KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説・海のなか(12)


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前話はこちら。

 

 

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※※※

 

 目を細めて黒く染まった海を見つめていると、夜風が渡る気配がした。夜があたしを呼んでいる。水平線の向こうでは、夕日の名残が溶けて無くなろうとしていた。夜と昼のあわい。空は夜にもなりきれず星を煌めかせたまま一方は白み、また一方は濃く陰りはじめる。この時間帯が一番好きだ。名付けることのできないこの瞬間が。宵闇の空に鱗雲が白く浮き上がり、何か怪物の群のように見えた。

 『今がいちばんコワイ時間』

ここでなら、あたしはあたしのままでいられる。純粋に、あたしのままで。

 夜の闇を溶かしたような液体が目の前に満ちて、手招くように揺れていた。陽の光はもうここには届かない。揺蕩う波に合わせてあたしの心もザラつく。危ういことをしている。そうわかっていながら、やめられない。夜はあたしの時間だ。夜の中でしかあたしは呼吸できない。

 この時間は何にも替え難かった。皆はこんなあたしがいるなんて、思いもしないだろう。あたしがあたしを覗く時、それは暗い底のない穴に見つめ返されるのと似ていた。誰かがこんな自分を受け入れてくれるなんて。そんなこと望めないくらいには、あたしは醜い。袋小路にいるのだ。死ぬまで逃れられない、行き止まりに。

 すぐそばに停泊している船がコゴン、と音を立てた時、一馬の声が降ってきた。

 「ほら、これでよかったんだろ?」

 振り向くと、カップに入ったアイスクリームが差し出される。「マキノ」のたまごアイスはあたしの昔からの好物だ。一口含むと、優しい甘さが舌の上に広がっていく。甘すぎないこの味が好きだった。一馬が無造作に左隣に腰掛けた。横に視線を向けると、海面の上をぶらぶらと揺れる大きな足が目に入る。恐らくまた背が伸びたのだろう。出会った頃は、小柄な体に不釣り合いな大きな足が目についた。けれど、中学3年くらいからだろうか。みるみる体格が足に見合うように変化し始めた。まるで別の生き物のように。あたしを置き去りにするように。あたしの目はシャツの袖から剥き出しになった筋肉質な腕の線を辿っている。なんとなく悔しい。だから、誤魔化すように言った。

  「ありがと。やっぱりおいしい」

 「それ、ほんと好きだよなぁ」

 半ば独り言のように一馬が返した。この低い声にも未だに慣れない自分がいる。

 「ちょっと久しぶりだよな」

 「え?」

 「こうやってあうの、だよ。つーか、俺ここに来んのも久しぶりだわ」

 「ああ…」

 あたしは毎日ここを訪れて海を眺めている。それをなぜか一馬には言えない気がした。

 一馬とは高校から学校が分かれた関係で前ほど会えなくなった。だから、時折こうやって会っている。誘うのはいつもあたしから。会う場所はこの船着場。もう一年以上にもなる。

 なぜだろう、無性にこの繋がりを握りしめていたいと、思ってしまう。そして、思うたびあたしは何かに負けているような気になる。

 「つーか、またそれ食べてんの。いい加減胸焼けしてくるわ」

 なんとなく居心地の悪い方へ話が向かっている気がして、あたしはそう言った。一馬の左手には特大のパンが一つつかまれていた。見れば見るほど意味不明に甘さを重ね掛けしている代物だった。ホイップクリームとバナナが挟まれたコッペパンの上にナッツとキャラメルソースと苺ジャムとチョコスプレーがこれでもかとトッピングされている。確か中学の頃もどこで探してきたのかというようなトンデモパンを毎日買い食いしていた。奴は甘党の偏食しかも大食らい。好きだと思ったものは嫌いになるまで食べ続ける癖があった。

 大きな口がパンの端をかじり取る。ホイップクリームがその口につくのも厭わずガツガツと喰っていく。見る見るうちに半分ほどになったそれを片手で弄びつつ、口の中にあるものを一気に飲み込むと一馬が言った。

