KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

エッセイ・『明星』

 

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 その日はひどく疲れていて、かなり早く床に着いたのを覚えている。

 ところが、なかなか寝付けない。家族の生活音を遠く聞きながら、何度目かの寝返りを打った時、こんな会話が始まった。

 「大変ご迷惑をお掛けいたしました」

 「いえ…早くご対応いただいてありがとうございます」

 業者の謝罪に私は応えた。

 一人暮らし先に業者を呼んで壊れたドアストッパーの、修理を依頼したのだ。そして作業はどうやら完了し、これから業者は帰ってゆくらしい。代金は補償があるためかからない、とのことだった。

 帰ってゆく姿を見届けようとした矢先、業者の男性はこう告げた。

 「お客さま、当方の従業員より少々お話がございますがよろしいでしょうか」

 「はい。どういったことでしょうか」

 すると、見知らぬおかっぱの男性が進み出てきていきなりこう言った。

 「あの…うるさいのはどうにかなりませんか」

 「は?」

 聞き返すと、おかっぱ男は怒りを露わにしてさらに言い連ねた。

 「だからっ…ドタバタしたり、大きな声を出したりをやめてほしいんです」

 彼の声は大きく、ほとんど恫喝に近かった。思わず気圧されてしまった。だが、何が何やらさっぱりわからない。救いを求めておかっぱの上司らしき男性に視線を送ると

「お客さま、彼はお客さまの隣の部屋に住まわせていただいておりまして…」

 なるほど。と腑に落ちつつ、一番に思ったのは「痩せなければ」と言うことだった。私の部屋は一階にある。なのに隣まで足音が響くとは尋常ではない。間違いなくこの一月ほどの体重増加のためだろう。早急に痩せねばならぬ。

 「はあ。すいません、気をつけますね」

 そんなことを考えながらだったので、返事はやや間が抜けたものになった。それがおかっぱの気に障ったのかもしれない。

 「本当に気を付けてくれるんでしょうね?!」

 「はあ…」

 「あなたは僕がどんな思いでこちらに引っ越してきたかわかっているのか」

 と言い始めた。その後も色々と話していたが細かくは覚えていない。面倒臭くなったからだ。要約すると男性には精神的な障害があり、ツテを頼ってこちらになんとか職を探してきたというような話だったような。

 それに、この時点で私はあることに気がつき始め、おかっぱの話どころではなかった。それは、これは夢なのではないかということだった。私の住処は相当な田舎にあり、こんな振る舞いをすれば身の置き場を失いかねない。村八分である。そう考えると、おかっぱの振る舞いはいささか非現実的だった。というか、夢であってほしい。なんか苛々するし、もう面倒臭い。

 夢だといいな〜と思いつつ、気がつくと、私は早口で捲し立てていた。

 「あなたの事情はわかりました。けど、それって私に関係あります?ありませんよね。同情してほしいってことですか?私は今、改善しますと申し上げましたが今それ以上のことをできるとは思えません。」

 とか、云々カンヌン。とにかく相手をものすごい勢いで罵倒していた。あーやっちまったぜ。と思っていると、なにやら音が聞こえた。蛙の声である。ゲッゲッゲッゲッと切間なく鳴いている。ひどく馴染みのある音。

 するとようやく闇の中で目が開いた。やはり、あれは夢だったようだ。あれだけリアルな夢なのに、目覚めた途端おかっぱの顔も思い出せなくなっていた。家人は寝静まったのか、蛙以外の音は無かった。

 時折こうした悪夢を見る。私の夢はいつもつまらない。現実的で起きている間に起こるようなことばかりだ。しかも大体辛いことだったりする。これはわたしにとってなかなかのコンプレックスだった。夢なんだから空くらい飛びたい。(崖から落ちたことはある。所謂自由落下というやつだ)なのに、そんなささやかな望みは一度として叶ったことがない。少なくとも、わたしは覚えていない。

 またしょうもない悪夢を見たことが悔しいからか、そこからしばらく寝付くことができなかった。1時間もすると諦めの気持ちが出てきて、仕方なく、身を起こすことにした。真っ暗なリビングに向かうとすでに空は白み始めている。だが室内は依然、夜の闇に満たされていた。眼鏡をかけない朧な視界では明るい時でさえ、像を正確に捉えることはできない。暗闇ならなおさらだった。だが、わたしは何事もなくリビングの中央へ歩いていった。勝手知ったる我が家である。見えなくてもどうということはない。どこに何があるかは把握している。こういう時は、自分がプチ超人になったようで気分が良い。昔から、夜は気分が高揚してしまう。

