KUROMIMIには本が足りない。

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活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

事実をもとに創作する時の注意点とは。

 

どうも。クロミミです。

先日はマニアックな創作語りにお付き合いいただき誠にありがとうございました。

 

 

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実は、コメントを前回の投稿で珍しくいただいたのですが、そのとき話題になった「小説の書き方」のうちの一つについて今回は語りたいと思います。

 

よろしければお付き合いください。

 

小説をわたしが書く場合、だいたい三つのパターンで書きます。

①事実としてあったことを下敷きにして書く。

②実際にある場所を舞台に想像を膨らませて描く。

③場所も何もかも架空のものを用いて書く。

この三つ。

今回語りたいのは①の「事実を下敷き」の書方について。わたしが今まで投稿してきた中で言うと、「異域にて。」「或る夢」がこれに当てはまるのではないかと思います。

 

 

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 この書き方の良い点は心理描写や空気感がつかみやすく、プロット(大まかな筋)や描写を組み立てやすくなることです。前回の記事でも言いましたが、描写では筆者と登場人物の距離を出来る限り零距離にすることが良い描写をするために必要な手続きです。

事実をもとにすることで、状況が描きやすく筆者は小説世界に入り込みやすくなり、結果として深い描写が可能になるのです。

 

 しかし、これは利点であると同時に欠点でもあります。その欠点とは、小説と筆者との距離が近すぎること。

先ほどと矛盾することを言うようなのですが、創作ではしっかりと想像するため限りなく近づく必要がある一方で、しっかりと創作物から距離をとり、見定める冷静さが大変重要になります。

この冷静な距離をそこなえば、必要以上に陶酔的で見苦しいものが出来上がってしまうことは必至。自分の作品に溺れた状態では、決して優れたものは作り出せません。

(酔っ払いがすごいドヤ顔で全然知らない彼氏の自慢話をしながら絡んでくる感じ、と言えばわかるかな?うんざりしませんか。そう言う状況って)

そして、事実をベースにして小説を書くとその距離の近さゆえに筆者は自らが作り出した物語に入り込みすぎてしまう。

 

作品を描くにはもちろん熱量が必要。

 

しかし、作品に込めるものはしっかりと冷まして内に秘めてこそ上手く伝わるものなのです。メッセージ性と言う口当たりの良い言葉に惑わされてはいけない。

 

今まで長短編合わせて数十作品を一応完結まで描いてきましたが、未だに上手く距離が取れない。

 

けれどそれでも理想の一手を味わうために、これからもめげず小説を描き続けていきたいと思います。(描けたらきっと最高に気持ちいいんじゃないだろうか。)だって楽しいから。

 

それでは、今回もマニアックな語りにお付き合い頂きありがとうございました。

 

俺小説書くよ!俺小説描きたいよ!って人はぜひコメントしてくださいね。お話ししたいなって思います。

小説の描写が脚本みたいになってしまう原因。

小説を一度でも書いたことのある人ならわかるかと思うのですが、小説を書いてるとなんだか脚本みたいになってしまう、ということがありませんか?

今回は小説の描写が脚本っぽくなってしまう理由とわたしがどのようにして描写を作っているのかを書いてみたいと思います。

 

よろしければ、お付き合いください。

 

小説が脚本みたいになってしまう理由はずばり、

①物語の進行を焦っている。

②考えた話の筋だけを描写しようとしている。

③登場人物の練り方が甘く、そのために描写がしづらい。

の主に三つ。

偉そうに話し始めましたが、わたしは②と③に陥りがち。

当然ですが、脚本と小説は別物です。

脚本は役者に指示を与えるものである以上、わかりやすく、かつ簡潔に演技内容が描かれています。基礎となる骨組み。それが脚本です。そしてそこに演技という肉付けを施すのが役者の役割なのではないでしょうか。

 

「骨組み」と「肉付け」この二つを小説では描写が一手に引き受けることになります。

 

個人的にはエンタメをはなればなるほど骨格よりも肉付けの作業が重要になっていくと考えます。なぜなら、描くものがより深い深層心理にせまるものになっていくからです。それこそが文学の真髄であり、楽しみです。

逆にエンターテインメントは話の展開を予測したり、キャラクターの魅力に惹かれて読むものです。話の筋とキャラが骨子。

わたしは読み手としてどちらも大好きですが、今までも、そしてこれからもきっと文学傾向の強いものを書くことになるのでしょう。その理由はなぜわたしが文学を描いているのかとわたしの生き方に深く関係してくるのでまた別の機会に語りたいと思います。