 「るせーな、食い物くらい俺の好きにさせろ。甘いもん食ってねーとやってらんねーよ。どうせすぐ腹減るし」

 「みてるこっちがしんどいわ。てか、そもそも美味しいの?想像するだけで地獄みたいなんだけど」

 「はあ?旨くなきゃこんなに食ってるわけねーだろ」

そう言って大口を開ける一馬に

「待った!それ一口でいこうとしてんでしょ。汚い。やめて」

 というあたしの声も虚しく、ブラックホールさながらパンは一馬の口へと飲み込まれていった。全く、信じられない。

 「…ほんと、相変わらず味覚が残念っていうか。ゲデモノ喰いだよね」

 「ほっとけ」

 「そんなに甘いものが好きなら砂糖でもかじってればいいのに」

   「おいおい。おまえ切れ味増してねーか。そんなんじゃすぐ化けの皮はがれんぞ。どうせ高校じゃ猫被ってんだろ?」

   「ははっ。べつに猫なんかかぶってないし。あれもあれであたしの素だよ」

   「嘘つく気があるんならもうちょいマシな嘘つけ。みえすいてんだよ。隠す気もないんだろーが」

    「ふん…わかったようなこと言わないでよね」

 こいつのこういうところが嫌いだ。昔から。一馬とは中学からの付き合いだ。一年の頃、同じクラスだったことがきっかけでなんだかんだ今まで続いている。いや。本当は引き止めているのかもしれない。あたしと別れたあの時、本当は離れようとしていたのかもしれないのだから。一馬とは中学2年のころ一年間付き合っていたことがある。とは言っても友達の時とほとんど関係は変わらなかったけれど。せいぜい手を繋いだりした程度。遊びがデートという名前に変わっただけ。キスすらしなかった。

 だからいまだにわからない。なぜ一馬と付き合っていたのか。なぜあいつはなにもしようとしなかったのか。何度かそういう空気になった記憶はある。けれどそのたび一馬はそんなものなかったかのように振る舞った。それでもあれがあたしにとって一番長い交際なのだ。いや。あんなだったから長続きしたのか。

 すっかり忘れていたはずなのに幾重にも重ねられた薄い包が剥がれて中身が露わになっていくようだ。

 あたしが友達に戻ろうと言った時、一馬は

 「そろそろだろうと思ってた」

 そう言ってあっさり別れてしまった。文句一つ言わず。理由すら問わず。そのいつにもまして無表情な何でもわかっているみたいな面が気に食わなくて仕方がなかった。あたしにだって、他にも付き合った男子くらいいたけれど、その誰よりも後腐れなく嫌にあっさりとしていた。どうして今まで忘れていられたのかわからないくらいだ。

 そもそも始まりからして曖昧だった。中学一年の終わりくらいから一馬とあたしがつきあっているという噂が立って、それをきっかけになし崩し的に彼氏彼女になったような。おぼろげながらそんな記憶がある。終わりはあれほど鮮明に覚えているのに。

 「おい、どうしたんだよぼぉっとして」

 視線を上げると思ったよりも近くに一馬の顔がある。あたしはとっさに一馬の頬を思い切り押さえつけて向こうへ押しやった。さっきまでの思考を全て読まれてしまいそうな気がして。

  「近い!」

 わざと怒鳴りつけるように言ってから、一つ息をつく。こんなあからさまな誤魔化しなんて、こいつにはきっと意味がない。けれどそうせずにはいられないのだった。

 「……ちょっと昔のことを思い出してた。昔の一馬は可愛かったのに今はゴツくなったなぁって」

 嘘ではなかった。あたしはいまだにまだ背の低かった頃の一馬の姿をなぜかしっかりと記憶していた。あたしと付き合っていた頃の少年を。

 


(海のなか13  へとつづく。)

 

次話はこちら。

 

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詩・自由との契約

私にとって過去は恥

私にとって過去は後悔の墓場

私にとって過去は振り返ることのできない何か

 


懐かしくはない、何か

 


私にとって未来はおそいかかる怪物

私にとって未来は未知の恐怖

 


私は未来に期待しない

私は今に全てを捧げながら

最高の生き方をただ求め続けている

 


この歩みには終わりがない

明確なただひとつの正解もない

最高に気持ちいいじゃないか?