 すると、何者かの足音がした。猫である。猫のピンと立った鍵しっぽが月光で白光りする床に浮かんだ。

 「チャビ」

 名前を呼ぶと彼女はものも言わずしゅるんと足元に纏わり付き、体を横たえた。撫でろということらしい。応じないわけにはいかなかった。触らせてもらえる機会は貴重だ。飼い猫なのに。野良じゃないのに。

 ひとしきり腹を撫でてやると気持ちよさそうに喉を鳴らして体を伸ばしていた。だが、そんな気分は唐突に終わりを迎えた。素早く立ち上がるとチャビは縁側へ向かった。彼女は窓の外を眺めるのが大好きなのだ。1日のほとんどをその窓辺で過ごしている。その後ろに追従するが、横並びに座ることはない。邪魔にされてしまうからだ。

 仕方なしに、真後ろに陣取ると毛並みをサラサラと撫ではじめた。キジトラ猫は撫でることを許したのか、それとも景色の方が興味深いのか。ーーーおそらく両方だろう。彼女の関心は外界へと惜しみなく向けられていた。窓の外は闇色が薄くなり朝の気配を纏っていた。猫の輪郭がぼんやりと月光に浮かびあがるのを眺めつつ、いつだったか本で読んだ記述を思い出していた。猫は闇の中でも人間の3倍見えているらしい、というものだ。逆に視力は良くない、とも聞く。

 チャビにはどのように世界が見えているのだろう。私がごちゃごちゃ考えている間も彼女はひたむきに外を眺め、音に耳を傾けていた。その真っ直ぐな眼差しがやはり恋しい。わたしもそんな生き物になりたいと思わずにはいられない。

 大人になってしまった今では秘密のことだが、人生上で幾度となく「来世は猫になる」と口走ってきた。大人になってからもその思いは変わらない。ーーーーこの世はわたしには、複雑すぎる。

 猫は一度もわたしを振り返らない。手の動きに合わせてわずかに頭を上下させるだけだ。諦めて、毛並みから手を離した。このままだと心地よさに任せて、際限なく撫でてしまいそうだった。自室のベッドに横たわると、既に悪夢の余韻は消え去っていた。瞼を閉じる。今度こそ眠れそうな気がした。

 不意にパタリ、と音がした。それは猫の耳が起き上がる音だった。黒い猫の影が蘇る。本当はあの後ろ姿を、いつまでも眺めていたかった。きっと猫は今も窓辺で耳を澄まし、朝を待っているのだろう。そして私は、その光景を夢の中で再現するのだ。その遠い後ろ姿がいつまでも色褪せぬように。

 

 

 

 

 

 

 


おわり。

小説・「海のなか」まとめ6

 

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前回のまとめはこちら。

 

 

kuromimi.hatenablog.com

 

どうも。

暑い夏がこの世で一番忌々しいです。クロミミです。

 


今回は連載小説のまとめ記事を投下します。

 


久々のまとめ記事、今回は連載小説・「海のなか」の(27)から(32)のあらすじをざっくりまとめます。また、併せて新しい登場人物の紹介なども行っていきます。

 


更新がスローペースすぎて記憶が失われた際には、こちらをご一読下さい。過去のまとめ投稿は、noteでは「海のなか」まとめマガジンにて確認できます。

なお、はてブをご利用の方はページ上部の「海のなか まとめ」タブから飛んでください。

 

 

 

 

 

 

 


それではどうぞ。

 


海のなか(27)

 


 第八章の始まり。夕凪の夢の中。彼女は夢の中でも海中にいる。しかし、その夢の内容を夕凪は目覚めと共に忘れてしまうのだった。

 夕凪が目覚めると、そこもまた海底だった。例のごとく傍にいる青に夢を見たことを告白すると、青は夕凪に「あること」を促す。

 

 

 

海のなか(28)

 


夕凪の夢日記の内容。

日を追うごとに、その描写は緻密になっていくようだ。

 


海のなか(29)

 


夕凪はある日の夕暮れ、カフェ「マキノ」にて最近見る夢について思い巡らしていた。するとそこに沙也が来店し…?

