KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

小説描くなら徹底的に推敲しろ。

今回は、小説を描く上で必ずしたほうがいい推敲という工程について語りたいと思います。

 

  わたしは今「海のなか」という小説をこのブログで連載しています。実はこの作品、元々は短編小説なのです。

もとになった短編小説はわたしが高校一年の頃に描いたものです。

描いたその頃はこの短編が感触的に一番よく描けた小説でした。(いつもはこきおろす母が珍しく褒めてくれたもの、ということもありました。)

 その当時、わたしは並行して「β」という囚人脱獄ものの長編も描いていました。そして、思ったのです。あのうまくかけた短編(海のなか)をもっと長く描いてみたい、と。

 

しかし、なかなか長編として仕立て直すことができませんでした。いろいろ理由はありますが、一番はやはり自分の文章がちっともうまくならないから。

このままやってもうまくいかない、と直感的にわかった。

 そう。高校一年くらいの頃、すでにどうすればもっといい文章が描けるようになるのかが全然わからない時期が来ていたのです。

いや、正直めっちゃ辛かった。

これ以上うまくなれないかも、とか思うとすげーやりきれない感じで。

しかし、高校2年になってから一年以上晴れなかったモヤモヤが少しずつ晴れるようになってきた。

それは何故か。

それは、読み手を意識し徹底的に文章を推敲するようになったから。

もちろんそれまでも推敲していた。ここで大切なのは「徹底的に」という点。

とことんまで一つの作品の推敲を行うという行為は正直下手な短編小説を5本書き上げるより、文章力がつくのです。

書きっぱなし、出しっぱなしではいつまでも文章はうまくならない。なぜなら、小説を描いているとき筆者は絶対に冷静でないからです。

 

いろいろな小説家も言っていますが、小説、とくに長編小説を書くときは推敲までにそれなりの冷却期間を設ける必要があります。わたしも経験則上、長編ならば半年以上の冷却期間を設けるようにしています。

 

「海のなか」の場合、その冷却期間が長かった。およそ4年。これの長編化に着手したのは大学2年になってから。受験のせいもあり、かなり遅くなってしまいました。そして、一応書き終えたのは大学3年の夏休み。

 

そして、この後冷却期間をもう一度設けた。今度はこのブログを開設する昨年11月まで。

 

という感じで、大袈裟に言えば、わたしは一つの作品を約7年にわたって作り替えながらかいているわけです。

しかもまだ終わってない。全然終わってない。でも、この行為をして本当に良かったと思ったのは、2回目の推敲作業に入ってから。

如実に文体が良くなったと感じられるようになった。ちなみに二回目の推敲ではさらっと以前書いた文章を読んでから、それ以降は見ずに筋だけ思い出しながら書き直すようにしてます。

 元の文章がちょっとゴミすぎるので、引きずられないよう、このようなやり方をとっています。

 

自分のぎりぎり納得いく文章がなんとか描けるようになるまでに長い時間がかかりましたが、続けて良かったと思います。だって、わたしは頑張ればまだまだ良いものが描けるってわかったから。

 

これからも妥協せず推敲していきたいと思います。

とにかく文章がうまくなりたければ徹底的に推敲。それが遠回りのように見えて、実は近道なのです。

 

※なお、文中の「海のなか」は書き直す前でもノート6冊分とかなり長いので、気長にお付き合いくださると嬉しいです。(現状は元より長くなってます。)

 

「海のなか」はこちら。

 

 

 

kuromimi.hatenablog.com

kuromimi.hatenablog.com

kuromimi.hatenablog.com

kuromimi.hatenablog.com

kuromimi.hatenablog.com

 

 

 

小説の書き方に正解などない。

どうも。クロミミです。

先日、ブログのpv数の合計が1000を超えて、うおおおおおお!!ってテンション上がりつつスクショしましたw

何ヶ月かやっていて1000超えるなんて、超ショボいのは重々承知ですが、それでもやっぱりテンションあがっちゃいますねぇ。むふふ。

最近はコメも何故かいただけて戸惑いつつも喜んでニヤニヤしてます。これからもあったかく見守っていただければ嬉しいです。

 

 

さて。今回は小説の書き方についての投稿をまたしたいと思います。

 

先日わたしは村上春樹の「職業としての小説家」を読んだのですが。(ハルキがすっっげーナチュラルにかっこつけた感じの表情と格好しててめっちゃ笑ける表紙です。ドヤ感がすげぇwwこの本についてもまた語りたい。)ハルキの小説の書き方や今までやってきた仕事、小説家になったきっかけなどが書いてある本書がわたしが最近自分の小説の書き方を文章化し始めたきっかけだったりします。