 

では、わたしが小説描写の脚本化を避けるためにしていることとは何か。

 

それは何よりも第一に場面を絵にかけるほどリアルに想像するとことです。そうすることで、そこにいる人物が何を感じているのかわかるようになります。

 たまに本当に調子の良い時ですが、悲しいシーンを書いていて涙を流してしまったり、寒くないのに外で風に吹かれるシーンを書いていて体が震えてしまったりすることもあります。そういう時は完璧に物語の中に入り込んでいるので、スルスル良い文章が書けたりするものです。

 

とにかくそれくらいリアルに想像する。登場人物との距離を出来る限り零距離にする。筆者=登場人物の心理状態に自分を持っていく。

だからこそ、③のようにキャラクターの練り方が甘いと物語世界にうまく入り込むことができず、結果描写も甘くなるのです。

 例えば物語進行上、主人公の肉親が死んだとします。キャラクターが練れていないと、どう心情描写をすれば良いのか分からなくなってしまいます。その人物がその場面で悲しむのか悔やむのかもしかしたら喜ぶのか、どれもできないのか、あるいは何も感じないのか。親との関係性はどうだったのか。またその感情に原因はあるのかないのか。あるなしを本人は把握できるのか、今の自分の状態を俯瞰する性格なのか、それとも感情に溺れる素直さがあるのか。

せめてこの程度のことは考えておかなければ、わたしは描写できません。

しかし、人物以外を固めすぎるのも考えものです。なぜなら文が死んでしまうから。わたしはこれで失敗したことが何度かあります。

文章とは生き物です。どうなるか書き手にもわからない部分があります。書き手が予測不可能な部分を楽しみながら書かなければ良い文章は生まれません。

 

なのでわたしは

・この場面で張り巡らせておく伏線

・この場面で最低限描写しなくてはならないこと。

・全体の大まかなあらすじ

この三点だけを決めて書くことにしています。

この中で一番決めることが難しいと最近特に感じるのは、二番目の最低限描写しなくてはならないことを決めるときです。

どの段階でどの程度情報開示するかは全て筆者に委ねられています。わたしはミステリーを描いているわけではありません。

しかし、すべての物語は多かれ少なかれ謎解きの要素を持っていると思っています。

 

だからこそ、此処でどの程度情報開示するべきか相当に頭を悩ませるのです。先日アップした「海のなか」でも、かなり悩ましかったです。

 

皆さんは小説を書いたことがありますか?どうやって書いてますか?よかったら教えてくださいね。

 

なぜ、わたしがこんな記事を書こうと思ったのか、そのきっかけになった本を今度ご紹介したいとおもいます。

 

マニアックな話にお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

文中の自作小説はこちら。

 

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小説・海のなか(5)

前話はこちら。

 

 

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***

 


 閑散とした駅を後にして、気がつくとわたしは歩き出していた。その感覚は自ら歩いているというより、誰かに導かれて、という感じだった。考えなくても勝手に身体が動いていく。未知の感覚に全神経が集中していた。心地よさがいつのまにか胸を満たしている。こんなふうにつれてきてもらったことがある気がする。誰かに手を引かれて、ずっと昔に。

 不思議な声は海に近づくにつれ、大きくなっていった。繰り返し聞けば聞くほど奇妙な響きだった。無性の響き、とでも言えばいいのだろうか。何度聞いても、男のようにも女のようにも聞こえる。無性のイメージは青とつながっているようにも思えた。揺らめく水面のようにその印象は絶えず変わり続け、捕らえがたい。記憶の中にある青の声と繰り返す響きとが混ざり合って境界が曖昧になってゆくようだ。その様を味わう心地は、恐ろしいような、ふさわしいような言いようもないものだった。

 海沿いにしばらく歩いていくと、船着場にたどり着いた。穏やかな海面の揺れが、船をコンクリに鈍く打ちつけているのが聞こえた。船着場の向こうの海は胸が切なくなるほど美しく煌めいている。向こう側には島も見えた。向島だ。