 


海のなか(30)

 


家路を急ぐ夕凪。彼女はとうとう「あること」を思い出した。それを確かなものとするため、駆け込んだその先には…?

 

 

 

海のなか(31)

 


ついに、父によって過去が語られる。それは夕凪の夢の内容と符合していた。

 

 

 

海のなか(32)

 


夕凪は再び夢を見る。その夢によって彼女はある事実を思い知らされるのだった。

第八章終了。

第九章へと続く。

 

 

 

 


最序盤からばら撒きまくっていた謎を解きつつある今回。最後まで上手く謎解きできるかわたしもドキドキしっぱなしです。今のところはなんとか(多分)できてるはず。

 


いまは構成を練るので精一杯なとこがあるので、文章が拙くなりがちですが、どうかお付き合いください。

 


さて、最新更新分まででかなり新しい登場人物が出てきたのでご紹介させていただきます。

 

 

 

(登場人物紹介)

 


小瀬 眞琴(おぜ まこと)

 


主人公、小瀬夕凪の母。旧姓、高浪(たかなみ)眞琴。本作の悪の元凶。奔放な性格で周囲を巻き込み振り回すトラブルメーカー。己の優先順位を明確に持っており、また、優先順位を絶対に曲げることがない。だが、精神的には不安定になりやすく、いつでも自分を肯定して欲しいと願っている。碌でもない女だが、なぜか昔から男性を惹きつける魅力を持っている。(ある意味では暴力的なほど魅力的)だが、本人は選り好みが激しく、そのため交友関係が広いとは言えない。結婚後は、夫・佑作(ゆうさく)にかなり依存している。なお、上記のような性格が災いして幼い夕凪をネグレクトしていた過去を持つ。実家に戻って以降も夕凪からは拒絶されているが、全く意に介していない。彼女にとって愛とは与えるものであって、与えられるものではないようだ。

 祐作が単身赴任に出てからは再び精神的に不安定になっている様子。常に何かに依存して生きるタイプで、今は娘の夕凪に依存している。

 

 

 

 


小瀬 祐作(おぜ ゆうさく)

 


主人公・小瀬夕凪の父。一見して物静かで良識ある常識人。音楽鑑賞が趣味。守備範囲は意外にもゴリゴリのオルタナティブロック。妻・眞琴よりも7つ年上。

高浪眞琴一番の被害者。2年前から、仕事の都合で遠方へ単身赴任しているが、2週に一度帰省している。かなりの事故物件である眞琴と10年以上も連れそう超人。現在、妻のことは女として愛しているわけではないが、家族として庇護しなければと思っている模様。(恋愛脳と眞琴は相性が悪すぎるので、このくらいの方がよかったようだ)そして何よりも、妻から夕凪を守らなければならないと言う意識が強い。かつて、妻のネグレクトを止められなかった、夕凪の状態に気がつくのが遅れたと言う点において、ずっと罪の意識背負っている。彼の献身的な行為は、贖罪でもある。夕凪が幼い頃、親元を離れて母方の祖母・幸子(こうこ)のもとで暮らせるよう取り計らったのも彼である。

 

 

 

 


高浪 幸子(たかなみ こうこ)

 


主人公・小瀬夕凪の祖母。小瀬眞琴の実母。

享年72歳。死因不明。12年前当時5歳の夕凪と共に行方不明になり、現在に至るまで消息不明。

 眞琴の実父とは真琴が幼い頃に離婚し、それ以来、女手一つで娘を育て上げた。

 眞琴の夫・祐作より、3歳になった夕凪を託される。なお、眞琴とは結婚の折に仲違いし、ほぼ絶縁状態だった。

 普段から厳しい表情が多く、本人も若い時分はなかなか苛烈な性格だった様子。しかし、夕凪に対しては別人と思えるほど優しく接していた。(このような夕凪に対する態度と眞琴に対する態度との差が余計に高浪親子の溝を深めたのは、言うまでもない)娘である眞琴は厳しく躾けられたようだが、残念ながら今ひとつ実を結ばなかった模様。幸子曰く、「真琴の中身は、別れた元夫に嫌になる程似ている」とのこと。

 夕凪がネグレクトを受けていることを知り、夕凪の引き取りを申し出る。生前は、夕凪がネグレクトされていることについて、自身の眞琴に対する教育のせいではないかと罪悪感をいだいていた。