 


私は快感に従う獣

私が服従させられるのはこの直感と快感だけ

 


私は知っているのだ

 


この先から幸福の匂いがすると

 


私だけは私の幸福をわかっている

私だけは私と約束している

 


信じることを

どこまでも追い求めることを

そして、決して裏切らないことを

 


誰よりも 確かに

小説・海のなか(11)

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***

 


 外に踏み出すと、すでに薄暮が降りていた。あれが最後の夕日だったらしい。と、殊更に赤く染まっていた夕凪の頬色が頭を過ぎる。違和感を覚えて掌を上に向けてみると、僅かに濡れる。霧のような雨が音もなく降っていた。思わず顔をしかめた。雨に濡れるのは好きではない。眼鏡をかけている身としては尚更だ。

 舌打ちでもしたい気分で走り出した。何かの報いを受けたような気がした。夕凪の家からそう遠くない距離に我が家はある。だからといって全く濡れないというわけでもない。今日に限っていつもは忍ばせている折りたたみ傘を抜いていた。辞書が嵩張るせいだった。高校に入ってから何度電子辞書が欲しいと思ったかしれないが、親には言えるはずもなかった。うちは決して裕福ではない。経年劣化の激しいものにかける金はなかった。

 久々にくさくさした気分を抱えながら走っていると、赤い傘が目についた。道の反対側を小学生くらいの女の子がこちらに向かって歩いてきていた。瞬間、傘の影に隠れていた少女の顔がほんの少し見えた。

 気味が悪いほど美しい少女だった。まだ幼いのに完成されすぎているのだ。好き嫌いを飛び越えて見るものを惹き込み、挙げ句の果てには堕落させてしまう、そんな魅力に満ちていた。しかし、その魅力は何も優れた容貌からのみ発しているのではなかった。少女の右頬は古傷で縦に切り裂かれていた。この傷が重要だった。傷がある事で美貌は確実に退廃的な引力を増していた。

 少女とすれ違う一瞬、こんな声が聞こえた。

 「あれが此度の犠牲か。楽しみだ。楽しみだなぁ。海神もお喜びになろう。ふふ。ふふふ。ふふふふふ」

 暗い歓びを含んだ女の声だった。足元に忍び寄るような低い響きに足が竦む。首筋が逆立つのを感じ、とっさに振り向くとそこには誰もいなかった。

 気のせいだと思いたかった。けれど震える体の感覚はあまりにも生々しい。目を凝らすように赤い傘と少女の姿を探しても虚しいだけだった。どれほどの時間そこに立ち尽くしていたのかはわからない。けれど、気がつくと私はもう自宅の玄関に立っていた。背後から聞こえる雨足は強い。重く濡れた前髪からは滴が滴ってローファーを濡らしていた。

 「…シャワー、浴びないと」

 自分の言葉が空虚にきこえる。この胸のざわめきがそんなものでは治らないことは確かだった。脳裏にはまだ、少女の呪いのような美しさが褪せることなく染み付いていた。なぜかはわかっていた。私は昔からあのゾッとする感じを時折味わっていた。

 あの少女は、そう。

 どこか夕凪に似ていたのだ。

 


***

 

(海のなか12へとつづく。)

 

次話はこちら。

 

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小説・海のなか(10)

 

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前話はこちら。

 

 

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 問いが口を離れてから、随分と長い空白が訪れたように感じた。それは問いかけ自体が無に帰っていく様な時間だった。奇妙だ。この沈黙は重くもないし、ましてや心地よくもない。だから私もなんだかまた話し始める気にもなれず、ただ、だらだらと味わっていた。夕凪の心のあり様に引き摺り込まれていくような、そんな感じだ。気配がひたひたと場を侵していく。

当の夕凪はというと、窓から見える庭を眺めていた。夕凪は何かを考えている。それしかわからない。横顔からは痛々しいほどの一途さだけが読み取れた。

 誰だろう、この女の子は。

 不意にそんな思いが頭をもたげた。そうだ、こんな子は知らない。私は見知らぬ横顔に無言で視線を注ぎ続けた。何故こんなにも惹かれているのだろう。よりにもよってあの夕凪の表情に。

