KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

キリンジは俺の血液。

本日わたくし半休もらって職場から直で実家へ帰ったのですが。

(職場から実家まで車で2時間かかります)

 その間ずっと運転しながらキリンジを聞いてたわけで。

皆さん、キリンジって知ってますか?

キリンジというのは堀込高樹堀込泰行の兄弟ユニットである。今は解散して泰行はソロで、高樹は別の複数人とかとユニット「KIRINJI」で活動してます。

ジャズだったりロックだったり色々なジャンルの音楽がミックスされたオサレ曲が揃う神。

わたしがキリンジを聴き始めたのは小学生の頃。母が聴いていたんですね。多分人生で一番最初に聴き込んだユニット。

大概のキリンジ曲は聞いてますが、やはり名曲揃い。わたしは高樹作詞のやつが好き。

 

ダンボールの宮殿(パレス)」

 

高樹作詞。

歌詞がひねくれててやっぱり好き。永遠に聴いてた。すげーたまらんくてゾクゾクくる。

「負け犬は路地で嘔吐 真夏にキャメルのコート

冷たい汗の濃度が跳ねあがる夜」

っつーやばいサビを描いてくれるのはやっぱり高樹だけ。

 

「かどわかされて」

 

高樹作詞。

皮肉な歌詞が漂うような曲調にめちゃめちゃハマる楽曲。初期曲なこともあってかなり聴き込んだ。

 

 

「家路」

中高の頃に、これをチャリ漕ぎながらいつまでも大声で歌っていた。(ど田舎なので滅多にすれ違う人とかいない。)前奏からめちゃ好き。カッケェよな〜。気が狂うまで聴いてた。この主人公はどこに向かうつもりなんだろう…とか考えちゃう。個人的に、中村文則と重なるなーとか思う。

 

「風を撃て」

もはやわたしの血液。

人生に密接に絡まりすぎてなぜ好きなのかわからないが好き。(これはキリンジそのものについても言える)とりまファーストアルバムのクオリティがやばいと思う。

 

「野良の虹」

奇妙なエロが素敵な楽曲。

でもなぜかエロとかわかんない小学生の頃から好き。空虚な解放感がくせになるのやも。

 

他にもいろいろ。

「双子座グラフィティ」(これ聞くとテンションかちあがる。)「十四時過ぎのカゲロウ」「イカロスの末裔」

「golden harvest」「自棄っぱちオプティミスト

「影の唄」「太陽とヴィーナス」「血を這う者に翼はいらぬ」「玩具のような振る舞いで」「愛のcoda」「スィートソウル」「手影絵」「子狼のバラッド」「夢見て眠りよ」「ビリー」「雨をみくびるな」「代官山エレジー」「drive me crazy」「唐変木のためのガイダンス」「冬来りなば」「祈れ呪うな」

などなど。

 

 

好きなアルバムは

「オムニバス」「7」「FINE」「ten」「ペーパー・ドライヴァーズ・ミュージック」「47'45"」「2in1」

「KIRINJI 19982008anniversary」

とりま、聴き始めるのなら

「2in1」か「KIRINJI 19982008anniversary」

キリンジのエッセンスが詰まってます。

 

車内でキリンジを歌っていると、母がよくわたしを隣に乗せて歌っていたことを思い出しました。わたしがだんだん勝手の母の姿に重なるような…なんだか不思議で懐かしい経験でした。

 

ぜひ、キリンジ沼へおいでませ。

 

 

他の音楽がたりはこちら。

 

kuromimi.hatenablog.com

kuromimi.hatenablog.com

 

 

 

共感だけでは限界がある。

よく書籍のレビューで酷評する際、

「この小説の主人公にはどうしても共感することができなかった」

というような内容をよく目にする。

 

果たして、共感する必要があるのだろうか。

そして「共感できない」ということは酷評するに値する理由なのだろうか。

 

わたしは少し違うと思う。

読書にはざっくり分けて主に二種類があると考える。

「共感的読書」と「傍観的読書」だ。

 

前者は先ほど挙げたレビューのような読み方。

登場人物に自分を重ねて自らの過去を追体験するような読み方だ。無論わたしもこの読み方をしばしばする。自分の人生が物語の一部になったかのような快さを得られる素晴らしい読書の仕方だ。

 このような読書を多くの人はしているように思う。ただ、この読み方には一つだけ欠点がある。それは「共感」によって得られる快感を読書の原動力としているが故に、共感できなければ読書を全く楽しめなくなってしまう、という点だ。

 

ここでもう一つの読み方を提案したい。

それが「傍観的読書」である。

この読み方の特徴は、そのまま傍観者の立ち位置で読書する、ということだ。

「傍観的読書」と前者との違いは、読者と小説の距離にあると思う。

「共感的読書」をする場合、読者の心は登場人物のより近くにある。しかし、「傍観的読書」の場合は読者は小説を眺める位置、つまり野次馬とでもいうべき立ち位置にあることになる。

 