 孫を積極的に引き取ったのも、以上のような経緯があったからだと思われる。実は熊本出身。時折訛りが混じることがあった。

 

 

 

これからまた登場人物が増えていく予定です。

特に、今回ご紹介した三人は物語の根幹に関わる人々なので覚えてやっていただけたらうれしいです。

 


それでは、また。

 

 

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小説・「海のなか」(32)

 

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前話はこちら。

 

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***

 


 何度も繰り返し、叫んでいる。

「ーーーー!」

 誰かを追いかけていた。

 遠くに長い髪が靡いているのが見えた。わたしと同じ、色素の薄い髪が日の光に透けた。

ああ。あの後ろ姿を何度も見送ったことがある。

「ーーーまって!」

 飽くほど口にしたはずの言葉を、また吐き出した。

 その人が決して立ち止まらないのを、よく知っていた。馬鹿みたいだ。こんなこと、意味がないのに。そんなふうに嘲笑してみても、喉からは追い縋るような嗚咽が溢れ続けている。そうしてようやく、自分が泣いているのだと気がついた。だからこんなにも景色が歪むのか。潤んだ視界はもう、後ろ姿を捉えることができない。

 不意にほおに手を当ててみた。

 ーーーー濡れていない。

 そうわかった瞬間、絶望が心を覆った。そうか、また泣けなかったのだ。いや。泣けるわけがない。泣いたら全てが変わってしまう。

 すると、

 


『ここは、海のなかだからね』

『海のなかで、泣くことはできない』

 


 ひどく馴染みのある声が、不気味な結論を運んできた。その凍るような吐息を、わたしは確かに知っていた。

「まって…おかあさん」

 そう言ったのが、夢だったのか現実だったのか。目覚めた今ではわからない。きっとわからない方がいいのだ。ああ。厭になる。こんな夢ばかりはっきりと覚えているなんて。

 


(第八章おわり。第九章へと続く)

 

 

次話はこちら。

 

 

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小説・「海のなか」まとめ5

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※当記事はかなり前に作成した物ですが、投稿を失念しておりました。後日、小説・「海のなか」(32)とまとめ記事その6を投稿予定ですので、そちらも併せてご覧下さい。

 

どうも。クロミミです。

最近仕事のキツさが尋常じゃなくてほぼほぼ休日はお布団と合体してます。なんだろう、直立二足歩行するのがもう疲れるねん。

最近の嬉しかったことなんか、お昼のおにぎりにとろろ昆布混ぜたらめちゃうま、ということを発見したことくらいだもんな。(マジでうまいよ。クロミミは万年金欠つき、滅多に買い食いしません)

で、仕事きついから小説描けないかと思いきやそうでもなかったりする。むしろ仕事楽な時よりかけるんだよね。

あれよ、テスト週間に限って執筆が捗るのと同じ理屈よ。学生時代から変わってないのね。

てなわけでこないだ、はてブでは最新話の「海のなか」(27)を更新しました。
 ここから物語は本格的に転がり始めます。刮目せよ。結構いい感じにかけたと思うねん。

今後、元原稿に大幅な変更を加える予定です。だから更新ペース落ちちゃうかも。プロットからぶち壊す勢いやからな。


それでは、今回は海のなか(22)から(26)をざっくりまとめます。


海のなか(22)〜(25)

愛花と一馬の中学時代を一馬視点で回想する。
過去から現在を辿りながらその関係性を紐解く。


海のなか(26)

海のなかにて、青は13年前のあの日を回想する。謎多き彼の内面が垣間見える超重要回。

必ず読んでから27を読んでください。二つ合わせて超序盤の伏線回収になっています。どこが伏線かわからない人は「海のなか」(1)から(4)くらいを読み返すとよくお分かりになるでしょう。


愛花って?一馬って?青って?登場人物忘れた人は、まとめの2をご覧ください。主要人物をまとめています。海のなかまとめマガジンにてご覧いただけます。

ちなみに、22から25はまるっと一馬視点での過去編なのでこれだけで短編っぽく読めます。この短編(笑)をもっと面白く読みたいという方は、「海のなか」(12)と(13)を読んでから(22)を読んでみてください。同じ状況でも愛花からみたものと一馬から見たものでは全く違うということがよくわかると思います。この手法、めっちゃ使う。好きすぎて。

