲学的思想も、あらゆることは日本人にとって輸入概念にすぎない。
それを無理矢理日本にも当てはめているのだから、無理があると言えばそうなのだろう。
そのうち今の体制にガタが来て、日本に合った新たな思想が生まれることもあるかもしれない。
脇道に若干逸れたが、英国の子どもたちが社会的なことに目を向ける機会が多いのにはもう一つ理由があるとおもう。
それは、日本に比べて格段に移民が多いことだ。「僕はイエローで〜」を読んでいる中でもいろいろな人種の人々が登場した。
英国には本当にあらゆる人種が存在するようだ。
この本を以って出かけた日、こんなことをわたしは感じた。
電車が目的地に到着し、わたしは本を片手にホームへ降り立った。友人の姿を探して視線を彷徨わせる。
ーーーー何か違和感がある。
一瞬のちに気が付いた。「ああ、みんな髪が黒いんだ」と。
目の前の光景は、たった今まで潜っていた英国社会とはかけ離れた姿をしていた。
きっと世界的に見れば、ここまで同じ人種がより集まった国もなかなかないのかもしれない。
わたしの「あたりまえ」は、誰かのあたりまえではない。
そんなことに、ようやく思い至った。
見慣れた光景に違和感を覚える。それほどに本書の描き出す社会はリアルだった。
人物はリアリティを持たないが、内容はこの上なくリアル。
このくらいの塩梅が日本人にはちょうどいいのかもしれない。感情を揺さぶられると、私たちはすぐに泣いてしまうから。