 そして、この本を読んで思ったことがまず一つ。小説の書き方って本当に人それぞれ。千差万別だってこと。

わたしは素人もいいとこですが、それでもハルキの小説の書き方を読んでいて、この描き方じゃわたしは書けない。とか、この部分はわたしとは違うという部分が意外にも多くありました。

 

しかし、それはどちらかが正しいというわけではないと思うのです。

そもそも、小説を書く方法は無限にあり、正解などないということなのだと。小説を書くという行為には絶対的な方法論も理論もありません。実際、わたしはそういう類のものを一度も読んだことがない。

 

小説を描くという行為には、ただ、その人その人に最適な方法が存在するだけなのです。

 

わたしは9歳の頃からずっと小説を描いてきました。何故かというと楽しいから。楽しくないことはできません。わたしは生まれながらの快楽主義ですから。

9歳で書き始めてから今までずっとどうすればもっと気持ちよく描けるか、もっと言葉の快楽を味わうことができるのかだけを追い求めて自分のスタイルを模索してきました。もちろん今も模索しています。

 

時々小説を書くことは大変だと言う人がいます。確かに大変かもしれません。けれど、何本も何本も描いていると、過程が大変であればあるほど素晴らしい変化が必ず待っているということがわかってきます。変化を味わうときの快感は何にも変えがたいものです。

小説を書くという行為はその時をずっと待ち続けるという行為でもあるのです。

 

なので、今小説を描いている方、描こうとしている方にはとにかく「楽しい」と思ってほしいな、と常々思います。

 

最近、わたしは偉そうに小説の書き方についていろいろ描いていますが、それはあくまで「クロミミの書き方」。絶対に正解ではない。

 

自分の感覚を大切に「わたしだけの書き方」をぜひ探してください。その過程もまた、楽しいはずです。

 

クロミミはこんな小説を描いています。

 

kuromimi.hatenablog.com

kuromimi.hatenablog.com

kuromimi.hatenablog.com

 

小説のようだという褒め言葉が嫌いだ。

 よく漫画のレビューで、「まるで小説のようだ」という賞賛のレビューを目にする。

 言っている人に罪はない。だが、何故か毎度無性に腹が立ってしまう。

 何故だろう。

 それはきっと言葉選びの安易さを感じてしまうからだ。

わたしは

 小説のようだ=緻密で深い心理描写が素晴らしく心に響く作品だ

 という意味だと受け取っている。

 しかし、全ての小説はそうだろうか?

 ありふれた大衆小説よりも一部の漫画の方がよほど心の深部を描いているのではないか。

 漫画が子供のものである時代は終わりを告げて久しい。漫画は十分に大人の読書に耐えうる内容的な深みを持っていると思う。

 内容的な深さの比喩として「小説のようだ」という比喩を使うのではあまりにも足りないと言わざるをえない。

内容的な深みの素晴らしさに言及したいのであれば、せめて「文学的だ」というべきだろう。

 比喩というのは短い言葉で的確にかつ具体的に意図する物事や感情、状態を効果的に読む者に伝えうるものでなくてはならないはずだ。

 決して比喩は書き手が表現をおざなりにするために用いられてはならない。

 

「まるで小説のようだ」

という表現を目にするたびにわたしは思う。

 

 わたしは伝える努力を怠ってはいなかっただろうか。安易な比喩で場を濁し、流してはいなかっただろうか、と。

これは日本語を愛し、表現することを愛する一個人として常に考え続なくてはならない命題だ。

表現に限界はない。

安易な妥協は日本語の敗北だと思う。

家族を好きと言えるか。

以前友人と話していて、こんな話題になったことがある。

「家族って好き?」

この問いに対して友人は好きだときっぱり答えた。その迷いのなさが羨ましい。わたしはこうなりたかったのかも。とその答えを聞いた瞬間思ったものだ。

とはいえ誤解しないで欲しいのはわたしが決して家族を嫌いと言うわけではない、ということだ。

「家族って好き?」という問いは同時に

「家族って嫌い?」という問いでもある。

わたしが言いたいのはつまり、家族に対する感情は好き嫌いで表せるのかということなのだ。

 

わたしの父と母は決して悪人ではないと思う。

好き勝手に振る舞うわたしをずっと育ててくれた。接する中で愛情を感じたこともある。

「家族を愛しているか」と聞かれれば

多分「はい」と答えられるだろう。

 