ちなみに、22から28まで丸っと元原稿になかった展開なんだよね。すでに道なき道やん。どうすりゃええねん。

てか、一馬と愛花を出すと急にエンタメ味が増しますな。お前ら別の話かよって感じ。

これからはますます青と夕凪にお話の軸がうつっていきます。(文化祭編、メインキャラなのに青がほぼ空気だったので、忘れられてないか心配。ほれ、あれよ、あれ。水中で息できる系の不気味な美少年?よ。多分)


というわけで、これから先の展開は私も知らん。とっても楽しみです。更新遅い時は読み直しながらゆるゆる待ってもらえたら嬉しいです。

それでは。

明日以降、noteにも「海のなか」(27)をアップします。お楽しみに。この回で最新に追いつく予定です。

小説・「海のなか」(31)

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前話はこちら。

 

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***

 


「さて。何を話そうか…」

 リビングのイスに腰を下ろすと、父は向かいにわたしを座らせた。こうして相対するのも久しぶりだった。朝早くから夜遅くまで働いていることの多い父は、家族でありながらほとんど会うことはない。それはわたしがほとんど自室に引きこもっているせいでもあるけれど。いつからだろう。誰かがいる空間に耐えられなくなったのは。それが家族なら、尚更だった。その目で見られるだけで、心に土足で踏み入られるような不快があった。家族は他人だ。よく家族や恋人という名前を、許可証のように振りかざす人がいる。そんなこと、許されるはずがないのに。家族だろうと何者だろうと理解できないものはある。家族だからといってお互いに理解可能なものである必要もない。そうでなくては、おかしい。

 にもかかわらず、両親は家族という幻想を信じる人々の一人だった。もっとも、今はわからない。ここ数年ろくに口を聞いていないのだから。

 目の前の父は、記憶の中より幾分くたびれて見えた。すでに、壮年から老境へと差し掛かろうとする気配さえある。彼の風貌は驚くほどわたしに似ていない。他人だと言えば、そのまま信じてしまうだろう。事実、幼い頃並んで歩いている時にも奇異な目で見られることが幾度かあった。

 その度思ったものだ。わたしは誰の子供なんだろう、と。親としてわたしに接し続けていたのは、間違いなくこの男だった。父がいなければ小瀬家はとうに破綻していた。だが、わたしが母ーーー小瀬眞琴の子供であることは明らかな事実だった。なにせ外見はあの人の生写しだ。親としては何一つわたしを育くむことのなかった母親にばかり、似てしまった。

 幼いわたしは父と、そして祖母によって育てられたのだ。祖母というのは、母方の祖母だ。今は和室の奥で縁取られ、仏頂面を晒している。

 祖母の面影を手繰り寄せるうち、脳裏を少しずつ過去が染め上げていった。わたしは幼い日の何年かを、祖母の家で暮らしていたのだ。それさえも忘れていた。人生上で最も輝いていて、同時に最も忌むべき出来事を孕んだあの時期を。

「夕凪」

 名前を呼ばれ、ようやく過去から覚めたわたしは顔を上げた。

「むかし、高浪の幸子おばあちゃんのところにしばらくいた時期があったのを覚えてるか」

 高浪は母の旧姓だ。おそらく、夢に出てきた情景はその頃の記憶を元にしているに違いない。

「うん」

「じゃあ、何歳から何歳まであそこで暮らしてたか思い出せるか」

言われてしばし頭の中を探ったけれど、どうにも見当たらない。そういう時期があった、ということだけがたしかだ。あとは断片的な場面が浮遊しているに過ぎなかった。始まりも終わりも何処にか消えたように、思い出せない。

 わたしはかぶりを振った。

「……だろうな」

 そう返した父の目はどこか遠くを見ていた。たしかにその目はわたしに向いている。だが、その眼差しは今のわたしに向けられたものではなかった。

「お前があそこにいたのは、2歳から5歳の約3年の間だ。……本当はな、もう少し長くあっちで暮らしてもらう予定だったんだ。そうだな、できればせめて小学校に上がるまでは。俺は仕事で家を空けることが多かったし、お母さんはああいう人だからとても夕凪を任せることはできなかった」