 船着場の一部は海の方へと長方形に迫り出していた。白い足場と深い海の色のコントラストが目に染みる。

横に二つ並べられた古い木製ベンチには見覚えがある。所々かけてはいるけれど、「手作りアイスクリーム まきの」と読むことができる。

ーーーきっとわたしはここにきたことがある。

 そう思った瞬間、何かが蘇った。

暖かな手の感触、わたしより高い背丈、縮れた白い髪、暖かな声。

「手を離しません」と唱える幼い声。

 何かを忘れているのだ。大切だったはずだ。何にも替えがたいほどに。ーーーそれなのに。嫌だ、思い出したくない。

 周囲の光景が歪んで見える。天地が揺らぎ、耐えがたいほどの耳鳴りに襲われた。

まるであの時のようだ。青とあったあの日、気を失う寸前。

 「あおっ」

 無意識のうちに、わたしは彼の名前を呼んでいる。息ができない。ここに水はないはずなのに。過呼吸の時のように、喉からは嫌な息切れの音がしている。胸が詰まって涙がこぼれた。

赤い。いつのまにか、膝小僧からは血が流れている。どうやらわたしは立っていることを放棄したらしい。

 太陽に焼かれた地面は熱いはずなのに、身体は震えるほど寒かった。寒くてたまらないのに汗が止まらない。

「あおっ!あお!」

 もう、声が出ているのかすら怪しい自分の叫びが他人の声のように聞こえた。視界はどんどんあやふやになっていく。その間にも不安は潮のように容赦なく足元に満ちてわたしを沈め、溺れさせてゆく。

「青…たすけて!」

 すると突然、波が眼前に立ち上がった。視界がまた海に染まっていく。今ならわかる。恐ろしいほどわたしはこの瞬間を待ちわびていた。耳元で激しい水音がする。波に喰われてゆくその最中、胸が震えるような懐かしい感触を覚えていた。

ーーーわたしはこの息苦しさをずっと昔から知っている。

 海に覆われた景色はあの時と同じ色をしている。もう、自分が泣いていることさえわからない。わたしの瞳を濡らすものはもう何もない。

 ああ。わたしは一体いつから溺れているのだろう。

(ツカマエタ)

愛しいはずのその声は、忍び寄るような響きでわたしをいつのまにか支配していた。

 


***

 


 痛みを感じた。

 じわじわと蝕むような痛みだ。

 それは拍動に合わせてだんだん強くなってゆくようだった。ーーーそうだ、あの痣。青い痣が痛む。そういえば今日は一度も確認していない。あれだけ毎日眺めていたというのに。大切なものをないがしろにしてしまったような後ろめたさを感じながらも、わたしは足元を見ることができなかった。なぜだろう。見てはいけない気がした。見てはならないものがそこにはあるような。

 迷っているうちにどんどん痛みは激しくなっていく。まるでわたしを責め立てるように。骨が生きたまま朽ちていくような痛みだった。

みろ。

みろ。みろ。

みろ。みろ。みろ。

見ろ。

「…っ!」

 わたしは思わず恐怖と痛みに悲鳴をあげそうになるが、開いた口からは声が出てこない。次第に見ることを強いる力は強くなって、見ないわけにはいかなくなる。

 もう、見えてしまう。見てはいけないのに。

 ーーー誰かが呼んでいる。

 「…なぎ」

 「夕凪」

 「夕凪!」

 いつのまにか閉じていた目を開けると、そこは海のなかだった。目覚めると同時に口から大きなあぶくがひとつのぼっていく。身体が熱を帯びていた。息が荒い。感覚を取り戻すにつれ、全てが夢だったとようやく気がついた。まだ混乱したままの頭で起き上がり、そっと足を見る。正確にはそのくるぶしを。

 夢だと分かっていてもまだ怖い。足に被ったスカートを少しずつずらすと痣が露わになった。やはり手の形に似ている。少し色が濃くなったような気がした。暗い海の中で肌の白さが際立つせいだろうか。知らず知らずのうちに詰めていた息を吐き出していると、すぐ近くで声がした。

「夕凪」

 顔を上げると、すぐ目の前に何度も思い出したはずの微笑があった。

「青…っ」

  たくさん言いたいことがあったはずなのに、次の言葉をつげない。ここが地上だったなら、わたしは涙を浮かべているのだろう。

  「随分とうなされていたみたいだけれど、大丈夫?」

  まだ声の出ないわたしは何度もうなずくしかなかった。こんなことは初めてだ。泣きたくなって喉が詰まるなんて。

 正面から彼の視線を受け止めると、それだけで幸せだった。彼の慈しむような微笑みはわたしの想像を遥かに超えて美しい。青の美しさは一流の彫り師が仕上げた美術品の美しさだ。けれど、彼が微笑むたびにその完璧さがわずかに緩み、生き生きとした気配が隙間からこぼれおちていくように見えた。

