KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

読書に「遅すぎる」など絶対にない。

 

先日職場の同僚N氏と雑談していた時、普段本を読まないはずのN氏がこんなことを言っていた。

 


「最近、なんだか本を読むことが楽しくて。でもこんな年になってからおそいよね、恥ずかしい」

 


彼女はわたしよりおそらく20以上は年嵩で、多分母と同じくらいの年代だ。(しかもわたしと同い年の娘がいるそうだ)なのでわたしの方もなんとなく母と同じような感覚で接することが多い。

 


 N氏にわたしは時折本をすすめて読んでみてもらうことがある。現在彼女はモンゴメリの「赤毛のアン」を読んでいるところだ。初めて会った時に無遠慮にも本をすすめたことから、この関係は続いている。(彼女の心が広くて本当に良かった)

 


今まで本を読んだことのなかったN氏。そんな彼女が本を読むことを楽しい、という。

 


わたしにとって誰かが新しいものに出会う瞬間を見届けられることは何よりの喜びだ。面白いし楽しい。心の底からワクワクしてしまう。

そういうことがあるからなにかを他人と共有することはやめられない。無論、N氏がわたしに律儀に報告してくれたことも嬉しかった。

 


しかし、その後に続く言葉に引っかかる。

 

 

 

「年をとっているから、恥ずかしい」

 


とはどういうことだろう。

 


わたしは何事にもその人にふさわしいタイミングというものがあると思う。これは他人と比べられるものでは決してない。逆にふさわしいタイミングを見極めることなく無理に始めれば、楽しめるものも楽しめなくなる。

 

 

 

今では読書を好むわたしだが、昔からそうだったとは言い難い。本当に能動的に読書を始めたのは高校生の頃だったと記憶している。

本を読むことを好む人は本当に幼い頃から本を好んで読んでいただろうか。本好きはなべて幼い頃から本を読書を愛さなくてはならないのだろうか。それは義務だろうか。絶対条件だろうか。

 


いや、一概にそういってしまうのは乱暴すぎる。

 


人は誰でもいつでも読書を始めることができるし、読書を愛することができる。するもしないもなるもならないもその人の自由だ。

 


わたしにとっての読書の開始にふさわしい時は高校時代であった。それと同じくN氏にとってはまさに今が始める時だったのだ。

 

 

 

だから、そんなことを言わないでほしい。

 


今まで言ったことは何も、読書に限ったことではないだろう。

 


何かを始めることに遅すぎることはない、というのは随分と使い古された言葉だが、真理ではないかと思う。

 


楽しい、面白いという快感こそが人生の指針であると信じてやまないわたしにとっては、人生は常に変化していくことこそ醍醐味であると思う。

 


だから、遅すぎるなどということはない。

あるのはふさわしい時だけだ。

 


人はその時を嗅ぎ分ける鼻こそ持つべきなのだ。

 


そんなふうに思ってしまうのは、わたしだけだろうか。

 

 

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