 途方に暮れたようなため息は、思わずといった風情で父の口から吐き出された。

 「だが、その予定は破綻した。なぜかわかるか?」

 すると父は、感情に揺らぐ瞳でわたしを見据えた。

「高浪のおばあちゃんが死んだからさ」

 そう告げられたとき、不思議と激しい感情は起こらなかった。奇妙に凪いだ内面に部品がひとつ舞い降り、しかるべき場所に収まっていった。

「おばあちゃんがどうやって亡くなったのか、それはわからない。死体が見つからないんだ。だから本当は、死んだのかすらわからない。今も行方不明、という言い方もできるだろう。ただ確実なのは、砂浜に打ち上げられた状態で5歳のお前があの夏、発見されたということだ。三日も行方不明だったのに傷も後遺症もなく、な」

 「夕凪。何か、思い出さないか?」

   「今年の夏にそっくりだって言いたいの」

 「その通りだ。俺はあの時、今度こそお前までいってしまったんだと覚悟したよ。……戻ってきて、本当によかった」

   父の温かな優しさは、なぜか気味が悪くてみじろぎした。

 「どうして今まで黙ってたの。おばあちゃんのこと」

 それは、どうして今の今まで過去を忘れていたのか、という問いでもあった。

 「幼い頃のお前は、おばあちゃんがもういないと理解していた。だから、病院で目を覚ましてからは何日も泣いていたんだ。あんな姿は見たことがなかった。けれど、目覚めて三日経った頃かな。ぴたりと泣かなくなったんだ。……しばらくして気がついたよ。お前は、行方不明になったことも、おばあちゃんのことも全て忘れていると」

 父は自分の膝に吐き出すように語った。

 「守るつもりだったんだ。このまま忘れたままでいれば、お前は日常に戻れる。だから…」

 弱々しい末尾は、言い連ねる気力を失った口へと吸い込まれていった。不意に、目の前の男を嬲ってやりたい衝動に駆られる。しかし、その感情はほんの一瞬激しく燃え上がっただけだった。感情は、いつもこうだ。わたしにとって感情とは、臨場感の損なわれた映画のワンシーンなのだ。だからわたしはただ、待っていればいい。そうすれば次の訪れがある。

 ーーーーほらきた。他人事のように思った。

 怒りと入れ替わりにやってきたのは、薄ぼんやりとした虚しさだった。それはひどく馴染みのある感覚だった。

 これは自衛なのかもしれない、と思う。激しい感情を抱くことを恐れているのだ。その激しさによって自分が壊れてしまうことを。そして、己の感情に振り回される母のような女になることを。

 気がつくと、長いため息をついていた。もうこの場にいたくはなかった。父の気遣わしげな視線から逃げ出したかった。今はただ、一人でいたい。思ったより、わたしは神経質になっているのかもしれない。立ち上がると、思いがけず椅子が大きな音を立てた。

 「ありがとう。話してくれて」

 見下ろす父の姿はさらに小さく見えた。頼りない姿を見ていると、何故だか後ろめたくて居た堪れない。自分がこの弱そうな生き物をいたぶっただけのように思えてならなかった。

 ーーーーそれきり、父とは話していない。

 


***

 

小説・海のなか(32)へとつづく。

 

 

次話はこちら。

 

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小説・海のなか(30)

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前話はこちら。

 