「きっと来てくれるって信じてたよ、夕凪」

  まだ信じられない。想像に溺れて現実と夢の境目がわからなくなっているだけなのでは。本当はわたしは一人きりで…。

 「触るといい。僕はここにいるから」

 青はわたしの手をとると、自分の頬にそえた。ひんやりとしている。その冷たさに安らぎを感じながらも、どこかでは不安だった。ひんやりとした感触はわたしと青が違うものだと思い知らせるようだったから。わたしは青からいつまでも手を離すことが出来なかった。彼に触れている間だけは一人ではなかった。この時が永遠に続くなら、初めて心から幸せを感じることができるのかもしれなかった。けれど、今が満たされれば満たされるほど、喪失の予感は強くなっていく一方だった。

 あたたかさはだんだんと青に吸い取られてゆく。お互いの体温が馴染んで一つになっていく。混じり合ったぬるい温度はどこか懐かしい気配がした。

 冷たさに酔いながら、ただ彼の澄んだ瞳を見つめていた。瞳は漆黒に一雫鮮やかな青を垂らしたような不思議な色をしていた。いつまでも見つめてしまうような奥深い色。青は頬に当てたわたしの手にずっと自分の手を重ねていた。

 「会えてよかった。本当に。神は僕の願いを聞き届けたようだ」

「神様がいるの?」

「ああ。いるよ。……僕は会ったことがある」

 彼の瞳は長い睫毛の下で静かに濁り、光を失っていた。微かな違和を覚えた。神について語る人がこんな目をするものだろうか。

  「君なら神に何を祈る?」

 「わたし…?」

 その時、気がついた。今まで切実になにかをしたいと思ったことがなかったということに。わたしには望みがない。つよい欲望も、なにも。

 「わからない」

 気がつくとそう呟いていた。

 そうか。わたしは空っぽなのだ。

 そんな独り言のようなものが静かに胸の内に降りてきた。その時初めて、わたしという容れ物の中身を目の当たりにしたような思いがした。 

 「いつか、君も何かを欲する時がくる。その時が来たら、海神に祈るといい。あの方はきっと全てを叶えてくださるだろう」

 青はどこかを遠くを見つめているようだった。彼の魂はここではないどこかにある。それなのに青の声には一切の揺らぎがなかった。そう。まるでこの先になにが起こるのか全て見通しているかのように。

 「なぜわかるの?」

 「僕もかつて祈ったからさ。そしてその願いは叶えられた」

 言い終えると、青はまた真っ直ぐにわたしを見据えた。その瞳の深さに思わず息を呑んだ。危ういほどの美しさは魔を宿すようにも思える。あの深みに招かれ捕らえられるならば、きっとこの先何も望むことなどないだろうという気さえした。

 「君は必ず祈ることになる。何かを欲することなく人は生きることなどできない。だから、もう少しだけ。もう少しだけ考えてごらん」

    いつか、わたしも望むのだろうか。この胸の内を臆することなく誰かに訴える日が来るのだろうか。

  「ねえ。夕凪」

 「ずっと、会いたかったよ」

 青の声は柔らかく耳に馴染んでいく。わたしの望みはすでに叶えられているのかもしれない。此処で二人こうしていること。ただそれだけでいいのかもしれない。そんなことを考えながら、尾を引いて消えてゆく綺麗な声に耳を澄ましていた。

 「うん…」

 それでもやっぱり答えは出せない。まだ口にはできない。わたしは求めてしまうのが怖いのだ。わたしは何も持っていないから。

知らないうちに、青の頬から手が滑り落ちてゆく。あんなに離れ難く思っていたのに。ああ、冷たさが遠ざかる。

今のわたしにできるのは、あなたの名前を呼び続けることだけなのに。

 

***

 

海のなか(6)へつづく。

 

次話はこちら。

 

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ゆら帝が素晴らしすぎてそろそろ空も飛べる。

この間運転中、延々1時間半ゆらゆら帝国を聞きながら爆音で歌っていたら、最高すぎてそろそろ空がとべそうなんで、今回は天井知らずなゆら帝への愛を語りたいと思います。

 

※今回かなりうざいです。許して。

 