「ある人に会ったの」

 夕凪がようやく言葉を発したのは、待っていることすら忘れてしまった頃だった。にもかかわらず、夕凪の言葉はひどく重く響いた。心が我知らず歓びに震える。その音色にはいつまでも記憶していたいと願ってしまう切実なものが封じ込められていたから。

 そして、それを耳にした時、私は唐突に理解したのだった。今、初めて夕凪と本当に話したのだと。彼女の言葉を今、初めて受け取ったのだと。わたしはわずかに変化する彼女の唇を見つめていた。

 「…それが忘れられないの」

 いまだ衝撃から醒めていなかった。息をすることも忘れて食い入る様に夕凪の表情を追うばかりだった。言葉の表だけならば、恋をしたのだと言われている様なのに、夕凪の表情はそれを裏切っていた。こんな静かな表情で人は恋の始まりを告白するものだろうか。もっと浮き足だった何かがあるはずじゃないのか?少なくとも私にとって恋とはそういうものだった。

 「どんな人?」

 問いが私の口を滑り落ちていった。聞いてどうするつもりなんだーーーと、問うと同時に思った。

「ひとりぼっちのきれいなひと」

「彼は私に優しくしてくれる。けれどなんにも教えてくれない。わたしにはなんにも…」

 押し殺した様な歪みが夕凪の声に聞き流すことのできない重みを与えていた。耳の奥に溜まっていく響きと想いに支配されてしまいそうだ。怖いほど惹き込まれるのはなぜだろう。そう考えてハッとした。気がついたからだった。いつのまにか夕凪と自分を重ねて合わせていたことに。

 人間関係ってやつはいつもそうだ。触れたくて堪らないものに触れようとすること。そんな感情が原動力だ。にもかかわらず、無理に触れようとするとすぐに壊れてしまう。きっと夕凪は触れたいという感情を持て余しているのだろう。きっと初めて誰かに対してそんな欲求を抱いたのだ。

 そう考えてから、不意に陵のことが頭を掠めた。もしも、夕凪が今抱いている感情が恋でないとしても、夕凪の初めての欲求を引き出したのは紛れもない「誰か」なのだ。ずっと夕凪を見てきた陵ではなく。

 あいつでは無理だ。心のどこかでそう分かっていた。陵は意識的に影響を及ぼすことをしないから。無意識に与える影響は別として。そっとそばで見守る。それが陵の優しさだ。そういうところを私は認めてもいるし軽蔑してもいた。

 けれど他人の中に残ろうと思うなら、強力なものが必要だ。特に、夕凪の様に内と外をはっきりと分けている人間にはーーー。彼女はよほどのことがない限りその門扉を他人に対して開くことなどしない。いや、私は一度としてその戸を開くのを見たことがなかった。壁を破ることは容易ではないはずだ。打ち壊してしまうほどの乱暴さがないならまず不可能だろう。ただ見守るだけの優しさなど無為に降り積もるだけで見向きもされないに違いない。

 わかり切ったことだ。すべて理解した上で何も言わなかった。

 何より陵は夕凪のことをわかっていない。夕凪の気持ち悪さも、強固さも。なにもかも。恐らく知らない方が幸福なのだ。そうすれば憧れていられる。そんなあいつの察しの悪さも神経を逆撫でした。だから、目が離せない。けれど、夢を見るような幼い恋にはこんなあっけない終わり方がふさわしいのかもしれなかった。

 「ねえ、沙也ちゃん。どうすればもっとあの人に近づける?どうすればもっと…」

 またしても沈黙を破ったのは夕凪だった。今日はよく喋る。まるで別人みたいに。今まで声も忘れてしまうほど話していなかったのに。彼女をこうまで突き動かすのはやはり「あの人」なのか。夕凪は今までで一番人間らしい顔をしていた。紅潮した頬には生気が滲み、透き通るような肌を美しく魅せている。目には光が宿り、いつもの陰りが消え失せていた。

 「……そばにいるといい。何も言わずただそばにいて、その人が自分のことを話していいと思うのを待ち続けるしかないよ」

「それだけ?それだけでいいの?」

「それだけ。でも、焦っちゃだめだ。押し付けてもだめ。ただ待つこと。それから、自分のことを話してあげるといいかもね。相手のことを知ると自分のことも話したくなっちゃうもんだからさ」