この読み方は多分伝記や自伝の読み方に近いのではと思う。伝記や自伝を読んで人は共感しながら読むだろうか。きっと、「へぇー、こんなことがあって大変だったんだ」「この出来事をわたしはこう捉えたけどこの人はこう考えるんだ」「この人ってこんなに凄い人だったんだ」と読むのではないか。

わかりやすくいうのであれば、これが「傍観的読書」である。

 

この読み方ができれば、共感だけに頼ることなく読書を楽しむことができるので格段に読書の幅は広がるはずだ。

また、「傍観的読書」は先日話した「驚異を感じるような読書」の際に役立つ。

 

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

なぜなら「傍観的読書」をする場合、作品を全て理解することができなくても作品を楽しむことができるからだ。

また、この読み方をすると読者は頭の中で内容を自分流に噛み砕き整理しながら読むことを要求される。そのため、話の筋を整理しながら読む力がつきやすくなるはずだ。ぜひ試してみて欲しい。

実は「傍観的読書」についてはこの記事のドストエフスキーの項に於いても少々触れている。

 

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

実はさらに物語を突き放した角度から読む三つ目の読み方もあるのだが、それはまた別の機会に語りたい。

皆様がもっともっと読書を楽しめますように。

 

他にも読書について書いています。

 

 

kuromimi.hatenablog.com

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詩・「愛を乞う」

どうして、と問わないでください。

 


わたしにはもうわかっている。

あなたが何を知りたいのか。

 


全てを明け渡せと言いたいのなら、

ただそこでみていて。

 


わたしはもう 知っているんです。

あなたもわたしも ろくでなしだってこと。

 


問うのは誰のためなのか

知るのはなんのためなのか

あなたはきっと考えたこともないのでしょう?

 


だから「待って」と言っているんです。

わたしが語りだすその時まで。

 


待つあいだ、そのあいだ

 


わたしのことを考えてください。

 


そうしてわたしを愛してください。

 


そうしたらきっと 

 


あなたは初めてわたしを


愛しはじめるでしょう。


そうしたらわたし、

あなたのことを愛せるかもしれません。

 


さあ。

 


だから もう 黙って。

 

 

他の詩はこちら。

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

kuromimi.hatenablog.com

 

詩・「今」

灰色の塵が 積もり積もって

 


これからどこにゆくのだろう。

 


扉を開けるたびに思う。

 


明日は知らない明日がいい、と。

 


どうしようもない思いを

 

口にするのをやめにして

 


一体どれほど経つだろう。

 

 

 

いつになれば止むのかと

 

問いかけることもとうにやめた。

 


答えはここにない。

 


わたしは変われなかったから。

 


誰か 犯してくれ、

どうしようもないほどに。

 


いつまでもそう言って

いつまでもそうやって

 


足踏みばかり。

 


色がないのはわたしのせい。

変わらないのは 変わりたくないから。

 


今 もう一歩が欲しい。

 


その先に なにもなくても。

 

「驚異」を味わうことこそ読書の真髄。

先日、わたしは以下の記事で小説における文章について、「平易な言葉を使って優れた文章を描くことが理想」ということを言った。

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

今回はこの記事に補足してもう少し深い話をしたいと思う。

この記事において、わたしは難しい言葉に固執しすぎると「硬く流れの悪い文章になる」と言った。

 これは万人に対してわかりやすく書くべきだ、ということと同義だろうか?

否である。

特に文学などの領域においては否、であるとわたしは考える。

なぜなら、小説や評論を読むことの大きな楽しみの一つに

「未知の領域を味わう」

というものが少なからずあると考えるからだ。

 時々、読書をする際にすぐ挫折してしまう人がいる。もしくは数ページか読んですぐに「無理だ」と見切ってしまう人が。

 こういう人によく見られる傾向として、「読むからには内容の全てを理解しなければならない」という強い思い込みがあるように感じられる。

 わたしの大学時代の先輩にもそういう人がいた。その人の読書の仕方を否定する気はさらさらない。しかし、そういった読み方はわたしにはいささか窮屈に思える。

 

 わたしも時折、自分の能力を超えた本を手にすることがある。そういった本を読むとき、わたしは決して全ての内容を理解しているとは言い難い。これは単に読むフリをしているのではない。

要は能力以上の読書をしながら「自分の限界を知る」行為なのだ。

ここまではわかった。ここはわからない。

そういう部分を乗り越えながらとりあえず一冊を読見通す。時には読み通せないことだってある。

こういう身の丈以上の一冊に手を伸ばす行為はわたしに「理解の外」を味わせてくれる。

お前にはまだ、できないことがある。

知らないことがある。

わからないことがある、と。

わたしにとっての一番の恐怖はこの世に未知がないことだ。

何もかもを知り尽くしてしまったら、わたしの欲求は行き場を失いやがて腐ってしまうだろう。

 

読書とはわたしにとって、最も手軽に未知を味わうことのできる行為なのだ。

 

そして、「理解の外の世界」を味わせてくれる文章は「わかりやすくはない」が「優れたもの」であると言えるのではないだろうか。

 

本当に優れたものを読んだ時、人はそれをなかなか忘れられないものだ。一種のトラウマのように、たった一つの創作物が人生の一部のようになってしまう。わたしもそんな経験をいくつかしてきた。そして、このような文章は読者が内容をきちんと理解できているかどうかを飛び越えて衝撃を与えるものだ。

 

いつか、そんな驚異のある文章をわたしも描きたい。

 

 

皆さんはどんな読書をしているだろうか?

