前話はこちら。
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「だめ、サヤ。まだ目は伏せてて!マスカラ失敗する」
愛花がピシャリと言った。我ながら私も往生際が悪い。ここに座ってからもう、15分は経っている。愛花はなおも腰をかがめてマスカラを塗り重ねていた。メガネをとったせいで、全てが霞かかって見える。
ああ。らしくないことをしている。
まだ、わたしの身体の内では不安に心臓が暴れていた。
「ねえ、もう良くない?ほら、この後シフト入ってるしさぁ」
いつもとは違う愛花の様子に戸惑いを隠せないまま、そうボヤくけど返事はない。なぜ私たちが空き教室でこっそりメイクなんかしているのかといえば、それは全て沙也の気まぐれのせいだった。わたしはただ、開会式の余韻も去らないうちにここに連れてこられただけ。ここにきて勢いよく引き戸を閉めると、振り向いて愛花は言った。
「サヤ、メイクしてあげる」
「え?誰が誰に」
「あたしがサヤに」
あの時の愛花には逆らいがたいものがあった。普段だったら言ったはずだ。「嫌だ」と。なぜ私は委ねてしまったのだろう。それだけがわからない。こんな芋くさい女子を飾り立てたところで、高が知れているだろうに。
きっとこんなどうしようもない気分、愛花にはわからないだろう。昔からそうだった。ひらひらのスカートもたっぷりとしたフリルも甘いピンク色も輝くアクセサリーも。全てわたしには縁遠いものだ。だからこそ、それ以外のことには一切手を抜かなかった。だって、わたしにはそれしかないから。
そばかすの目立つ肌も、ひとえの小さな目も浅黒い肌も。みんな昔から大嫌いだった。何より嫌いだったのはこの長く黒い髪だ。わたしの髪はずっと長いまま。それはどこかで女らしさを諦めきれない自分の証明だった。この髪は、わたしの弱さだ。
「よしっ!できた」
突然、そんな声で物思いから醒める。気がつくと、目の前には鏡があった。
「どお?いいかんじにしあがったでしょ?言ったじゃん。あたしが似合わせてみせるって」
手鏡の向こうでは、愛花が自信ありげに笑っている。鏡越しに目が合った。
「……悪くないね」
「でしょ?」
「サヤはさ、カッコいいけど。そこがいいとこだけどさ。だからって、外見までそれに合わせることなくない?…最初から似合わないなんて、決めつけるのはもったいないって」
まるで別人みたいな愛花の声がする。普段より、ずっと大人びて落ち着いた女の声。わたしはこの子のことを何にも知らないのかもしれない。
「愛花ってさ…なんか、すごいね」
「そうなんだよね。なのに誰も褒めてくんない。みんな目ぇ腐ってんね」
「そろそろ行く?模擬店の様子も気になるし」
私がそう言うと、愛花はどこかからかブラシを取り出した。
「いや。ついでに髪の毛三つ編みにしよう。ハーフアップでもいいけど、どっちがいい?」
見上げてみると、その目は真剣なままだ。なぜか、その様子に笑いが込み上げてくる。
「いいよ。愛花の好きな方で」
仕方がない。もうしばらく遊ばれてやろう。背をもたせかけると、古い椅子はギッと軋んで抗議した。
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海のなか(17)へつづく。