現在クロミミのアイポットには

「空洞です。」「3×3×3」「sweet spot」「YURA YURA  TEIKOKU   LIVE2005-2009 Disc1」「YURA YURA  TEIKOKU   LIVE2005-2009 Disc2」「な・ま・し・び・れ・め・ま・い」「ミーのカー」「ゆらゆら帝国のめまい」「ゆらゆら帝国のしびれ」「1998-2004」「1998-2004」

が入ってる。これをひたすら全部ミックスして聞いていた。

 

わたしが一番好きなアルバムはやっぱり「ミーのカー」

まじで神曲しか入ってない天国が出現する。ズックにロックの歌詞が好きすぎる。

「あの子は口でバナナ剥いて 食べたらすぐに涙拭いて」というところが好きすぎて友と行ったカラオケで毎回何回か歌う(迷惑)

 

つづく、「アーモンドのチョコレート」も好き大好き。あのどうしようもない快楽主義な世界観がたまらん。あんな風に破滅的でありたい←


ハチとミツも好きすぎる。
リズム感が他にはない感じ。半端なくエロい。どうしよう。あの色気がいつか手に入ったら泣く。

19か20も神。ズンと重い感じのリズムが一体となってずるずる気怠く進んで行く感じがまじでゾンビの音楽感ある。たまらぬ。

てーか、全部好きなんですけどどうすればいいんだ。(壁ドン)←どうもしなくていい。



あと、「3×3×3」っつーファーストアルバムな!たまんねーよあれ!!!

わかってほしい〜発光体までのながれにまじで鳥肌たつ。わたしのなかのパリピが目覚めてしまう。わかってほしい何回聞いても好きだわ〜昆虫ロックもマジカッケェ。

 

てか、最初聞いた時は微妙かも、とか思ってた「sweet spot」も最近めっちゃハマってる。あーーーもう重傷ですわ。これは。タコ物語とか意味わからんけど謎にいいよね。

 

坂本慎太郎が一人でカバーしてる「イエスタデイ・ワンス・モア」(「1998-2004 Disc2」に収録)とかほんま感動しすぎて何度聞いても涙でる。感情がすごくこもった感じの歌声ではないのに、聞いてるこっちは泣かされてしまう。淡々とやってて感動を誘うとか最高に理想すぎる。惚れた。

つーか、日本語歌詞めっちゃいいなって調べたら、日本語訳語が坂本慎太郎だったんですけど。は???神すぎてキレそう。

 

しっとり系のゆら帝の曲といえば、やっぱり「つぎの夜へ」。これ聞くと、半端ない多幸感に包まれて寝れます。好きすぎて歌詞メモって穴開くまで眺めてたからな!!!(変態)

 こんな感じ。

 

 

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ゆーか、常々思ってたんやが、ゆら帝舞城王太郎の世界観にめちゃめちゃ合うと思う。(「ディスコ探偵水曜日」「九十九十九」とか特に。)

あと、絶対に芥見下々「呪術廻戦」のオープニングにゆら帝の「発光体」がぴったりだと初めて読んだ時から思ってんだけど、わたしだけなの???

 

アニメ化するらしいじゃん?

オープニングにゴリ推すわ。

↑だから?

 

 

 

おほん。

 

とにかく、これを読んだ人はここに上がってる曲は全て聴くように。(ウルセェ)ゆら帝を聴かないなんて日本人に生まれたメリットの半分すててるようなもんだからなっっっ!!?

 

 

それではありがとうございました。

 

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詩を書くことはリハビリみたいなもの。

(大幅に改稿しました。)

 

 

今回はわたしにとっての詩を描くことについて語らせていただきます。お付き合いください。

わたしが詩を描き始めたのは、中学生の頃。そのころは日々の鬱憤が溜まりに溜まって描いたものでした。小説も部活の合間にかいてたなぁ。(クロミミは合唱部。)

その頃は、ただ感情の捌け口としてかいていました。

けれど高校になった頃、私にとっての詩が変わった。

その頃から「自分の文体」を模索し始めたからだった。ある時は米澤穂信の文体に影響を受け、ある時はレイ・ブラッドベリ文体を踏襲して習作を書く。

しかしなぜだろう。いつまで経ってもわたしのスタイルが決まらない。大好きな作家たちの文章のように自分の文章を読んでも一向にときめかない。

 

そう悪い文章ではないはずだ。

けれど普通だ、と。

(これは当時は、という意味。今読むと多分目も当てられない。吐く。)