小説を描くのに必要なのは、言い回しの巧みさ。

 どうも。クロミミです。

 先日、ある方からコメを頂いたときに考えたことについて今回は語っていきたいと思います。

 皆さんは、小説を描くときにたくさんの語彙は必要だと思いますか?

わたしは必要だと思います。

 ただし、この語彙という言葉に惑わされてはいけないとも思っています。なぜならわたしが小説を作るのに必要だと思うのは、厳密に言えば語彙の豊富さではなく、語彙の一部である「言い回し」の巧みさであるからです。

 わたしの愛する素晴らしい作家たちの文章を思い返してみると、彼らの文章には決して調べないと分からないような言葉はほとんど使われていません。

 彼らの文章が優れているのは単に言葉が豊富であるからではなく、言い回しが豊富だからだ、と考えます。

それは「視点の多様さ」と言い換えることができるのではないでしょうか。

 わたしが読書をしていてこの描写がすごい!と思うとき、その作家の場面の切り取り方、視点の置き方、またそれを表現する言葉選びに独自性があることが前提条件であるように思います。この独自性を味わうことも読書の楽しみの一つではないでしょうか。

 

 では、なぜ小説を描く際、「語彙という言葉に惑わされてはいけない」のでしょう?

 この言葉はわたしの実体験に基づいたものです。単純にいうと難しい言葉、目新しい言葉に固執しすぎると、硬く、流れが悪い文章になりがちだからです。

「良い文章をつくる」ことが目的のはずなのに、「難しい言葉を使う」「かっこいい言い回しを使う」ことに目的がいつの間にかすり替わってしまう。こんな経験をわたしは過去に何度もしてきました。

語彙が豊富=良い文章

ではない。

言い回しが巧み=優れた文章

なのです。ですので、理想を言うのであれば、平易な言葉で優れた文章を構成するのが最高、ということになります。

 

ただし誤解しないで欲しいのは、決して小説を描く上で語彙は必要ないと言っているのではないということ。語彙が多ければそれだけ選択肢が増えますから、必ず描きやすくなります。優れた視点を持っていたとしてもそれを文章として表現する術を持たなければ意味がありません。

 

わたしは読書をするとき、作者がどのように視点を操っているか、どのように言葉を使っているかに注目しながら読んでいます。このような視点を持って小説を読むことは、間違いなくわたしの文体を醸成するのに大きな役割を果たしています。

 

 創作において、たくさんの優れたサンプルを手に入れることのできる読書という行為は小説を描く上で大きな手助けになることは間違いないはずです。

 

他の創作語りはこちら。

 

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

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「言えないから」小説を描く。

 

以前私はこんな記事を書いた。

 

kuromimi.hatenablog.com

 

 

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 この二つのテーマは自作の小説でもよく扱うものだ。

 でも、こんな記事を書けるならわざわざ小説書く必要なくない?と思う人もいると思う。

 では、なぜ私は小説を描くのだろう?

 単に小説を描きたいから?何度でも表現したいテーマだから?もちろんそれもある。しかし、それでは不十分だ。

 わたしは「うまく言えないから」小説を描くのだ。

 前述した記事で、わたしは一応他人に分かるようにテーマについてひとしきり語った。でも、全然満足できなかった。

なぜなら語る過程で致命的に抜け落ちてしまった部分がある、と記事を書いている最中から感じていたから。大切なニュアンスのようなもの。本当に伝えたかった核の部分が損なわれてしまったのだ。

 

 こんな経験は一度や二度のことではない。人生上で幾度となくあった。言葉を尽してもどれだけ力を込めても伝わらない。そんな虚しさを何度も繰り返し味わってきた。

 そして、そんな虚しさからわたしを解放する唯一の手段が「小説を描くこと」だったのだ。

 小説では伝えたいことを、例えば人物の性格に託す。例えば人物の考え方としてこめる。例えば場面や状況を使って表現する。

 

 そうして小説を一つ書き上げた時、わたしはやっと満足することができる。

  「ああ、やっと全部言えた」と。

 小説を描くということは、テーマを常に何かに託して表現するということだ。ストレートに伝えようとすると変質してしまう何か。それは他のものに託されることによって、ようやくそのままの形で伝えることができるようになる。

 

 口に出して伝えられないことは山ほどある。

 わたしにとって、小説を描くことはうまく伝わらないそれらを、口に出す以外であますことなく伝える、ということなのだ。

 

 わたしはこれからも小説を描き続けるだろう。わたしの中に「言えないこと」がある限り。

 

なぜ皆さんは小説を描くのだろう?是非尋ねてみたいと思う。