「わかった…」

 夕凪はそう短く答えたきり、何も言わなかった。いつのまにか赤く変わった陽光が差し込んでその顔を染めている。知らないうちに長い時間が経ったようだった。彼女が何も言わないので、私の方もなんとなく気まずい。目の前のカップを掴むと一気に残りを飲み干した。冷め切った紅茶は味気なかった。

 「そろそろ帰るよ。ごめん、長居しちゃった。お茶ありがと」

 半ば立ち上がりながらそう言うと、

「え、あ、うん。玄関まで見送るよ」

 夕凪もつられてもたもたと立ち上がった。

「いや、いいよ、ここで。」

 さっさと立ち上がると、一目散に出口を目指す。幼なじみにとどめを刺してしまったような後ろめたさが足を早めさせる。あれで良かったはずだ。何もしなかった陵が悪い。私は誰の味方にもならない。誰のことも特別に思わない。誰のことも関係ないーーーー。

 変わってしまった夕凪は「悪くない」。

 私はふと足を止めた。喉の奥からまだ上ってくる言葉があった。

「今の夕凪、すごくいいと思う。がんばって、ね」

 本心だった。夕凪をこれほど近しく感じた事は今までになかった。

「ありがとう、沙也ちゃん。わたしもそう思うんだ」

「そう。ならよかった」

 口にはまだ苦い味が広がっていた。後悔のどうしようもない味が。私は正しいはずなのに。

 本当に、無駄な事ばかりしている。

 


***

 

海のなか(11)につづく。

 

次話はこちら。

 

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小説・海のなか(9)

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***


 到着してしばらく経っても、まだ小瀬家のインターホンに手を触れることを躊躇っていた。夕方とはいえ、まだ秋になりきれない日差しは首筋をジリジリと焼き始めている。何処かからか染み出してきた汗が首筋へ伝っていくのを感じながら一人歯噛みした。

 いい加減情けない自分に嫌気が差してくる。はっきりしないのは嫌いだ。時間を無駄にすることも。選択の余地がないのなら答えは一つしかない。そうわかっている、はずなのに。

 見上げると大きな屋根の二階建てがのしかかってくるような気がした。二階の一番目立つ場所にはお姫様の部屋を連想させる大きな窓にレースの繊細な影が見える。夕凪の部屋だ。この場所に来るのは小学校を卒業して以来だった。以前はこの家で陵と二人遊びに来ることも度々あった。あの頃のようにはいかない理由は分かっていた。分かってしまったからこそ、私はここを徹底的に避けていた。単に夕凪が理由だと言うのではない。それ以上にあの母親とこの家が問題だった。

 眉間に強い力が入っているのがわかる。ここまで心の奥を鷲掴みにされるような嫌悪は久しぶりだった。それはきっと、幼いあの日幾重にも積み重なったこの場所での経験のせいなのだけれど。

 一つ大きく息を吐いて、私はとうとうインターホンを押した。音はしない。代わりにマイクからざざっと音が漏れて、女の声がした。

 「…はい」

 雑音が激しくて誰の声だかわからない。大人なのか子供なのかもはっきりしない。心の隅で母親でないことを願いながら話した。

「すみません、沙也ですが。お久しぶりです。夕凪さんのお見舞いに来ました」

  「えっ!」

 そんな声と共にブツン、とマイクが切れた。そして足音と共に白いドアがガチャリと開き、夕凪が少し顔を除けた。どうやら話していたのは夕凪本人だったらしい。正直かなりホッとしながら右手に持ったものを顔の横で振って見せた。

 「夕凪、連絡物」

 パジャマ姿の夕凪はおずおずと門の前までやってきて受け取った。

 「えっと…ありがとう」

  気がつくと私は会話の糸口を探している。沈黙を気まずいと感じ始めるこの一瞬が苦手だった。

   「今日、一人?」

 「うん。まだお父さんもお母さんも帰ってない」

「そっ」

 無言になる一瞬、自分の舌が気持ち悪く空回るのがわかった。

なぜあんなことを口走ったのか、わからない。自分のことなのに。でも。多分。

 血迷ったのだ。

 「ちょっと上がっていってもいい?久しぶりだし」

 