また、表現する上で「普通」というのはただ普通という評価ではない。普通のものは決して人の中に残ることはできない。創作物がが人の心を揺さぶりその印象に残るということを目的としている以上、何らかの違和感がなければ話にならない。

 

普通というのははっきり言って、創作物としては下の下。何の特徴もないゴミ以下。ということになる。

 

多分この頃から薄々気がついていたのだが、わたしが理想とする小説の文章とは、今の一文が次の一文を生み出すような文章である。

ちょうど一本の糸を紡ぐような一体感のある文章を書きたかった。

そんな時に思いついたのが詩を描くように小説の文章を描くこと。頻繁に詩を描くようにすること。

私にとって詩は日常言語からの飛躍をわかりやすく行える表現形態だった。韻律を重視して、リズムに敏感になるからかもしれない。

 

わたしの考えでは小説の言語とは、詩と普段使う言葉とのちょうど中間に位置していると思う。

 

詩は小説よりもさらに言葉の響きが重要視される表現方法だ。

詩を意識することによって、ストーリーを進行することに囚われるのではなく、より言葉の響きを重視しながら描けるように少しずつなっていった。

 

何年もたった今でも自分の文体はなかなか定まらないが、少しはマシになったかな、と思う。

 

詩を描いて分かったのは、わたしは詩人にはなれないだろう、ということだった。多分言いすぎてしまうのだ。いつまで経ってもいいものが書けない。

 

詩という表現形態は本当に「削る」ことを必要とするものだと思う。文章を書く上で、「削る」ことは実は描くよりも圧倒的に能力と気力が必要になる。削る作業のクオリティが文章のクオリティを左右する。そういう意味でも、かなり詩を描くという作業は良い訓練になったと言える。

 

本当に心から詩を書ける人を尊敬している。

 

なので、ブログで詩を描いている時は大体自分の小説に嫌気がさしている時だ。「あ、こいつ煮詰まってんな」と、温かい目で見てやっていただきたい。

 

 

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幸不幸は比べられない。

「〇〇に比べたらわたしなんか幸せだよね。」

 

という感じのフレーズを、生きてきた中で幾度となく聞いた覚えがある。つい先日、職場でもこのフレーズを聞いた。

〇〇には隣人でも、紛争地帯の子供達でも、あるいは肉親でも、とにかく他人であれば何でも当てはまる。

わたしはこのフレーズに幼い頃から違和感を覚えてきた。実は最近までなぜこんなに違和感を持つのかわからなかったのだが、最近はっきりしたので書いておきたい。

 

それは、「幸福も不幸も相対的なものではないから」である。自分が幸福かどうかは他人と決して比べられるものではないからだ。

 

幸福だと感じるのも、不幸だと感じるのも、結局は自分ひとりである。他人は決して感じることができない。せいぜい他人にできることは、相手の気持ちを想像して黙って寄り添うことだけである。

 

「いや、わたしは〇〇の痛みを感じることができる。感じている。」

 

とおっしゃるかたもいるかもしれないが、誤解を恐れずいうのであれば、その考え方は傲慢だと思う。確かに、他人に寄り添うことはできるし、ある程度まで仲が深まれば理解も進むだろう。

だが、忘れてはいけない。たとえ親と子であろうとも人間の全てを理解することなど到底できない。

これはわたしが二十数年生きてきて、実感したことだ。どれだけ明るく朗らかな人でも、決して他人が理解できない部分、踏み入ることのできない部分は存在する。

だからこそ、我々は常に他人に対してある種の「おそれ」をもって接しなくてはならない。

 

わたしはかつて、母や父はわたしを全て理解してくれるもの、と思いこんでいた。

だが二十数年経っても全てを理解される瞬間は訪れない。

当たり前だ。

わたし自身でさえ、わたしという生き物の全てを理解できないのだから。

言語化できる領域というのはごく表層に過ぎない。人間の核心はむしろその奥の奥にあると考える。

 

だからこそ、わたしは小説を描き続けているのだと思う。小説は言語化できないものを理解するためのツールとして最適なのだ。

 

話が逸れてしまった。元に戻そう。

 

つまり結局何が言いたいかというと、

幸不幸は自分が決められることだということだ。

 

どれだけ金と名声を手にしても不幸な人はいるだろうし、どれだけ貧しくても幸せな人はいるだろう。

 