しかし、好きだと思ったことは一度もない。多分近すぎるのだ。確かに父と母とは他人だが、そのいいところも悪いところもわたしは知り過ぎている。

 二人ともに吐き気がするほど嫌いな部分があることも、十分すぎるほど知っているのだ。そうして、そういう部分に限ってわたしによく似ている。そう。これは同族嫌悪。

 だからといって、嫌いだなどといえない。好き、とも言い難い。こういう言葉を使うとき、人は対象を多少なりとも理想化する必要があると思うからだ。

「この人はこういう素晴らしい人なんだ」

という認識。もしくは逆に

「こいつはこんな嫌なやつなんだ」

とバッサリ切り捨ててしまうような認識でもいい。嫌いが成り立たなければ好きもまた成り立たない。

 そもそもわたしは誰かを理想化することが苦手だ。そういう回路に欠けると言ってもいい。わたしのようなやつを鼻持ちならないやつ、傲岸不遜というのだろうか。ちがうか?わからない。

白黒ハッキリしたのが好きだ。

好き嫌いで分けられる世界にわたしはもともといたはずだ。それなのに。いつのまに物事は二つに分けられなくなってしまったのだろうと時々悲しくなる瞬間がある。

けれど、その灰色の部分に人生の奥行きがあるのかもしれない。

 

皆さんは、家族を好きだと言えるだろうか?

 

 

 

過去は愛せない。

今回の記事を読むと、こいつやばい隠キャやん…てなるかもしれない。

けれど自己認識としてわたしが隠キャなのかどうかは10年以上考えてきたが判然としない。まじでわからん。

判断は読んだ人に任せたいと思う。

 

わたしには

「あのころはよかった」「あの頃に戻りたい」という人の気持ちが全くわからない。

母も同じらしいのだが、それは彼女が徹底的なリアリストであるからだ。「そんなこと言っても無駄。言ったところで戻れるわけでもないし」というわけ。彼女のこの見解を聞くたびにかっこいいなと思う。

一方わたしは違う。

単に懐かしむほど輝かしい過去を持っていないのだ。だから懐かしむほどの価値ある過去を持つ人が本当に羨ましい。

だって、

小学生の頃から行事ごとが大嫌いでそのたび死にそうになってたし。

 

中学になったら部活の先輩と折り合いが悪すぎて終始苛ついていたし。(おまけにクラスではいじめられていた)

 

高校になって仲のいい友達ができたと思ったら、とんでもないドキュン野郎だったし。(待ち合わせしたら必ずおくれてくる。しかも寝ていて遅れるという連絡を午前10時に待ち合わせておいて、毎度午後1時にしてくるやつだった。まじですごいやばい。今思い出すとやばいやつ過ぎてまじで笑う)てか、勉強がつらすぎる。

 

大学になってようやくできた友達の一人とは疎遠になるし(卒業してからも会い続けられる親友が一人できたのでよしとするが)そもそもせっかく文学部に行ったのに好きになれる人種がほぼいなかった。(ここで自分の選り好みの激しさを再認識)

 

なかなか心を許せる友達は出来ないのに、大嫌いな幼馴染みとの縁はなかなか腐り落ちてくれない。(いいかげんにわたしの拒絶に気がついて遠ざかってほしい。何故こうもうまくいかないのだろう。)

 

そもそも、今までずっと所属してきた場所を好きになれないまま生きてきた。小学校も中学校も高校も大学も。今もそうだ。

きっと自分は現状に文句ばかり垂れているくだらないやつなのだと諦めている。

 

こうして思い返してみると、それぞれの時期にそれぞれの辛さがあり、あの頃に戻りたいなどと絶対に言えないし言いたくない。わたしの生きづらさは幼い頃から何一つ変わっていない。ある種のトラウマとしてどの経験もわたしの心に根深く傷跡を残している。戻っても地獄が延々と繰り返されるだけ。どんな拷問だよオイ。

 

今の職場を愛しているかと言われれば、愛していないのだろう。けれど間違いなく人生で今が最上である。なぜならずっとなりたかった職につけて、仕事が楽しいと思えるから。(仕事と職場を愛せるかどうかはまた別問題。)給料がありえないほど安いが、まあいい。それ込みでこの職を選択した。

 

人生上を思い返すと、ずっと「今が最上」という状態だ。過去のことは覚えているが、懐かしむことなどない。過去を振り返るのは小説を描くときだけで十分だと思っている。

今のわたしにとって、過去はほとんど忌まわしいもので構成されている。

いつかわたしも過去を愛おしむことがあるのかもしれない。

 

そうなったとき、初めてわたしは大人になれるのかもしれない。

まったく。やれやれ。何年かかることやら。

ノンフィクションはフィクション。

あれは今から一年ほど前のこと。

私はまだ大学4年でした。今回はその頃に研究室で卒論をいじりながら教授と話していたフィクションとノンフィクションの話についてちょっと話したいと思います。

 

先に私の結論を言っておくと、ノンフィクションはフィクションの一部であると私は考えています。

では、なぜノンフィクションはなぜフィクションになってしまうのか。

 