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***

 いつのまにか、わたしは外へと飛び出していた。全てを剥き出しにし、なりふり構わず。気がついた時には既に、家へと続く長い坂道を走り降っているところだった。
 一歩踏み出すたび、歩みが身体中に響いてわたしの内側を滅多撃ちにした。久しぶりの全力疾走に、呼吸音しか聞こえなかった。現世の全てが遠ざかり、その分頭の中の光景が色濃く迫ってくる。日暮れの青く染まり始めた家路はやけに遠く感じられた。
 もう、戻れない。
 一度思い出してしまえば、なぜ忘れていられたのか、もうわからない。ーーーーあんなにも、一緒にいたのに。
 ようやく辿り着いた家の門扉に手をかけた時、急に恐れが湧き上がってきた。この扉は過去へと続く扉だ。そもそもなぜ今まで忘れていた?なぜ両親は私に隠していたのだろう。秘密を暴いて仕舞えば、何か悍ましいものがその奥には眠っている。それは間違いのないことのように思えた。
 本当に知ってしまってもいいのか。
 そう考えた瞬間、ドアを開けていた。もう逃げたくなかった。何かを変えようと思うなら、何かを壊さなくてはならない。たとえそれが自分自身だとしても。少しでも立ち止まれば恐怖に足が止まりそうだった。全てを振り切るように、わたしは奥の和室へと駆け込んだ。ここにあるはずだった。今まで忘れ去っていたものが。
 座敷の奥に、瞳は誤りなく目的のものを捉えた。
 ーーーーあった。
 その瞬間、揃ったピースが組み上がっていくのを感じた。
祖母の遺影。仏壇だ。暗い室内でもその面影は間違いなくあの夢に重なった。白髪で仏頂面の彼女。祖母はあまり笑わない人だった。
 「……おばあちゃん」
 頭の中がざわつく。「あの人」の輪郭がはっきりとなぞり書きされていく。あれほど脳裏に立ち込めていた靄は立ち所に何処へかと消えていった。
 どうして忘れていられたのだろう。
「ごめん」
 掠れ声でそう口にした時、襖が小さく軋んだ。見ると、父が廊下からこちらを伺っているのだった。その足元から伸びた影がこちらの暗闇に呑み込まれている。細い影は所在なさげに揺らいでいた。
 「……夕凪」
 久しぶりに聞く父の声は、記憶よりずっと低い。
 「おとうさん」
 「教えて、全部」
彼は一瞬、首を絞められたように息を詰めて黙り込み
 「……思い出したんだな、夕凪」
 絞り出すように言った。
 「もう逃げない」
 短く告げたわたしを見つめ返す父の表情を、しかしわたしは見ることができなかった。逆光だったからだ。顔を黒く塗りつぶされたまま、父は俯き深く息を吐き出す。そうして、「もう逃げられないな」という呟きが微かに耳へ響いた。

***

 

海のなか(31)へ続く。

他人に期待するのはもう、やめよう。

 

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しばしば

「上司なら〇〇して頂かないと」

「あの人は課長なのに〇〇だ」

と口にする人がいる。そんな言葉を聞いた時、いつも思う。

あれ?全然思ったことない、って。

そう。わたしは全く共感できないのだ。なので同意を求められた時、曖昧な笑顔で濁してばかりだ。

 


思い返してみれば、わたしは人生上でほとんどと言っていいほど社会的立場によって他者を尊敬したことはない。良い人であることを期待したこともない。それはきっと、わたしが人の善性を微塵も信じていないからだ。性悪説性善説なら、圧倒的に性悪説を支持するだろう。

 


 さて、ここで冒頭の言葉をもう一度読んでみて欲しい。この言葉の裏には他者への「期待」や「願望」や「幻想」が間違いなくある。思えば勝手な話ではないか?社会的立場を持っているというだけで、勝手に願望を抱き、そこから外れれば批判するのだから。

 


勿論、立場が人を変えることもあるだろう。しかし、それは絶対ではない。大体、そんな程度のことで人間の本質は変わったりなどしない。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。

 


人間はきっと変わることなどできない。変わったように演じることは出来るが。人間に一生ついて回るのは生まれ持った性質のみである。そうしてそれが環境によって善か悪かにより分けられる。人間の性質にもともと善悪などない。わたしはそう思う。

 


とまあ、今の今まで物知り顔で言説を並べ立てているわたしだが、この論理は無論、私自身にも跳ね返ってくる。

 


私は確かに「上司」「先生」などの肩書きで人を判断しない。だが、一方で年齢というフィルター越しに他者を見るきらいがある。例えば、「この人は30歳なんだから〇〇できて当たり前」というような。ある意味私も立場を通して人を評価しようとしている。

 だからこそ私もまた、さっさと悟るべきなのだ。

「年月は必ずしも人を変えない」と。「立場が人を必ず変える」ことのないように。幻想を追っていては、物事の本質は見えてこない。

 


ありきたりな言い回しで恐縮だが、自分が変えられるのは精々自分のことだけである。

 


だからこそ、

 


他者が変わらない、気に食わないと口を動かすより先に、まずは自分が動き、対処を模索すべきなのだ。

 


もう、他人には期待しない。

それはこういう意味だ。

 

 

クロミミははてなブログにて、「KUROMIMIには本が足りない。」を更新中。先日、連載小説「海のなか」の最新話を更新しました。ここ数ヶ月苦しんでたけどようやく描けた。物語も佳境です。ぜひご覧ください。