***

 


 小瀬家の内装は、前見た時よりもさらに少女趣味に飾り立てられていた。おそらくは夕凪の母の趣味なのだろう。白とピンクを基調とした内装の至るところにフリルやレースがびらびらと揺れていた。ソファーに置かれたクッションひとつとってもどこで探してきたのか、と問いたくなるほどの密度でフリルが施されている。ルームフレグランスのせいなのか、ムッとするような甘ったるい匂いがした。    

 毎日こんな空間にいるのかと思うと堪え難い気分になる。生活の場としては少々不適切にも思えた。少なくとも、この空間で寛ぐ気になる人は少ないだろう。飾られた花々は白く可憐なものばかりだった。けれど到底趣味がいいとはいえなかった。

 私は出された紅茶を一口含んで手元のティーカップに目を落とした。白地にピンクの花が絵付けされているのに加え、ソーサーの真ん中ではチワワがきらきらしく微笑みかけてくる。ちょうど、あざとく可愛いらしく加工された動物の写真を見た時と同じような嫌悪を感じた。せり上がってくるものをなんとか口の中の液体と共に流し込む。やはり、悪趣味だろう。少なくとも私とは相入れない。

 ティーカップでチワワを押しつぶすと、少しだけ気が済んだ。上目遣いに向かいを盗み見ると、ゾッとするほど不調和な光景だった。目の前に座っている少女は驚くほど背景から浮いている。そこだけ別世界のようだ。私だって幼なじみでなかったら、この家が夕凪の生まれ育った場所だなんて信じないだろう。それくらい、この二つは似合わないこと甚だしかった。

 おぼろげな記憶の中の夕凪の母と夕凪とを重ねてみる。外見だけで言うならば二人はそっくりだった。クセのない細い髪、透き通るような白い肌。華奢で薄い身体。しかも互いに血のつながりを濃く感じさせる顔立ちだ。それだけに中身の違いがはっきりと強調されるようでもあった。

 夕凪は昔から情動が薄い。まるで母に全てを吸い取られたかのように。もしかすると、それこそが彼女なりの身を守る術なのかもしれないけれど。もしも自らの意思や欲求を曝け出せば母の個性とぶつかり合うことは必至だとこの家を見ただけで想像できた。その衝撃に夕凪が耐えられるとは思えない。

 本当に、夕凪は昔から穏当で物静かでなにも言わない。

いらいらさせられる。

 苛立ちを押し流すようにもう一口紅茶を飲んだ。こんなこと、思いたくはない。善人のふりをして他人を憐んで優越感に浸ることほど嫌らしい行為はないのだから。なにもできないなら、せめて気がつかないふりをすべきだ。そして憐むことをしないのであれば、当然私は問わねばならない。

 「ねぇ、なんで今日休んだの?」

 

 

(海のなか10につづく。)

 

次話はこちら。

 

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詩・雨音

雨の音が染み込んでいった いつかの午後

 


わたしはひとりだった。

 


どこかでささやきのように

 


ひっそりと喰べている雨を感じながら

 

 

 

それまでわたしの中は騒がしかった。

 


雨声とはまた違って

 


うるさく やかましく 際限がなかった

 


雨がすべてを喰ってゆく。

 


何もかも すべて

 


あとには何一つ残らないほど 雨が満たして

 

 

 

雨のささやきに耳を澄ましながら

 


わたしはひとり 深く息をした

詩・行き過ぎしもの

大切なものは 

一呼吸ごとに くすみを増して

 


あの時の感情を もう取り戻せない

 


どうしようもないほど 煌めいていた一瞬

 


あの一瞬を 買い取るために

 


なけなしの稼ぎを費やして

 

 

 

そう 本当に欲しかったのは 

これじゃない

 

 

 

でもね

あの快楽があの苦しみに見合うかどうかすら

わたしにはわからないの

 


いつのまにか増えていった 要らないもの

 


わたし ずっと待っているの

早く来ないかしらって

 


いつか

 


わたしも要らなくなる

 

 

 

そんな瞬間を