それは、人によって物事の捉え方というのは千差万別であるからです。

例えばいじめを例にとってみましょう。

「男子aは男子bにヘッドロックをかけられた」

これが事実。

男子aはこの事実について「男子bにいじめられた」と認識ています。しかし一方で男子bはというと、「男子aとプロレスをして遊んだ」と認識しています。

 

このように、事実は観測者によってその認識に必ず違いが生まれる。事実は観測者が生まれた瞬間に観測者によって加工され、歪められてしまう、と言ってもいいでしょう。

 なので、この観点で言うのであれば、本当にノンフィクションと言えるのは実際に起きた観測者を持たない事象そのものだけ。

誰かがその事象を見た瞬間に、それはもうフィクションになってしまうのです。

 

 そんな話を教授としていて、とても興味深かったのを一年たった今でも覚えています。

 わたしはノンフィクションを読むことが好きですが、それはどんな事実が起きたかと言うより、どのように書き手は事実を加工しているのか、を楽しんでいたのだと思いました。

 

皆さんはフィクションとノンフィクションについてどう思いますか?

 

すべて架空の物語を創作するときのポイント。

どうも。クロミミです。

先日からものすごくニッチな記事ばかり書いてすみません。なんとなく今のタイミングで小説に関する色々なことを自分への戒めに言語化しときたいと思う次第です。

 

さて。今回は架空の人物や場所を用いて物語を描く場合の個人的なポイントについて語らせていただきたいと思います。

 

今回のポイントはとっても単純!

なんと言っても人物造形!

1にキャラ2にキャラ34もキャラで5もキャラ!!

 

と言うくらいとにかく人物造形を重視して描くべきだと考えています。なぜなら、人物のリアリティーが作品のリアリティーとニアリーイコールだからです。わたしは小説を描き始めるとき、一番キャラを練るのに時間をかけます。

 

わたしも高校生くらいの頃は、「いやいや。人物よりプロットやろ。わたし描くの文学寄りやからええわ」とか思ってましたええ。

↑ふざけんな、結構最近じゃねーか。

いやーーーまじぶん殴りたいその横面。

冷静に考えてできるわけないじゃんね。だってそいつがどう言う人間かそいつよりわかってないとそいつがどういうときどういう感情になってどんな動きをするかなんて考えられるわけないやんね。

キャラとプロットは別々ではない。

キャラにプロットがついてくるのだ。

よく作家がキャラが勝手に動き出した。てなことを言ってますが、それってきっとこういうこと。書き手が動かしたくなるようなキャラは魅力あるキャラなのです。

 

そもそもキャラを組まなきゃプロットが組めない。

はやみねかおるというわたしがかつて大ファンだった児童文学作家は一人分のキャラ構成だけでノート一冊を費やしたんだそう。(夢水清志郎シリーズの後書きで確か言ってた)

とにかく、人物造形を怠るとリアリティが損なわれて作品がふわふわしちゃう。気持ち悪いものが出来上がります。

 

とは言え、キャラ以前に決めておくことがある。

それは「この作品のテーマ」!

これを決めておかなければ、作品のトーンが決まらないのでキャラが練りにくい。

わたしはテーマを決めてから、大体キャラに役割を割り振る。

 

手順的にはこう。

最初の構想が思い浮かぶ(小説の一場面など)

序盤だけ構想を固めつつテーマを探る。

潜在的な物語のテーマを捉える。

キャラを練る。ひたすら練る。

全体のプロットを練っていく。

 

で。どの程度まで練るかというと、

キャラのプロフィール、容姿、家族構成、コンプレックス、趣味、他の人物との関係性、自己評価、何を一番嫌悪するか、過去の経験、場合によっては家系図まで。一番強調したい特徴的性格などなど。

とにかくそのキャラについて最低五分は語れるくらいがいいかも。好き嫌いについても、なぜ好きか、なぜ嫌いかまで突っ込んでいけると心理描写はしやすい。

私なんかはキャラ練るのド下手なのでリアリティを持たせるためにキャラ一人一人に自分に似たところなんかを作っておきます。そうすると心理描写しやすいんだよな。なんか情けな。

 

ここまでひたすらキャラを練るのだ!!と言い続けてきましたが、これも例外があります。それはキャラが語り部である場合。フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」のニックなんて代表的な語り部

人物が語り部である場合、あまりキャラは濃すぎないほうがいい。なぜならナレーターのキャラが濃いと、語られる中身である登場人物たちのキャラがたたなくなるから。ここだけ注意してください。

 

とにかく人物造形!

人物造形8のプロット2くらいのつもりでいつも作っています。

 

あーーーキャラ練るのがんばろ。

↑結構最近までサボってたツケで結構しんどい。

がんばろ。ちょうがんばろ。

 

それでは今回もありがとうございました。

 

他にも創作語りしてます。

 

 

kuromimi.hatenablog.com

kuromimi.hatenablog.com