一番大切なのは、「他人から見てどうか」ではなく、「自分がどう感じているか」ということひとつである。ここから目を逸らしてはいけない。

もっと幸福に貪欲になるのなら、まずは自分と対話し、どういう時に自分が不幸か、または幸福か考え続けるべきなのだ。

その思考の積み重ねこそが、人生を幸福に導くのではないか。

小説・海のなか(4)

 

前話はこちら。

 

 

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第三章   盲目的な幸せ

 

 いつもそうであるように、台風はあっという間に通り過ぎて、週末は雲ひとつない真っ青な晴れ模様となった。目の眩むような空の青さを見続けていると、何か途方もなく大きな怪物の口を前に立ち尽くしているような気分にさせられる。きっとわたしには大きすぎるのだろう。

 不意に、ため息が出た。せめて雨ならばよかったのに。そうすれば嵐のあの日感じた快感をもう一度味わうことができたかもしれない。あの日の昂りを忘れられない。嵐は去ってしまった。もう、力を借りることはできない。

 でも、過去に遡っていくうちにこれでいいと思い始めていた。初めて青にあった日ーーーあの日もこんな天気だった。あの日と何もかも同じの方が青に会える気がした。

 寂れた電車の中には溺れたあの日と同じように暖かな陽光が降り注いでいる。安穏とした気怠い雰囲気が車内に満ちて、考える力を失わせるようだ。あの日と何も違わない。ただわたしのそばに誰もいないだけ。

 一人きりでいるとやけに扇風機の音が大きく聞こえた。一人なんて慣れっこのはずなのに。わたしは誰といてもどこにいてもひとりだ。今までも、これからも。

「…青」

 陸に戻ってから幾度となく口にした名前がまたこぼれ落ちてゆく。その呟きは誰に掬い上げられることもなく、電車の軋みの中に消えていった。陸でのわたしの言葉はこんなにも小さい。誰一人、わたしを見るものなどいない。

 早く空白を埋めたい。青に会いさえすれば何かが変わる気がした。海が、青が、わたしを呼ぶから。わたしを心から必要とする人など、きっと陸にはいない。

 正直、本当に青に会うことを自分が求めているのかどうかわからなかった。もしかしたらわたしは快感と充足をもう一度味わいたいだけなのかもしれない。それだけあの数瞬は完璧に満たされていた。あれさえあれば何もいらないと思うほど。嵐の去った後にはただ果てしない飢えだけが残されている。もうどうしようもなかった。わたし一人では。

 不意に視界が黒く染まる。電車は短いトンネルに入ったらしい。もうすぐ目的地に着くはずだ。窓ガラスには鏡のようにくっきりとわたしの顔が写り込んでいた。なぜかその顔にわたしはいつのまにか青を重ねて見ている。あの美しい人とわたしなど似ても似つかないはずなのに。でも、それで十分だった。ほんの少しでも彼を身近に感じることができるなら。そっと額を窓に押し当てて呟く。

「青…」

(はやくきて)

突然聞こえた声にわたしは目を見開いた。窓ガラスの中の「わたし」の口が滑らかに動く。自分の口を手で押さえたけれど、その手はなぜか窓に映らない。これは、わたしではない。

(はやくきて、夕凪)

「青…!」

 驚きのあまり叫んで立ち上がると、同時にトンネルが途切れた。目の前が突然色彩を取り戻した。眩しくて顔をしかめていると、間延びしたアナウンスが聞こえる。海についたのだ。電車の止まる衝撃でたたらを踏み、とっさにポールに縋り付いた。

はあっとひとつ熱い息を吐き出した。何をしたわけでもないのに、息が苦しい。心臓の鼓動が痛いほど内側から突き上げてくる。そう。まるで嵐の日のようだ。他の乗客たちは怪訝な顔でこちらを見上げていた。不審に思われたのだろう。羞恥に顔が熱くなっていくのを感じる。

 正気に戻ったわたしは転がり出るように電車から降りた。降りたった瞬間、潮の香りが全身を包む。身体中が目覚め、欲しているものがここにあるとはっきりわかった。

 耳の奥ではまだ誰かがわたしを呼び続けていた。その響きは確かに、あの日ホームで聞いたあの美しい声と同じだった。電車が過ぎ去った向こう側には海が見えていた。美しい青がわたしを呼んでいる。わたしは誘いにあわせて、また何度も呼び続けた名前を口にした。

***

 

 

海のなか(5)につづく。

 

 

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